恋人はいません。
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 朝早い時刻、駅は閑散としていた。
 私は買ったばかりの切符をカバンに入れて、改札の向こうに見える線路を眺めていた。年末から降り続けた雪が、まだ線路脇に白く残っている。冷たくなった指をコートのポケットに突っ込んで、駅を出た。鼻歌混じりに、駅前のロータリーを横断する。
「たまちゃん?」
 背中にかけられた声に、首をすくめたまま振り返った。
「―――駒井?」
 改札を抜けてきたばかりのその女は、高校の時の友人だった。

 成人式以来だねと、駒井は柔らかな声で話す。
 ちょっと立ち話、というには寒すぎて、駅近くの喫茶店に入った。私たちが高校生の頃、いつか入りたいと憧れていた店だと、不意に思い出した。
 駒井は隣のクラスの体育委員だった。陸上部所属でスタイルがよくて、性格はおとなしい。人見知りで口下手なのに、体育祭やクラスマッチで目立ちまくって、後からよく困った顔をしていた。私も走るのは得意だった。要は、お互いに陸上部でタイムを競い合う仲だったわけだ。
 十年ぶりに地元で会って、お互いすぐにわかるぐらいに面影は色濃い。というか、駒井は変わっていなさすぎる。ざっと見た感じ、体型も変わっていないように見えた。なんだそのぷりぷりの肌と薄化粧は。童顔の一言で片付けられない何かを感じる。

 駒井は観察されてると知ってか知らずか、カフェオレを美味しそうに一口飲んだ。
「たまちゃん、変わらないね。相変わらず綺麗。色っぽくてびっくりしちゃったー」
「どこがよ。すっぴんにカーゴパンツで、綺麗も何もないでしょうが」
 私も紅茶に口をつける。脇に置かれたガラスポットの中では、まだ茶葉がゆらゆらと舞っていた。
「いまどこにいるの?」
「神戸。駒井は?」
「こっちにいるよ、実家住まいじゃないけど。旅行から帰ってきたとこなの」
「私は帰ってきたの、五年ぶりくらいかなぁ。あんまり親がうるさいから、顔見せに」
 本当は、年末に祖母が急死したせいなのだけれど、あえて言わなかった。年始のおめでたい日に話したいことではない。
「たまちゃん、確か、大学卒業した後、大きい会社に就職したんだよねー。うちの親が話してた。えーと、どこだったっけ」
「―――入社一年目で辞めたよ。上司とケンカして」
「そうなの!?」
「うん。気に食わないヤツでね、ねちねち細かいことに文句ばっか言ってきてさ。部下に難癖つけてストレス発散するタイプだったんだろうね。
 何で怒られたか忘れたけど、ある日人のことを『お前』って言ったのよ。みんなの前で。それでブチッとなんか切れちゃって、『あなたにお前と呼ばれる筋合いはありません。こんな人が上にいる会社が伸びるわけないので、本日付で辞めさせていただきます』って、辞めちゃった」
「あはは、たまちゃんなら言いそうー」
「案の定、あの会社、外資系に吸収合併されたわよ。本当、さっさと辞めて良かった」
 まあ、今ならあんな上司相手でも、いくつかかわし方があるとわかるのだけれど。二十歳過ぎの若かりし頃、私の沸点は低かったのだ。見る人はちゃんと見ていると知ったのも、もう少し後のこと。

「たまちゃん、結婚は?」
 三十路女に、聞きにくいことをはっきり聞く。駒井はそういう女だ。
「してない。その気がないのに男ばっかり寄ってきてさー、好きだとはっきり言われる前にどう遠ざけるか、悩んでるとこよ」
「えー、贅沢な悩みだなぁ。私は一回したよ」
「そうなんだ。今は『駒井』?」
「そう。でね、今の彼氏にはね、他に本命がいるの。私が好きだって言ったとき、『僕にはずっとつきあってる人がいて、その人を裏切ることはできないので、転勤でこっちにいる間しかあなたといられないのですが、それでもいいですか』って馬鹿正直に話してくれたの」
 にこにこ笑う駒井に、紅茶を噴きそうになった。
 ……今のは、冗談ではなさそうだ。要は、二股かけていいですか、しかもあなたは二番目ですよ、と言われたのね。相手は単身赴任中のサラリーマンだろうか。
「―――駒井、それでいいんだ?」
「うーん、いいとか悪い以前に、条件付でもつきあえることが嬉しかったから。期間限定といいつつ、三年以上一緒に住んでる。仲良しだよー。
 もうね、びっくりするぐらい見てて飽きないの。映画一緒に見に行っても、私、あの人の顔ばっかり見ちゃう。映画の内容なんてまったく入ってこない。彼は映画好きだから、集中して見てるんだよ。それがまた格好いいの、真剣で。
 たまちゃんが何考えてるかなんとなくわかるけど、プライドとかの問題じゃないんだよ。二番目なんて嫌って断ったら、死ぬときに絶対後悔するって思ったから。なんていうのかなぁ、家政婦代わりでもペット扱いでもいいから、側においてって感じ?」
 ほわんと頬を染めて照れ笑いする駒井に、毒気を抜かれた。ものすごく久しぶりに会った昔の友人に、ここまで惚気られるとは思わなかった。
「前の旦那様は、一緒に映画に行っても隣ですぐ寝ちゃう人だったのね。そこも嫌だったの。
 でも、今の人とつきあい出して、しばらくしたとき、『あの人、映画も好きじゃなくて、すぐ寝ちゃうくらい疲れていたのに、私が行きたいって言うたびに、一緒に映画館に行ってくれたんだ』って気づいて、夜中だったんだけど、泣きながら電話して謝ったの。優しくしてくれてたのに、全然気付かなくてごめんね、って」
「……より戻そうって言われたでしょ」
「そうなの! たまちゃん、よくわかるね。でも、今は大好きな人と暮らしてるからゴメンねって、断ったよ」
 聖母のような優しい顔をして、奈落に突き落としたわけね。でも、駒井を見てたら今の恋人の人となりがわかるような気がした。理屈でなく、好きにならずにいられないような相手なんだろう。変な男に騙されてるわけではなさそうだ。
「周りは知ってるの?」
「知らないよー。だって、何て紹介すればいいかわかんないもの。だから、恋愛関係の話を振られたら、恋人はいませんって答えてる」
 同棲歴三年でか。
 女を三十年もやっていると、嘘をつくのも上手くなる。もしくは恋愛に対していい具合に力が抜けて、馬鹿になるとでもいうのか。そういうの、嫌いではない。
 駒井の話は楽しかった。気がついたら二時間もしゃべっていて、二人でそのことに驚いて、また笑った。

 店を出ると、肌を刺すような正月の空気の中、カランカランとドアベルの音が響いた。
 駒井がバスを待つというので、駅の建物の中に入らず、外のベンチに並んで座った。時刻表を見たら、次のバスがくるまで十分ほどあった。コートのボタンを一番上まで留めて、首をすくめた。煙草吸いたかったけど、匂いで母親にバレるから我慢した。
 駒井は、小さなボストンバッグからのど飴の袋を取り出した。遠慮なくひとつ頂いた。
「駒井、自分のこと馬鹿だと思う?」
「ちょっと思う。でも、自分は賢いと思ってる人はいろんな物を無くすから、それでいいとも、思ってるよ」
 こういう女だから、男も離れられないのだろうな。駒井は他人を否定しない。
 ふと顔を上げたら、今にも雪を降らせそうな空が遠くまで続いていた。ずいぶん雲の流れが早い。地上でこれだけぴゅーぴゅー風が吹いているのだから、雲のあたりはもっと強風なのだろう。
 隣の駒井は、右側の頬に飴玉を寄せて、遊んでいた。ちっ、同じ歳のクセしてなんて可愛らしいことをしてるんだ。
「私もね、恋人はいない。でも、賭けをしているの」
「うん?」
 ころり、口の中で飴玉を転がして、駒井は首を傾げた。
 賭けの相手は、元同僚だ。年は上。美人は苦手だと人の告白を一刀両断した男。
『お前の仕事ぶりは好きだったよ。あの会社とは合わなかったんだろうなぁ、お互い』
 無精ひげを撫でながら、彼はニヤリと笑った。仕事のパートナーとしては欲しいが、女としてはいらないと言い放った。

「―――彼いわく、十年続いたらどんなことも本物なんだって。
 最初に振られたとき、十年後に同じこと言ってたら考えてやるって言われたんだ。だから、私の目標はその十年でお金貯めて、会社起こして、ヤツにもう一度正面切って挑むこと」
「わー、カッコいい! でも、会社起こすなんて、お金いるでしょう。目標の貯金額はいくらなの?」
「五千万」
 駒井は目を丸くして、ちょっと唇を尖らせた。何か言いたいけど、びっくりして言えないみたいに。
「無理じゃないわよ。私、水商売やって長いの。今の月収は二百万くらいかなー」
「えー!!」
 駒井の大声に、自販機の前に立っていた高校生がこっちを振り返った。目が合った。にっこり笑い返すと、わたわたと視線を逸らして駅に入っていった。
「たまちゃんが水商売……意外……でも、似合いそう」
 駒井はぶつぶつとつぶやいて、人のことを上から下まで眺めた。普段はこんなラフな格好してるけど、仕事のときはドレスも着物も着こなしますよ。自分でもオンとオフで別人だって思うわよ。

 ロータリーにバスが入ってきた。私は腰をあげて、駒井を見下ろす。
「たまちゃん、その賭けはいつからやってるの?」
「今年で、九年目。来年の正月は、ほらほら十年経ったよ、観念しな! ってヤツを捕まえに行くつもり」
 プシュー、とバスの扉が開いた。駒井が「またね」と小さく手を振った。
「―――今度会ったときに、賭けの結果を聞かせてね」
 バスがゆっくりと走り出す。窓から駒井が顔をのぞかせた。二人で手を振る。
 連絡先も何も交換しなかった。十年ぶりに偶然会ったのだ、また十年ぐらい経った頃、ばったりどこかで会うだろう。駒井の話がどこまで本当なのか、そんなことはどうでも良かった。駒井が私の話をどこまで信じたかも、どうでも良かった。
 ただ、自分ひとりの胸にしまっていた決心を、こうして他人に話すことで、妙に力が湧いた。
 賭けの相手とは、律儀に年賀状を交わしている。時々ふらりと店に飲みにくることもある。彼が結婚しない理由が自分だと思うほど自惚れてはいないけれど、会うたびに自分の気持ちが変わってないことには呆れる。
「あー……来年の年賀状は、出せないわ。喪中だ」
 年の瀬に死んだ祖母の葬儀は、五日に行う。私は六日の新幹線の切符を買った。
 神戸のマンションに、きっと彼からの年賀状が届いている。私たちは律儀なのだ。彼の年賀状にはかならず一言添えられている。一年前の年賀状には「飲みすぎに気をつけるように」。その前の年は「三十路突入おめでとう。ところで誕生日はいつですか?」とふざけたことが書かれていた。早生まれの私はそのときまだ29だったのに。ヤツのことだから本当は誕生日も知っていたに違いない。
 一年なんてすぐだと自分に言い聞かせて、歩道橋の階段を上った。残り一年なんてすぐだ。
 歩道橋の上から国道を見下ろした。駒井の乗ったバスは、とっくに見えなくなっていた。


(恋人はいません。/END)
08.01.10


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