Keep The Faith:3
第19話 ◆ Love again(2)

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 辻真咲は、玄関のドアが開いた音に気付いて、本を捲る手を止めた。
 時計の針は19時を指していた。既に夕食の用意は整っていて、後は日崎が帰ってくるのを待つだけだ。インターフォンを押さずに鍵を開けて入ってくる人間は、彼以外にいない。

「ただいま」
 リビングに入ってきた日崎は、疲れた様子でソファに腰を下ろした。いつもなら、一度自分の部屋に荷物を置いてくるのに、今日は鞄も上着も、ソファの片隅に無造作に置かれたままだ。肩を落としたその姿に、辻は不安を覚えて立ちあがった。
「和人さん……どうしたの。大丈夫?」
 日崎は、正面に立った辻の顔をぼんやり見上げた。途方にくれて泣きそうになっている子供のようだった。
 辻はその場に跪いて、日崎の膝に手を置いた。心配そうに見上げると、目が合った。日崎は悲しそうな目をしていた。こんな風に落ち込んでいる彼の姿は、辻の記憶に無い。
「来月は仕事が忙しくなりそうだ。辻が受験だから、俺一人で家事全般こなすつもりだったんだけど、できなくなった。ごめんな」
「いいよ、そんなの。いつも通り、早く帰った方がやればいいことだもの。そんなに気を使わないで」
 辻の言葉に弱々しい笑顔で応えて、日崎はそのまま上体を倒すと、辻の右肩に頭を乗せた。日崎らしからぬ甘えた態度に、辻は益々不安を募らせた。

「辻……矢野さんがまだ婚約してた頃、どんな気分で側にいた? 相手が自分を見てくれないのがわかっていて、どうして側にいられたんだ……」
 耳元で囁いた日崎の声は、喉の奥から搾り出したように掠れていて、辻の心をきゅっと締めつけた。何がここまで日崎を追い詰めているのか、わからなくて、思わず彼の背中に手を回した。泣いて眠れなかった、かつての夜、日崎がしてくれたように、ゆるく大事に抱きしめた。
「 ――― 平気じゃなかったよ。でも、好きになるほど辛くなるとわかっていたって、目は勝手に矢野さんを捜してた」
 見つめずにはいられなかった。理由がなくても会いに行った。無邪気さを装って、ただ言葉を交わしたくて。
「辛くって、北沢に頼ったりもしたけど……やっぱり矢野さんが好きだったよ。自分の気持ちは偽れない。それに、私はいつまでも高校生じゃない。見ることも叶わなくなるなら、せめてこうして側にいられる間は、一緒にいたいって・……本当に、矢野さんが幸せなら、それでいいって思っていたの。
 結局、気持ちは矢野さんに知られたけれど、あの頃は告げるつもりもなかったよ」
 思い出すと、なんだか懐かしい気がした。移動教室のとき、矢野の姿を見かけただけで、一日幸せな気分になっていたあの頃。ずいぶん前のような気がするけれど、つい半年前のことなのだ。
 日崎はしばらくじっとしていたが、辻からそっと離れると、手を伸ばして辻の髪を梳いた。辻は為されるがまま、気持ちよさそうに目を細めた。日崎が少し元気になった気がしたから。少しだけ、笑顔から悲しみが消えた気がしたから。

「 ――― 俺、失恋したんだ」

 日崎の告白は、辻が予想もしていないものだった。
 日崎は、軽く見開かれた、辻の綺麗な二重の瞳をじっと見つめて、彼女の頭を優しく撫でた。設問に正しく答えられたことを褒めるように。
「好きになったのが同じ会社の人で、ついこの間ふられて、でも、仕事は別だから、ちゃんと割り切った態度でいられるように自制してた……つもりだった。
 来月末で、彼女が仕事を辞めるって、今日聞かされた。病気だって。情けない話だけど、自分で感情が整理できないんだ」
 辻の顔が切なく歪んだ。
 全く気付かなかった。日崎はそんな様子を欠片も見せなかった。自分は、矢野への想いに悩んだとき、日崎の言葉に何度も慰められ、支えられたというのに。
「……和人さんのしたいようにすればいい。あんまり、無理しないで。泣きたいときは泣いてよ」
「 ――― って、なんで辻が泣くんだよ」
 じわっと涙を滲ませた辻は、日崎に言われて尚更に悲しくなった。どうして日崎はこんなときも笑えるのか。きっと辛いのに、それより先に辻の涙を気に掛ける。
「泣くことないだろ、ほら、顔上げて」
「だって、和人さんが平気そうな顔して辛いこと言うから」
「いや、もう平気。辻の考え方に倣うよ」
 日崎は、涙が止まらない辻を隣に座らせて、涙を拭った。辻の濡れた目がすぐそこにある。漆黒の瞳は、心の底まで見透かして、日崎の痛みを捉えていた。
「不安にさせてごめん。俺は大丈夫だから」
 ただ、好きなままで側にいる。彼女が松波を好きなままでも、自分を利用したとしても、きっと気持ちは変えられない。
「そうだよな。無理に忘れようとしなくても、いいんだ」
 ――― 側にいられる限りは、何もかも神代の望むとおりにしよう。自分にできることは、それしかない。

 涙を止めようと深呼吸している辻が微笑ましくて、日崎はもう一度、丁寧に彼女の涙を拭った。
 心を決めたら、楽になった。明日から神代の一番近くにいられることを、喜ぶことにしよう。一ヶ月だけでも、毎日彼女の側で過ごせる。彼女の言動も笑顔も、誰より側で見ていられる。それはきっと、楽しい日々に違いない。



 十二月一日、社内で人事が発表された。日崎は神代の隣のデスクに移り、初日から忙殺された。

「まずはこれに目を通して」
 神代の机の引き出しから出てきた分厚いファイルを二冊受けとる。背表紙にタイトルはなく、神代の名前と、ファイル番号だけが記されていた。日崎は始めから目を通して驚いた。
「これ、引継書……!? いつから用意してたんです」
「ずっと前から。もし私に何かあったとき ――― 事故とかね、それで急に会社に出てこられなくなったら、後の人間が困るでしょう。だから、私個人のマニュアルを作っておいたの。最近は手を加えてないけど、夏頃に見直ししてるから、特に問題はないと思う。
 私の仕事で一番面倒なのは、得意先との交渉とクレーム処理よ。事務的な作業は、このファイル読めばわかるから、後は自分でやりやすいように改善していって下さい。
 あとは……営業主任、だからね。会社の経営状態もきちんと把握してもらうわよ。数字管理よろしくね」
 にっこりと笑いかけられても、状況の厳しさは変わらない。日崎はこれからの一ヶ月を思うと、神代を支えるどころか、自分が彼女を頼るのが現実なのだと、実感せずにはいられなかった。まずは仕事で迷惑を掛けないようにしなければ。
「忙しくなりそうですね」
「もちろん。私の十年間のノウハウ、きっちり覚えてもらいます」

 そうして神代と日崎が顔をつき合わせて会話を続けている後ろで、榊は昨日まで同列だったバイト仲間と、和やかに会話していた。彼がスーツなど着るわけもなく、ラフなセーターにジーンズという格好だ。合間に一息ついて、少し離れたところにいる熊谷に声をかけた。
「熊谷、コーヒーくれ。コーヒー」
「自分で淹れて下さいよ」
「ヤだね。この間熊谷に淹れてもらったコーヒー美味かった。すごい気に入った」
 褒められて悪い気はしない。熊谷は、仕方ないなぁ、とつぶやくと、顔を顰めながらも嬉しそうに給湯室へ消えた。



 神代の担当していた得意先は、会社にとって大口の客が多かった。担当変更の挨拶も電話で済ませるわけにいかず、日崎と二人で一泊二日の出張に行くことになった。

 十二月中旬、どこもかしこもクリスマス一色に染まっている。
 朝から雪がちらついていた。新幹線に乗り込んですぐ、神代は何度も欠伸をかみ殺した。日崎の話に返事をしながらも、眠くてたまらない様子だ。しかし、ここで『眠ってもいいですよ』と言えば、逆に神代は意地を張ってしまうことを、日崎は学習していた。
 とりあえず黙ってみた。予想通り、さほど時間をおかずに、神代の頭がうつらうつらと揺れ始めた。日崎は口元に笑みを浮かべると、窓のほうに傾いていく神代の頭にそっと手を添え、自分の方へ引き寄せた。耳に、やわらかく神代の髪が触れた。素直に日崎の肩に頭を乗せて、神代は静かに眠っている。
 この二週間、仕事中はほとんど二人一緒だった。お互いの警戒心は最初から無く、距離は知らないうちに縮まっていた。端から見ても二人の呼吸はぴたりと合っていて、順調に仕事をこなしていく日崎の姿は、松波をはじめ同僚たちを安心させた。
 日崎は上着を神代の膝に掛けると、手にした資料に目を落とした。肩には神代の温もりがあり、安心しきった寝息が耳元で繰り返される。
 目的地までの二時間、穏やかな空気が二人を包んでいた。


04.06.19

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