辻真咲は、玄関のドアが開いた音に気付いて、本を捲る手を止めた。
時計の針は19時を指していた。既に夕食の用意は整っていて、後は日崎が帰ってくるのを待つだけだ。インターフォンを押さずに鍵を開けて入ってくる人間は、彼以外にいない。
「ただいま」
リビングに入ってきた日崎は、疲れた様子でソファに腰を下ろした。いつもなら、一度自分の部屋に荷物を置いてくるのに、今日は鞄も上着も、ソファの片隅に無造作に置かれたままだ。肩を落としたその姿に、辻は不安を覚えて立ちあがった。
「和人さん……どうしたの。大丈夫?」
日崎は、正面に立った辻の顔をぼんやり見上げた。途方にくれて泣きそうになっている子供のようだった。
辻はその場に跪いて、日崎の膝に手を置いた。心配そうに見上げると、目が合った。日崎は悲しそうな目をしていた。こんな風に落ち込んでいる彼の姿は、辻の記憶に無い。
「来月は仕事が忙しくなりそうだ。辻が受験だから、俺一人で家事全般こなすつもりだったんだけど、できなくなった。ごめんな」
「いいよ、そんなの。いつも通り、早く帰った方がやればいいことだもの。そんなに気を使わないで」
辻の言葉に弱々しい笑顔で応えて、日崎はそのまま上体を倒すと、辻の右肩に頭を乗せた。日崎らしからぬ甘えた態度に、辻は益々不安を募らせた。
「辻……矢野さんがまだ婚約してた頃、どんな気分で側にいた? 相手が自分を見てくれないのがわかっていて、どうして側にいられたんだ……」
耳元で囁いた日崎の声は、喉の奥から搾り出したように掠れていて、辻の心をきゅっと締めつけた。何がここまで日崎を追い詰めているのか、わからなくて、思わず彼の背中に手を回した。泣いて眠れなかった、かつての夜、日崎がしてくれたように、ゆるく大事に抱きしめた。
「 ――― 平気じゃなかったよ。でも、好きになるほど辛くなるとわかっていたって、目は勝手に矢野さんを捜してた」
見つめずにはいられなかった。理由がなくても会いに行った。無邪気さを装って、ただ言葉を交わしたくて。
「辛くって、北沢に頼ったりもしたけど……やっぱり矢野さんが好きだったよ。自分の気持ちは偽れない。それに、私はいつまでも高校生じゃない。見ることも叶わなくなるなら、せめてこうして側にいられる間は、一緒にいたいって・……本当に、矢野さんが幸せなら、それでいいって思っていたの。
結局、気持ちは矢野さんに知られたけれど、あの頃は告げるつもりもなかったよ」
思い出すと、なんだか懐かしい気がした。移動教室のとき、矢野の姿を見かけただけで、一日幸せな気分になっていたあの頃。ずいぶん前のような気がするけれど、つい半年前のことなのだ。
日崎はしばらくじっとしていたが、辻からそっと離れると、手を伸ばして辻の髪を梳いた。辻は為されるがまま、気持ちよさそうに目を細めた。日崎が少し元気になった気がしたから。少しだけ、笑顔から悲しみが消えた気がしたから。
「 ――― 俺、失恋したんだ」
日崎の告白は、辻が予想もしていないものだった。
日崎は、軽く見開かれた、辻の綺麗な二重の瞳をじっと見つめて、彼女の頭を優しく撫でた。設問に正しく答えられたことを褒めるように。
「好きになったのが同じ会社の人で、ついこの間ふられて、でも、仕事は別だから、ちゃんと割り切った態度でいられるように自制してた……つもりだった。
来月末で、彼女が仕事を辞めるって、今日聞かされた。病気だって。情けない話だけど、自分で感情が整理できないんだ」
辻の顔が切なく歪んだ。
全く気付かなかった。日崎はそんな様子を欠片も見せなかった。自分は、矢野への想いに悩んだとき、日崎の言葉に何度も慰められ、支えられたというのに。
「……和人さんのしたいようにすればいい。あんまり、無理しないで。泣きたいときは泣いてよ」
「 ――― って、なんで辻が泣くんだよ」
じわっと涙を滲ませた辻は、日崎に言われて尚更に悲しくなった。どうして日崎はこんなときも笑えるのか。きっと辛いのに、それより先に辻の涙を気に掛ける。
「泣くことないだろ、ほら、顔上げて」
「だって、和人さんが平気そうな顔して辛いこと言うから」
「いや、もう平気。辻の考え方に倣うよ」
日崎は、涙が止まらない辻を隣に座らせて、涙を拭った。辻の濡れた目がすぐそこにある。漆黒の瞳は、心の底まで見透かして、日崎の痛みを捉えていた。
「不安にさせてごめん。俺は大丈夫だから」
ただ、好きなままで側にいる。彼女が松波を好きなままでも、自分を利用したとしても、きっと気持ちは変えられない。
「そうだよな。無理に忘れようとしなくても、いいんだ」
――― 側にいられる限りは、何もかも神代の望むとおりにしよう。自分にできることは、それしかない。
涙を止めようと深呼吸している辻が微笑ましくて、日崎はもう一度、丁寧に彼女の涙を拭った。
心を決めたら、楽になった。明日から神代の一番近くにいられることを、喜ぶことにしよう。一ヶ月だけでも、毎日彼女の側で過ごせる。彼女の言動も笑顔も、誰より側で見ていられる。それはきっと、楽しい日々に違いない。