Keep The Faith:3
第18話 ◆ Love again(1)

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 曖昧な私に、
 あなたはどこまでも優しい。



 神代が風邪で休んだ、その翌日。
 珍しく神代から昼食に誘われた松波は、特に何も思わずに、正午に出勤してきた彼女と馴染みの料理屋に向かった。
 
「ご相談がありまして」
 二人で和やかに食事を終えた後、神代は改まった様子で松波に話し掛けた。
「長期の休みをいただきたいんです」
「旅行でも行くのか?」
 松波は、食後に出てきたメロンを口に放りこみつつ、軽く訊いた。小さな座敷はきちんと仕切られていて、外からは見えない。声もほとんど漏れない。何度も二人で来たことの有る、雰囲気のいい上品な店だった。
「いえ、そんな短い日数じゃなくて……できれば一年ぐらい。それ以降も、営業に復帰せずに在宅のスタッフとして働きたいんです」
 そう言って神代が机の上に差し出したのは、母子手帳だった。午前中に役所で貰ってきたばかりの、その真新しい表紙は、松波の心拍数を跳ね上げた。
 しばしの沈黙の後、彼はようやく口を開いた。喉が乾いていた。
「俺と別れると決めたのは、子供が出来たからか……?」
「違います ――― 松波さんの子供では、ないんです」
 神代は、あえて松波から目を逸らさなかった。震えそうになる声を押さえて、一語一句区切るように、事実を口にした。
 松波の思考が手に取るようにわかった。嘘ではないかと疑っている。別れてから二ヶ月半しか経っていない。他の男が父親のわけないと思っている。神代がそんなに早く心変わりするような女ではないと、知っているから。
 そして、嘘をつくのは、自分を苦しめない為だと思ったところで気付くのだ。もしそうならば、妊娠していること自体を隠すと。
「他に好きな男がいたのなら、はっきりそう言えよ」
「それもハズレ」
 神代は場を和ませるようにくだけた言い方をしたが、松波は尚更、真剣な顔をした。
「……相手は誰だ。そいつと一緒になるんじゃないのか?」
「結婚はしません。父親は、松波さんと別れてから関係した人ですが、私は彼を愛していませんから」
 神代は淡々と言った。今後も松波とのつきあいは続いていく。事実をそのまま告げるしかない。軽蔑されるのは覚悟の上だ。
「でも、産みたいんです。同じ過ちは繰り返したくない。一人で、育てます」
「一人じゃないだろ ――― お前の子供なら、父親が誰であろうと、俺にとっては家族みたいなもんだ」
「……それは……紗恵さんが」
「アイツにとっても、そうだよ」
 松波はそう言うと、立ちあがって神代の隣に腰を下ろした。自然に手を伸ばし、つきあっていた頃と同じように、神代の肩を抱いた。懐かしい温かさに、神代の体から緊張が解けた。
「よく話してくれたな。俺に何言われるか、怖かっただろ」
 ぽん、と頭を撫でられる。髪をくしゃくしゃにされても、神代は顔を上げなかった。涙が滲んで、唇を噛んだ。松波の心の広さに頼りそうになるのを、ぐっと堪えた。ここで松波に頼ったら、何の為に別れを切り出したのかわからない。松波との間に、恋愛感情を蘇らせては意味が無い。
 神代はなんとか涙を堪えると、松波に向かって笑って見せた。
 松波は、もう一度だけ神代の頭を撫でると、体を離した。甘えたくないという神代の気持ちがわかったからだ。
「 ――― 会社では、妊娠したことを隠したいんです。松波さんと私のこと、何人か気付いてたみたいですから。下手に勘ぐられるのは嫌です」
 何より、日崎に知られるとまずい。
 松波はしばらく眉間に皺を寄せて思案していたが、鞄から手帳とペンを取り出した。
「……今、何ヶ月だ」
「三ヶ月目に入ったところです」
「いつまで会社に出られる?」
「できれば、年内。遅くとも二月末には自宅勤務に移りたいですね」
「年内希望か。今から一ヶ月で引継ぎできるヤツって言ったら……日崎くらいだな。あいつなら、神代の仕事のやり方をよくわかってる」
 日崎、と言われた瞬間、神代の顔が強張ったが、松波は気付かなかった。いつもなら決して見逃さないのに、この時に限って気付かなかったのは、やはり彼自身も少なからず動揺していたからだろう。
「……日崎の仕事はどうします? 彼の得意先はそのまま継続させるとして、バイトの統括と引継ぎを平行させるのは、難しいと思います」
「榊にやらせよう。口は悪いが、仕事は出来る。榊が正社員に戻るかどうかは、交渉次第だろうな。
 明日にでも二人に話さないと、時間が無い。お前が長期休暇を取る理由はどう話す」
「 ――― 長期療養、ということにしましょう。病名はどうでもいいです、どうせ嘘なんだから」
 結局、しばらく自宅療養の必要がある、とだけ話すことにした。プライベートなことなので、病名は明かせないと説明すれば、そう食い下がってくることもないだろう。
 おおまかに今後の予定を話し合うと、二人とも手帳を閉じて、溜息をついた。
 店員に熱いお茶を頼んで、神代は改めて松波を見た。上司としても、人間としても尊敬できる人だという気持ちは、今の会話で益々強くなった。正直、惚れなおした。
「……話したら、絶対軽蔑されると思ってました」
 松波は苦笑いを浮かべて、眉間を指で押さえた。その仕草が、困ったときの彼の癖だと、神代は知っていた。
「複雑だな。お前が他の男と寝たのはショックだった。でも、誰とも結婚しないと知ってホッとしてる。自分でもよくわからん。
 俺はお前と紗恵のどちらかを選べと言われても、選べなかったからな。いつか、神代はいい男を見つけて、好きになって、そいつと幸せになるだろうと思ってた。そのときは祝福するつもりだったんだ……何言ってるんだろうな、俺は」
 松波は小さな声でそう言うと、神代の目をじっと見た。神代も見返して、可能性を探った。相手が、今、自分をどう思っているのか。
 悟ったのは、もう戻れないということだった。元には戻れない。別れを決意した、それ以前の二人には戻れない。言葉にしたことは消せないのだ。
「 ――― 松波さんと一緒にやってきたこと全部、忘れませんから。後悔は何もありません」
「俺も……お前と会えて、よかったよ」
 これきりの別れではないのに、お互いの口をついて出たのは、そんなセリフだった。どこかにまだ残っていた、かすかな恋情が消え去った瞬間だった。



 そしてその翌日、日崎と榊は会議室に呼び出された。
 夕方5時。夜組のバイトが入ってくる前の時間は、事務所内の人間も少なく、仕事も一段落したところだった。会議室に、松波と神代、日崎と榊の四人が顔を揃えた。

「突然だが、神代が一月から在宅勤務に切り替わる。後任は日崎にやってもらいたい」
 単刀直入な松波の言葉に、日崎と榊は一瞬言葉を失った。
「……一月から、ですか」
 さすがに日崎も考え込んだ。神代の処理能力の高さは、嫌というほど知っている。彼女の仕事を引き継ぐとしたら、一ヶ月間つきっきりで動かなければ無理だろう。
「榊には、今後、日崎が担当しているバイトの統括を頼みたい。もう一度社員に戻る気はないか?」
「……条件次第では考えますけど。神代さん、どうして在宅に?」
 榊の質問に答えたのは、神代本人だった。
「病気なの。しばらく自宅療養して、まあ、そのうち入院ってことになるでしょうね。今日明日どうこうってわけじゃないから、仕事は続けるけれど、今の業務を継続するのは無理なの」
 にっこりと笑顔で言われて、日崎はわずかに目を見開いて神代を見つめた。榊も驚いて、神代の顔を見た。言われてみれば、最近の神代はどこか覇気がなかったと、思い出す。それが松波と別れたせいだと、榊には知る由もなかった。
「今は、大丈夫なんですか」
「無理しなければ、平気よ」
 日崎は、いつもと変わらない口調で話す神代に、むしろ不安を覚えた。
(この人は、辛いときほど……周囲にそれと悟らせない)
 松波は腕組みをして、押し黙ってしまった二人の顔をじっと見ていた。
「 ――― 正直、神代が常勤のスタッフから抜けるのはキツいが、会社を辞めるわけじゃない。今まで通り、うちの社員だ。
 日崎、榊……どうだ、できるか?」
 榊は大仰に溜息をついてみせた。
「やれって言われりゃやりますよ。ただ、川口さんっていう技術系の正社員がいるのに、何で日崎の後任が俺なんです。一度社員になっといて、バイト希望した人間ですよ?」
「最近バイト連中から慕われてるじゃないか。金にもならないのに、新入りの指導もやってるだろ。知識的にも問題ない。責任感もある。川口は黙々と仕事をこなすのは得意だが、話下手だ。お前の方が向いてる。前より、人間丸くなってるしな」
「……わかりました。後で条件詰めましょう」
「日崎は」
 日崎は、神代の綺麗に手入れされた爪を見ながら考え込んでいたが、ふっと息を吐いて顔を上げた。
「俺も了承します。ただ、神代さんの後任を引き受けたところで、すぐに全部が出来るわけない。サポートお願いします」
「よし、じゃあ十二月一日付で異動だ。日崎は営業主任代理、榊は業務統括。その後、日崎は、一月一日付で営業主任に昇格。神代は非常勤の技術スタッフとして動いてもらう。明後日、社内でオープンにするからな」
 榊と松波は、そのまま条件を詰める為に会議室に残った。
 日崎は神代を促して、給湯室に足を向けた。熱いコーヒーをふたつ淹れる。
 壁際に置かれた長椅子に、二人並んで腰を下ろした。隣で素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる神代を見ていると、内心混乱している自分が馬鹿みたいに思えた。急な展開に慌てている。
「……過労じゃなかったんですか」
「うん。昨日も病院行ったのよ、結局。……日向から、二年くらい静養って言われたわ」
 神代の口からつらつらと零れる嘘に、日崎は顔を歪めた。
 一昨日、雨に濡れながら神代を諦めようと唇を噛んだときは、これ以上悪いことなど当分ないと思っていたのに。
「一ヶ月間、よろしくね」
 神代が差し出した手を、日崎はゆっくりと握り締めた。彼女の、白い柔らかな手の感触を、日崎はずっと覚えておこうと思った。こうして隣にいられるのは、あと一ヶ月だけなのだから。


04.06.15

NEXT : BACK  : INDEX : HOME  


Copyright © 2003-2006 Akemi Hoshina. All rights reserved.

inserted by FC2 system