Keep The Faith:3
第17話 ◆ 業(4)

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 明け方、気持ち悪くなって目が覚めた神代は、側にいた見知らぬ女に驚いた。
「目が覚めた? 気分はどう?」
 誰だ、と思いつつ、ひどい頭痛とかすかに残る吐き気を訴えた。自分が病院にいることもわかった。女が出て行き、入れ替わりに誰かが入ってきた気配がした。神代は目を閉じて、浅い呼吸をくり返していた。
 ふわ、と前髪をかきあげられて、神代はうっすら目を開けた。松波がいた。
「お前の詰めの甘さに感謝だな。今のガスは、中毒死できなくなってるんだ。
 ……ガスはほとんど吸い込んでない。その頭痛と吐き気は、二日酔いだ。もうあんな無茶な飲み方するなよ」
 神代は、おぼろげに自分のしたことを思い出した。酔っていて、記憶はほとんどない。それでも、ガスのホースを外し、元栓を開けたことは覚えていた。
 堕胎してからは、部屋に篭って過ごしていた。無気力で、一人きりだった。死ぬ前に誰かの声が聞きたくて、心に浮かんだのは、両親でも斎藤でもなく、いつも自分を叱ってくれた松波だった。
「だって……もう」
 生きていくのがしんどくなった。掠れた声で、そう続けようとしたけれど、松波の声が遮った。
「やっぱり温室育ちのお嬢さんは弱っちいな。もっと図太くなれ、神代」
 頭が痛い神代に気を使ったのだろう、耳元で囁くような声だった。
「確かに斎藤みたいなバカに惚れたのは、お前が浅はかだったからだよ。でも、本気だったんだろ? 斎藤と会わなかったら、味わえなかった感情がたくさんあったんじゃないのか。斎藤は確かにお前を騙したかもしれないが、遊びでそんなことができるヤツじゃない。あいつも本気だったんだよ、ただ、現実を忘れていたのが致命的だったけどな。
 ――― なぁ、こうやって死のうとする度胸があれば、大抵のことは耐えられると思うぞ。
 昼になったら、帰っていいってさ。しばらく俺の家に来い。置いてやるから、いろいろ貪欲に吸収しろ。ウチの嫁さん、料理上手いぞ」
 にっと笑った顔は、明るく頼もしくて、神代は胸が苦しくなって目を潤ませた。すぐにぱたぱたと、涙がシーツに落ちていった。
「ほら、泣くな。
 お前、家でも何かあったんだろ。ああ、別に話さなくていい。携帯にも手帳にも、実家の連絡先がなかったから、そうじゃないかと思っただけだ。一週間前なら、会社に行って確認出来たんだが、俺もあの会社辞めてな。もう事務所の鍵を持ってない」
「え、どうして……松波さん、あの仕事好きだったのに」
「別にあの会社でなくても、システム開発はできるぞ。元々、いつか独立するつもりだったんだよ、俺は。今、新会社立ち上げの準備で、ものすごく忙しくてな、優秀なアシストを捜してる ――― お前、どうだ? やらないか」
 松波と一緒にした仕事は、楽しかった。何もかもゼロに戻して、一からやり直したい。
 神代は涙を拭うと、松波のごつごつとした手をぎゅっと握った。
「あんまり役に立たないかもしれないけど……よろしくお願いします」
「よし、決まりな。泣く暇も悩む暇もないくらいこき使ってやるから、覚悟しておけよ」
 冗談めかした言い方に、神代は涙を拭って、やっと笑った。
 先ほど病室を出て行った女が、冷たい水を持ってきてくれた。小柄で童顔の、柔和な笑みをたたえた彼女は、松波紗恵と名乗った。



 翌日から、神代のハードな日々が始まった。
 泣く暇も悩む暇も無い、というのは、決して誇張ではなかった。最初は自分のマンションから、松波の自宅兼オフィスに通っていた神代だが、一週間後には松波の家に寝泊りし、三日に一度くらいしか自宅に帰らなくなった。会社を設立する、ということ自体が新鮮で、元々好奇心も学習意欲も高い神代は、気になったことや知りたいことを片っ端から調べて行った。本当なら大学に通い、空いた時間だけ手伝うという話だったのにも関わらず、神代は毎日朝から晩まで興味が向くまま、松波のオフィスで過ごしていた。
 翌月には、松波の反対を押し切って大学を辞めた。
「これから二年間大学で学ぶより、松波さんの下で働きながら、実際の仕事で役立つスキルを身に付けるほうが、私にとってプラスになります」
 懸命に気持ちを説明する神代を見て、松波は、また甘いことを、と思ったが、神代の口調が、以前よりもずいぶん落ち着いていることに気付いた。毎日じっくり考えて出した結論なのだろう。
「 ――― 当分、目が回るくらい忙しいぞ。知ってのとおり、俺は人使いも荒いし、言葉もキツい」
 そんなことはとっくに身にしみていた。それでも、松波の下で働く毎日を想像すると、神代の心は踊り出しそうにワクワクしたのだ。
 松波の人脈もあって、新しく設立した会社のスタートは好調だった。神代は松波家の近くのマンションに引越し、昼間は仕事を手伝い、夜間は専門学校に通って、いろいろな資格を取っていった。
 その頃、コンピュータ関係の専門学校で再会したかつてのバイト仲間から、松波が会社を辞めた本当の理由を聞いた。
 以前勤めていた会社では、あんな騒ぎを起こした斎藤に対して、何の処罰もなかったという。斎藤は離婚もせず、左遷にもならず、それどころか、斎藤の妻が神代相手に慰謝料を請求するという噂まで広がったらしい。松波は、神代に対して何の謝罪もしない斎藤と、彼を黙認した会社のやり方を批判した。技術系の社員の間では、神代の評価は高く、将来有望だった人間をこんな風に潰したことに納得がいかない者が何人かいたという。
 結果的に、松波はその件で経営側から疎まれ、自分から辞表を叩きつけたのだ。
 松波は、そんなことは一言も言わなかった。
 真相を知りたくて問い掛けた神代の不安を、松波は笑い飛ばした。
「辞めたのは、お前のせいじゃねーよ。いい切欠にはなったが、それだけだ。
 ――― 会社の汚さに腹が立ったんだ。組織だなんだと言っても、最終的には、そこで働く個々の人間が大事なんだよ。ひとつの歯車が抜けただけで、上手く行かなくなることだってある。
 俺は、綺麗事だと言われても、自分の価値観を曲げるつもりはない。顧客には最上のモノを提供したいし、頑張ってるヤツはちゃんと評価する。そういう当たり前のことを、きちんとできる会社にしたいんだ」
 いつになく饒舌に語った松波の顔は、期待に満ちていて、神代のやる気を十分引き出してくれた。いつまでも松波のお荷物ではいられない。松波の片腕として動く為には、経験も知識も足りない。神代はひたむきに毎日を過ごし、次第にその能力の高さを現した。実績は自信に繋がり、松波との呼吸もしっくりと合っていた。そこに、かつて死を選ぼうとした影は、もうなかった。



 松波の妻の紗恵は、税理士だった。以前は大きな事務所に属して働いていたが、もともと弱い体が激務についていけず、松波が会社を設立する二年前に退職し、自宅療養をしながら、専業主婦として過ごしていた。それでも、松波にとって彼女の知識がどれだけ役に立ったかは、言うに及ばない。
 紗恵と神代はすぐ仲良くなって、食事はいつも二人で作った。一緒に料理をしたり、温泉に行ったり、買い物をしたりするのは楽しかった。
 神代には、高校生になった頃から、母と二人だけでどこかに行った記憶がない。母はいつも静かに微笑んでいて、紗恵のように背後から脇をくすぐって悪戯したり、お風呂で髪を洗ってくれたことはなかった。
 紗恵との、まるで母子のような関係は、神代の寂しさを癒した。
「……紗恵さんが、お母さんだったらよかったのに」
「そんなこと言ったら、本当のお母さんに失礼よ」
 紗恵はそう言って苦笑した。神代は20歳のとき家を出てから、一度も家族と会っていなかった。母親からは、年に一度、思い出したようにハガキがきた。弟が結婚したことも、それで知った。神代に式の案内状は来なかった。
「 ――― でもね、私も思う。綾ちゃんみたいな娘がいたら、楽しいだろうなぁ、って」
 子供が産めない体だった紗恵は、優しく微笑んで神代の頭を撫で、軽く抱きしめた。
「これだけ長い間一緒にいたら、もう家族も同然よ。私がお母さん、史郎が怖いお父さんね」
「あはは、松波さん、怖いお父さんなんだ。星一徹みたい」
「そうよー。そのうち、ちゃぶ台ひっくり返すわよ」
「ちゃぶ台無いですよ、紗恵さんち!」
「あら、買って準備しておかなきゃいけないわねっ」
 そんな風に過ごす毎日は、充実して幸せだった。
 しかし、安定した日々は突然崩れた。紗恵が倒れたのだ。彼女は大きな手術を二回して、退院後も、日常生活の雑事を自分でこなすことが難しくなった。
 入退院を繰り返していた紗恵が、遠くの療養施設に入ることになったのは、神代が24歳、松波が40歳のときだった。二人で始めた会社は、わかりやすい賃金体系と実力主義の採用で、優秀なスタッフが増え、順調に業績を伸ばしていた。自宅とは別に事務所も構えた。
 松波は妻の看病と仕事の両立に疲弊していたし、神代はそんな彼を出来る限り支えたくて側にいた。そこに恋愛感情が芽生えたのは、必然だったのかもしれない。



 日向は、フロントガラスを伝っていく雨の筋を、ぼーっと見ていた。自宅はすぐそこなのに、まっすぐ帰る気がしないのは、まだ神代から聞いた話が整理できていないからだ。
 途中の自動販売機で買った熱い缶コーヒーを、一口含む。雪にならないのが不思議なくらい、冷え込んでいた。

 神代との会話は夜まで続いて、全てを聞き終えたとき、日向は、神代の孤独を痛いほど感じた。
 神代は、強いわけじゃない。
 彼女が誰にも頼らない理由。何でも一人でこなしてしまう、理由。日向にはようやくそれが理解できた。
(――― 拒否されるのが……見捨てられるのが、何より怖いんだ)
 それを臆病だとは思わなかった。家族、友人、恋人。自分と親しい人すべてを一度に失った、その傷を癒して、また誰かを信じられるようになるまでの長い時間、神代の心にどれだけの葛藤があったのか。
 それでも、松波を愛した。彼だけは失いたくなかったのだろう。恋愛関係に終わりを告げたのは、神代の自己防衛だったのかもしれない。松波夫妻との絆を守る為の。
(今まで愛した人、二人とも既婚者か。そりゃ、結婚に興味ないでしょうよ。したくても出来なかったんだもの)
 日向は、神代の気持ちがわかったからこそ、日崎には何も話さないという彼女の意志を尊重した。納得はいかないけれど、それが神代の望みなら、思うが侭にさせたい。神代の側には、自分もいるし、松波もいる。たぶん、神代自身が思っているより、彼女は愛されている。
 何にせよ、神代自身が笑って未来を想像できるのなら、それでいい。
 ただ、気になるのは、子供の父親である日崎の存在だ。
 日向から見て、神代と日崎の相性はいいように見えた。神代が彼を愛していないのは知っていたが、人の気持ちは時間と共に変化する。ときに、驚くほど急激に。
(時間がいい方向へ作用すればいいけれど)
 日向は缶コーヒーを飲み干し、アクセルを踏んだ。明かりの漏れる自宅が見えた途端、夫の顔を思い浮かべた日向の顔には、自然に笑みが浮かんでいた。


(業/END)
04.06.10

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