明け方、気持ち悪くなって目が覚めた神代は、側にいた見知らぬ女に驚いた。
「目が覚めた? 気分はどう?」
誰だ、と思いつつ、ひどい頭痛とかすかに残る吐き気を訴えた。自分が病院にいることもわかった。女が出て行き、入れ替わりに誰かが入ってきた気配がした。神代は目を閉じて、浅い呼吸をくり返していた。
ふわ、と前髪をかきあげられて、神代はうっすら目を開けた。松波がいた。
「お前の詰めの甘さに感謝だな。今のガスは、中毒死できなくなってるんだ。
……ガスはほとんど吸い込んでない。その頭痛と吐き気は、二日酔いだ。もうあんな無茶な飲み方するなよ」
神代は、おぼろげに自分のしたことを思い出した。酔っていて、記憶はほとんどない。それでも、ガスのホースを外し、元栓を開けたことは覚えていた。
堕胎してからは、部屋に篭って過ごしていた。無気力で、一人きりだった。死ぬ前に誰かの声が聞きたくて、心に浮かんだのは、両親でも斎藤でもなく、いつも自分を叱ってくれた松波だった。
「だって……もう」
生きていくのがしんどくなった。掠れた声で、そう続けようとしたけれど、松波の声が遮った。
「やっぱり温室育ちのお嬢さんは弱っちいな。もっと図太くなれ、神代」
頭が痛い神代に気を使ったのだろう、耳元で囁くような声だった。
「確かに斎藤みたいなバカに惚れたのは、お前が浅はかだったからだよ。でも、本気だったんだろ? 斎藤と会わなかったら、味わえなかった感情がたくさんあったんじゃないのか。斎藤は確かにお前を騙したかもしれないが、遊びでそんなことができるヤツじゃない。あいつも本気だったんだよ、ただ、現実を忘れていたのが致命的だったけどな。
――― なぁ、こうやって死のうとする度胸があれば、大抵のことは耐えられると思うぞ。
昼になったら、帰っていいってさ。しばらく俺の家に来い。置いてやるから、いろいろ貪欲に吸収しろ。ウチの嫁さん、料理上手いぞ」
にっと笑った顔は、明るく頼もしくて、神代は胸が苦しくなって目を潤ませた。すぐにぱたぱたと、涙がシーツに落ちていった。
「ほら、泣くな。
お前、家でも何かあったんだろ。ああ、別に話さなくていい。携帯にも手帳にも、実家の連絡先がなかったから、そうじゃないかと思っただけだ。一週間前なら、会社に行って確認出来たんだが、俺もあの会社辞めてな。もう事務所の鍵を持ってない」
「え、どうして……松波さん、あの仕事好きだったのに」
「別にあの会社でなくても、システム開発はできるぞ。元々、いつか独立するつもりだったんだよ、俺は。今、新会社立ち上げの準備で、ものすごく忙しくてな、優秀なアシストを捜してる ――― お前、どうだ? やらないか」
松波と一緒にした仕事は、楽しかった。何もかもゼロに戻して、一からやり直したい。
神代は涙を拭うと、松波のごつごつとした手をぎゅっと握った。
「あんまり役に立たないかもしれないけど……よろしくお願いします」
「よし、決まりな。泣く暇も悩む暇もないくらいこき使ってやるから、覚悟しておけよ」
冗談めかした言い方に、神代は涙を拭って、やっと笑った。
先ほど病室を出て行った女が、冷たい水を持ってきてくれた。小柄で童顔の、柔和な笑みをたたえた彼女は、松波紗恵と名乗った。