Keep The Faith:3
第16話 ◆ 業(3)

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「こら、神代」
 神代は、松波に呼びかけられても、足を止めなかった。立ち止まって口を開いたら、泣き喚いてしまいそうだ。ぎゅっと口を引き結んで、ズンズン歩く神代に、松波は眉をひそめて追いついた。指をのばし、ぎゅっと神代の頬を摘む。
「いひゃっ」
 神代は立ち止まって松波を見た。松波はいつもの怖い顔をして、神代の頬から手を外した。代わりに腕を掴む。
「お前、バイト辞めるなよ。ちゃんと明後日、出てこい」
「……無理、です」
 二度とここへ来ないつもりだった神代は、松波の手を振り解こうとしたが、彼は涼しい顔で目を細めただけだった。
「なんでだよ。お前、斎藤に騙されただけじゃないか。やましいことしてないだろ。
 だいたいなぁ、甘やかされて世間知らずもいいとこのお前を、四ヶ月間、俺がどれだけ苦労して教育したと思ってんだ。やっと使えるようになったとこで来なくなったら、俺の今までの努力は何だったってことになる。そうだろ!?」
 確かに、バイト開始当時は毎日怒鳴られていた……。神代は、松波の迫力に気圧されて、つい、こくりと頷いてしまった。
「よし。じゃ、メシ食いに行くぞ。ついでに送ってやる」
 この状況で、空腹感を感じるわけがない。神代はその提案に呆然としたが、松波は有無を言わさずさっさと一人で納得して、歩き出してしまった
 ビルの外に出ると、もう九月に入ったというのに、中天にかかる太陽が容赦なく気温を上げていた。日向にくっきりと影が落ちる。冷やし中華食べに行くか、と松波が言い、神代も早く影に入りたくて、滲む汗を感じながら頷いた。
(……さっきまで斎藤さんとあんな話してたのが、嘘みたい)
 気がつけば、こんな風に空を見ることも最近なかった。青空に広がる雲を見る余裕もなく、ただ斎藤のことばかり考えて過ごしていた日々。
「松波さん」
 空を見上げたまま、神代はつぶやいた。
「やっぱり私、バイト辞めます。大学も休みだし、赤ちゃんのことも……あるから。田舎に帰って、家族と話してきます」
 そうか、と松波は柔らかい声で言った。
「 ――― またこっちに戻ることがあれば、連絡してこいよ。
 よく怒鳴ってたけど、お前、仕事できたからな。そのうち俺の補佐に欲しいと思ってたくらいだ。それと、なんか困ったことあったら遠慮なく言え。斎藤のことだって、もう少し早く知ってりゃ……今更だけどな」
 松波の大きなゴツゴツとした手が、神代の頭をぽんぽんと撫でた。怖いと思っていた松波を、厳しいけれど面倒見のよい、義理堅い男なのだと見直していた。本当に、自分には人を見る目がなかったのだ。
 もう斎藤のことは振りかえらない。決めたら、急に思考がクリアになった。自分で考えて、決めていかなければ。どんな風に生きていくのか、誰でもない自分自身の未来なのだから。



 しかし、神代が予想していた以上に現実は厳しかった。

「子供が出来ました。大学を辞めて、一人で育てるつもりです」
 両親を前に、静かに告げた後、神代は沈黙の恐ろしさに顔を上げることができなかった。
「――― 相手は誰だ」
 父親の声の重さに、膝の上で握った手が震えた。怖かった。
「バイト先の人ですが、もう別れました。彼が既婚者だったので」
「既婚者、だと? お前、最初から知ってたのか」
「いえ……最近、知りました」
「……相手の男に、それ相応の責任を取らせろ。未成年を騙した上に孕ませたんだ。明日弁護士を呼ぶ、慰謝料を請求しろ。産むことは許さん」
 はっきり言われた言葉に、神代は目を見開いて父親の顔を見た。軽蔑を込めた視線に、背中がゾクリとした。そんな気はない、と言いたかったのに、萎縮して言えなかった。
「大学も辞めろ。恥をかかせるような真似をして……家を出したのが間違いだった」
 自分の気持ちなんてどうでもいいのか、という憤りと、父親を失望させたことで見捨てられるような怖さが、神代の中で広がった。
(……子供を堕ろすなんて)
 病院で見せてもらった、確かに生きて動いている証、鼓動を刻む小さな心臓を思い出した。産みたい。でも、自分の意志を通せば、親との間に亀裂ができる。もう二十歳を過ぎているのだ、自分のことは自分で決めたい。しかし、家族の理解もなく、たった一人で育てていくことがどれだけ難しいことか、それは神代にもわかった。

 その日の深夜、悩む神代の部屋へ、母親が訪ねてきた。珍しく強い風が吹いた夜だった。月は雲影に身を隠し、荒れ狂う風が窓を叩いて、夜の闇をいっそう深くしていた。
 闇と風音に紛れて、母親がこっそりと会いに来たのがわかった。こんなことは初めてで、神代は何を言われるかと身を堅くした。
「綾、家を出なさい」
 母親の声は、静かに凛と響いた。
「子供を産むことも、産まないことも、あなた自身が決めることです。どちらにしろ、この家を出なさい。このままここに居れば、あの人がこの先のすべてを決めてしまいますよ」
 嫁ぐ相手も、住む場所も、何もかも父親に定められた道を進む ――― それが嫌なら家を出ろと、神代の母は決意を秘めた目で、神代をひたと見据えた。
「……でも、そうすれば父様は、私を許さないのではないですか」
「勘当すると言っても、表向きだけです。あなたが生活に困るような、世間体の悪いことはされないでしょう」
 経済的なことが問題なのではない。
 ――― そんなに、自分の存在は軽いものなのか。神代は、両親が自分に厳しくても、根底に愛情があると思っていた。
「父様は、あなたに幸せになって欲しいのですよ。家を出て、いろいろ傷ついて戻ってきたあなたを見て、やはり自分が決めてやらなければと」
「私は……ッ」
 神代は母親の言葉を遮った。
「私は、人形ではありません。もう子供でもありません。意志も感情もあります。将棋の駒のように、扱わないで下さい!」
 結局、父親は自分に失望したのだ。
 そんなに間違ったことをしただろうか。何も恥じることはしていない。ただ、人を好きになっただけだ。結果だけを見て、そんな風に言われたくない。
「……だから、出ていった方がいいのです。綾が望む生き方は、ここにいては到底無理です。家に縛られるのが嫌なら、明日、ちゃんと父様に話しをなさい」
 父に逆らうなんて無理だ。神代は泣きそうな顔で母親の静かな目をじっと見たが、いつもの優しい母と違い、その時だけは、何も言ってはくれなかった。



 一週間後、神代は大学近くのマンションに戻っていた。荷物をまとめに来たのではなく、ここしか居場所がなくなったからだ。
 父親との会話は、予想通り話にならなかった。神代は徹底的に子供扱いされ、懸命に述べた意見もすべて否定された。感情的になった神代は、今まで言えずにいたことも含めて、洗いざらい父親にぶちまけた。結果的に、売り言葉に買い言葉で、神代は家を出ることになった。近々弁護士が資産の生前分与の件で会いに来るという。その迅速さが、父親の怒りを表していた。
(はじめてだな……父様に逆らったの)
 もう実家には戻れない。夏休みはとっくに終わっているのに、大学に行く気もしなかった。特別親しくしていた友人もいない。改めて考えてみれば、築いた人間関係のなんて希薄なことか。
 神代は、ベッドにもたれてぼんやりとしたまま、無意識に手を腹部に持っていった。かすかな膨らみに、涙が流れた。今から、病院へ行く ――― たった一人で、この子を殺しに。
(……ごめんね、こんな私がお母さんで)
 神代は自分の幼さを自覚した。世間知らずで、考えが甘い。いくら否定しても、事実だった。家族にも頼れず、もちろん斎藤を頼るなんて論外だった。自分の父親相手に「絶対産むから」と偉そうなことを言っても、一人で育てる覚悟もなかった。
 ただ、恋をしただけなのに ――― 。
 神代が失ったものは、あまりにも大きかった。



 松波が神代からの電話を受けたのは、涼しい風が吹き始めた十月のことだった。松波が斎藤を殴った日から、一ヶ月近い時間が流れていた。

 夜遅くに松波の自宅に掛かってきた電話の声は、遠慮がちで、いつも怒られてはびくついていた神代の顔を思い出し、松波は顔をほころばせた。
「久しぶりだな、またこっちに戻ったのか?」
 はい、と応える神代の声は、妙に舌ったらずで甘えていた。
『いろいろご迷惑かけちゃったので……一応、報告しておこうと思って。
 子供は結局、堕ろしました。考えも何もかも甘かった』
 自嘲気味の笑い声に、松波は彼女が酔っているのだと気付いた。神代が下戸でないと知っていたが、こんな風に酔っているのは記憶に無い。
「そうか。これからどうするんだ?」
『悩んでても仕方ないから、また大学に戻って、頑張ります。うん、全部スタートから、やり直したいです』
 松波は、しばらく何を言うか考えていた。神代を励ましたい。どう言葉を掛けるべきか。
「……神代」
 受話器の向こうから、ガタンという音が響いたのは、そのときだった。松波は眉を潜めて、様子を伺った。
「おい、神代?」
『……ベッドから落っこちちゃいました。
 松波さん、いろいろありがとうございました。松波さんみたいな人がお父さんだったらよかったのにって、ちょっと思いましたよ』
「 ――― 俺を幾つだと思ってんだ。お前みたいな大きな娘を持った覚えはないぞ。それに、ドジな娘も御免だ」
 ですよねぇ、と明るい笑い声が聞こえて、それが泣き声に変わったような気がしたとき、突然ブツッと電話が切れた。
 嫌な予感を感じた松波は、神代の自宅に電話を掛け直した。ただコール音を繰り返すだけの受話器に、予感は確信に変わった。斎藤に連絡を取り、強引に神代のマンションの場所を聞き出すと、すぐさまタクシーに飛び乗った。
 管理人に緊急だとドアを開けさせ、部屋に入った途端に、ガス臭が鼻をついた。
「神代!」
 ソファの上にうつぶせに倒れている神代に声を掛け、松波は窓を開け放した。管理人が慌ててキッチンに入り、ガスの元栓を閉める。テーブルの下には、アルコール度数の高い洋酒の瓶が、空っぽになって転がっていた。
 照明に照らされた神代は、一ヶ月前とは比べられないほど痩せていた。真っ白になった頬に、涙で髪が張りついていた。いつも瑞々しくピンク色をしていた唇も、カサカサに渇いて、割れた皮がめくれていた。松波は彼女の呼吸を確かめると、痛ましさに顔を歪めた。
 神代の手を握りしめ、何度も呼びかけた。管理人が呼んだ救急車のサイレンの音が、高く低く響きながら近づいていた。


04.06.10

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