「こら、神代」
神代は、松波に呼びかけられても、足を止めなかった。立ち止まって口を開いたら、泣き喚いてしまいそうだ。ぎゅっと口を引き結んで、ズンズン歩く神代に、松波は眉をひそめて追いついた。指をのばし、ぎゅっと神代の頬を摘む。
「いひゃっ」
神代は立ち止まって松波を見た。松波はいつもの怖い顔をして、神代の頬から手を外した。代わりに腕を掴む。
「お前、バイト辞めるなよ。ちゃんと明後日、出てこい」
「……無理、です」
二度とここへ来ないつもりだった神代は、松波の手を振り解こうとしたが、彼は涼しい顔で目を細めただけだった。
「なんでだよ。お前、斎藤に騙されただけじゃないか。やましいことしてないだろ。
だいたいなぁ、甘やかされて世間知らずもいいとこのお前を、四ヶ月間、俺がどれだけ苦労して教育したと思ってんだ。やっと使えるようになったとこで来なくなったら、俺の今までの努力は何だったってことになる。そうだろ!?」
確かに、バイト開始当時は毎日怒鳴られていた……。神代は、松波の迫力に気圧されて、つい、こくりと頷いてしまった。
「よし。じゃ、メシ食いに行くぞ。ついでに送ってやる」
この状況で、空腹感を感じるわけがない。神代はその提案に呆然としたが、松波は有無を言わさずさっさと一人で納得して、歩き出してしまった
ビルの外に出ると、もう九月に入ったというのに、中天にかかる太陽が容赦なく気温を上げていた。日向にくっきりと影が落ちる。冷やし中華食べに行くか、と松波が言い、神代も早く影に入りたくて、滲む汗を感じながら頷いた。
(……さっきまで斎藤さんとあんな話してたのが、嘘みたい)
気がつけば、こんな風に空を見ることも最近なかった。青空に広がる雲を見る余裕もなく、ただ斎藤のことばかり考えて過ごしていた日々。
「松波さん」
空を見上げたまま、神代はつぶやいた。
「やっぱり私、バイト辞めます。大学も休みだし、赤ちゃんのことも……あるから。田舎に帰って、家族と話してきます」
そうか、と松波は柔らかい声で言った。
「 ――― またこっちに戻ることがあれば、連絡してこいよ。
よく怒鳴ってたけど、お前、仕事できたからな。そのうち俺の補佐に欲しいと思ってたくらいだ。それと、なんか困ったことあったら遠慮なく言え。斎藤のことだって、もう少し早く知ってりゃ……今更だけどな」
松波の大きなゴツゴツとした手が、神代の頭をぽんぽんと撫でた。怖いと思っていた松波を、厳しいけれど面倒見のよい、義理堅い男なのだと見直していた。本当に、自分には人を見る目がなかったのだ。
もう斎藤のことは振りかえらない。決めたら、急に思考がクリアになった。自分で考えて、決めていかなければ。どんな風に生きていくのか、誰でもない自分自身の未来なのだから。