その年の7月。神代は、二十歳の誕生日を、斎藤と一緒に過ごした。
好きな人に会える毎日は楽しくて、あっという間に過ぎていった。バイト先を変えたことは、どうせ反対されるのがわかっていたので、家族には内緒にしていた。斎藤に会う前は、幼さを残し、おっとりしていた神代だが、次第に外見にも気を配るようになり、自分に似合うモノを見極める目を育てていった。大学生活にもバイトにも慣れて、自信もついた。寮を出て、一人暮らしも始めていた。
言われる褒め言葉が、『可愛い』から『綺麗』に変わり、立ち居振舞いも女らしさが滲むようになった神代は、斎藤に夢中だった。心の中で、ずっと斎藤と一緒にいられると信じて疑わなかった。
だからこそ、バイト仲間から聞かされた一言は、神代を凍りつかせた。
「綾ちゃん、斎藤課長と仲いいよな」
仕事が早く終わったので、神代は久しぶりにバイト仲間と食事に来ていた。食事と言っても、場所は居酒屋。日頃つきあいの悪い神代と仲良くなろうと、男連中は何かというと神代に話題を振った。
社内でつきあってることが知られると、いろいろ面倒だと斎藤が言うので、二人の関係は秘密だった。バイトに手を出したなんて知られたら、怒られるから、と初めてキスしたときに、悪戯っぽく言われた。
秘密の関係は楽しかった。会社の中では、普通に仕事の会話を交わして、小さなメモで次のデートの約束をした。階段の踊り場でそっとキスを交わして、何事もないように仕事に戻ったりもした。見つかったらゲームオーバー。
「ここのバイトに誘ってくれたのも斎藤さんでしたから。帰り道が一緒だから、送ってもらえてラッキーですよ」
会社での神代のポジションは、相変わらず可愛がられ役だった。斎藤に対しても、ただ懐いているだけ、と周囲に見せかけていた。斎藤も、会社ではわざと神代を子供扱いした。
「斎藤さん、面白いよな。頼りなくって情けないのに、なんだかんだ言って上手く自分の意見通すだろ、あの人。
しかし、松波さんもそうだけど、本当、結婚してるようには見えねーよ」
思いがけないことを聞いて、神代はぎゅっと心臓を掴まれたような気がした。
「……結婚、してるの?」
「してんだよ、あれで! 家庭生活想像つかないよな」
声をあげて笑った男は、神代を見て息を呑んだ。今にも倒れそうな顔色で、ぼろぼろと涙を流す神代に、どう言葉を掛けていいかわからずに、ただうろたえた。神代はきゅっと唇を噛んで、震える声で男に話し掛けた。
「斎藤さん、本当に結婚してるの? でも、指輪してないもん」
「え、と。綾ちゃん」
本格的に泣き出してしまった神代に、その場にいた5人の男女は固まってしまった。神代と斎藤の関係は、疑いようも無く彼らに知られた。
神代はその夜、何度も斎藤の携帯に電話を掛けた。翌日の夜会う約束をしていたけれど、とてもそれまで待てなかった。ようやく捕まえた斎藤は、泣き声に驚いて、すぐに神代の部屋へ来てくれた。
「どうしたの、その泣き顔」
神代は、斎藤が来るなり、抱きついて更に涙を零した。
時間は夜11時を過ぎている。こんな時間でも、連絡をとればすぐ会いに来てくれるし、週二回はデートする。この部屋に泊まる事だってある。妻帯者にこんな真似ができるはずない。神代はそう自分に言い聞かせ、ぐっと涙をこらえて斎藤を見上げた。
「斎藤さん、結婚してるって聞いた……違うよね?」
強張った斎藤の顔が、神代に事実を教えた。
――― 裏切られた。
神代は力を失って、すとんと床に座り込んだ。斎藤が同じように腰を下ろして、神代の顔を覗きこむ。いつもの頼りない、どこか掴み所の無い声で、ごめん、と一言つぶやいた。
「黙っていて、ごめん。でも、好きなんだ ――― 綾が好きなんだ。
結婚はしてるけど、一緒に暮らしてるだけだよ」
神代には、それが本心なのか、ただの言い逃れなのかわからなかった。
「……じゃあ、別れたらいいのに。私のこと好きなら、ずっと一緒にいられるようにして」
そのつもりだと、斎藤は言った。もう別れ話はしているから、と。
冷静に考えれば、口先だけの約束とわかったのに、神代は信じた。お互い好きなら、一緒にいられない方がおかしい。私たちは離れちゃいけない。
生理が遅れていることに気づいたのは、それから数日後だった。
自分のどこにそんな勇気があったのか。
神代はその頃のことを思い出すたびそう思うが、たった一人で産婦人科の病院へ行った。妊娠がわかったときは、不安より喜びが大きかった。斎藤は心から好きだと言ってくれた。少し順番は狂ったけれど、斎藤にさっさと離婚してもらって、早く一緒に暮らそう。子供の為にも。
客観的に見ればあまりにも利己的なその恋情は、斎藤に妊娠を告げた日に、ガラガラと崩れた。
「 ――― 今は、駄目だ。産めるわけがない……今回は、堕ろそう」
斎藤は、子供を産んで育てるということが、どれだけ大変か切々と語った。そこで初めて、神代は彼に子供がいることを知った。彼が自分のことを面倒に感じ始めたことも、なんとなくわかった。
(いやだ。斎藤さんと別れるなんて)
ずっと、一緒にいたいのに。
斎藤は電話に出なくなった。会いに来なくなった。会社で話し掛けようとしても、神代のシフトを知っていた彼には、上手にかわされた。神代と斎藤の関係に気付いたバイト仲間の視線も痛かった。
そうしているうちに、時間は過ぎていった。順調にお腹の赤ちゃんは育ち、神代は現実が信じられず、冷静な判断力を失った。
話さなければ。斎藤と、きちんと今後のことを話して、また以前のように、幸せな時間を取り戻さなければ。そればかり考えて、ある日彼女は行動を起こした。
「斎藤さん」
会社の昼休み。バイトの予定がない日に、神代は事務所に行った。まだ何人か、昼食に出てない社員がいて、斎藤もその一人だった。突然現れた神代に動揺しているのがハッキリわかった。彼を事務所の隅にある休憩室へと呼んで、神代は必死の思いで口を開いた。
「なんで、私を避けるんですか……っ」
黙り込んだままの斎藤の表情からも態度からも、神代を厄介に思っているのは明らかだった。
もう終わりなんだ ――― もう終わりだ。何もかも。二度と、この人が以前のように笑いかけてくれる日は来ない。
悲しみと憎しみがふくれあがって、神代は涙を流しながらただ言葉を吐き出した。
「こんな風に、うやむやにするなら、ハッキリ別れたいって言って欲しかった!
結婚してるならしてるって、どうして最初から言わなかったんですか。どうして私を抱いたんですか!? 好きだって言ったのに! 私から逃げるような真似して」
しゃくりあげて、呼吸が上手くできなかった。苦しくて、喉の奥から笛のような音がした。神代の声は次第に大きくなり、開け放した扉から、事務所に残っていた社員へと届いていた。
「おっ、お腹の……赤ちゃん……どうするの。私は、産みたい。産みたいです」
静まり返ったオフィスに、神代の泣き声だけが響いていた。斎藤は顔色を失って、表情を強張らせたまま、神代を見ていたが、その目に浮かんでいたのは怒りと不信だった。
コツ、と革靴の硬い音が響いて、休憩室に顔を出したのは松波だった。彼もまた、強張った顔をしていた。
「 ――― 斎藤……この馬鹿……! お前、自分が何したかわかってんのか!!」
次第に場がざわめき始めた頃、神代の体がぐらりと揺れた。張り詰めていた気持ちが緩んで貧血を起こし、倒れた神代を抱き起こしたのは、斎藤ではなく、ずっと一緒に仕事をしてきた松波だった。
暗闇に引きずり込まれる。このまま目が覚めなければいいのに ――― 神代はまた一筋涙を流して、意識を手放した。