Keep The Faith:3
第15話 ◆ 業(2)

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 その年の7月。神代は、二十歳の誕生日を、斎藤と一緒に過ごした。
 好きな人に会える毎日は楽しくて、あっという間に過ぎていった。バイト先を変えたことは、どうせ反対されるのがわかっていたので、家族には内緒にしていた。斎藤に会う前は、幼さを残し、おっとりしていた神代だが、次第に外見にも気を配るようになり、自分に似合うモノを見極める目を育てていった。大学生活にもバイトにも慣れて、自信もついた。寮を出て、一人暮らしも始めていた。
 言われる褒め言葉が、『可愛い』から『綺麗』に変わり、立ち居振舞いも女らしさが滲むようになった神代は、斎藤に夢中だった。心の中で、ずっと斎藤と一緒にいられると信じて疑わなかった。
 だからこそ、バイト仲間から聞かされた一言は、神代を凍りつかせた。

「綾ちゃん、斎藤課長と仲いいよな」
 仕事が早く終わったので、神代は久しぶりにバイト仲間と食事に来ていた。食事と言っても、場所は居酒屋。日頃つきあいの悪い神代と仲良くなろうと、男連中は何かというと神代に話題を振った。
 社内でつきあってることが知られると、いろいろ面倒だと斎藤が言うので、二人の関係は秘密だった。バイトに手を出したなんて知られたら、怒られるから、と初めてキスしたときに、悪戯っぽく言われた。
 秘密の関係は楽しかった。会社の中では、普通に仕事の会話を交わして、小さなメモで次のデートの約束をした。階段の踊り場でそっとキスを交わして、何事もないように仕事に戻ったりもした。見つかったらゲームオーバー。
「ここのバイトに誘ってくれたのも斎藤さんでしたから。帰り道が一緒だから、送ってもらえてラッキーですよ」
 会社での神代のポジションは、相変わらず可愛がられ役だった。斎藤に対しても、ただ懐いているだけ、と周囲に見せかけていた。斎藤も、会社ではわざと神代を子供扱いした。
「斎藤さん、面白いよな。頼りなくって情けないのに、なんだかんだ言って上手く自分の意見通すだろ、あの人。
 しかし、松波さんもそうだけど、本当、結婚してるようには見えねーよ」
 思いがけないことを聞いて、神代はぎゅっと心臓を掴まれたような気がした。
「……結婚、してるの?」
「してんだよ、あれで! 家庭生活想像つかないよな」
 声をあげて笑った男は、神代を見て息を呑んだ。今にも倒れそうな顔色で、ぼろぼろと涙を流す神代に、どう言葉を掛けていいかわからずに、ただうろたえた。神代はきゅっと唇を噛んで、震える声で男に話し掛けた。
「斎藤さん、本当に結婚してるの? でも、指輪してないもん」
「え、と。綾ちゃん」
 本格的に泣き出してしまった神代に、その場にいた5人の男女は固まってしまった。神代と斎藤の関係は、疑いようも無く彼らに知られた。
 
 神代はその夜、何度も斎藤の携帯に電話を掛けた。翌日の夜会う約束をしていたけれど、とてもそれまで待てなかった。ようやく捕まえた斎藤は、泣き声に驚いて、すぐに神代の部屋へ来てくれた。

「どうしたの、その泣き顔」
 神代は、斎藤が来るなり、抱きついて更に涙を零した。
 時間は夜11時を過ぎている。こんな時間でも、連絡をとればすぐ会いに来てくれるし、週二回はデートする。この部屋に泊まる事だってある。妻帯者にこんな真似ができるはずない。神代はそう自分に言い聞かせ、ぐっと涙をこらえて斎藤を見上げた。
「斎藤さん、結婚してるって聞いた……違うよね?」
 強張った斎藤の顔が、神代に事実を教えた。
 ――― 裏切られた。
 神代は力を失って、すとんと床に座り込んだ。斎藤が同じように腰を下ろして、神代の顔を覗きこむ。いつもの頼りない、どこか掴み所の無い声で、ごめん、と一言つぶやいた。
「黙っていて、ごめん。でも、好きなんだ ――― 綾が好きなんだ。
 結婚はしてるけど、一緒に暮らしてるだけだよ」
 神代には、それが本心なのか、ただの言い逃れなのかわからなかった。
「……じゃあ、別れたらいいのに。私のこと好きなら、ずっと一緒にいられるようにして」
 そのつもりだと、斎藤は言った。もう別れ話はしているから、と。
 冷静に考えれば、口先だけの約束とわかったのに、神代は信じた。お互い好きなら、一緒にいられない方がおかしい。私たちは離れちゃいけない。
 生理が遅れていることに気づいたのは、それから数日後だった。

 自分のどこにそんな勇気があったのか。
 神代はその頃のことを思い出すたびそう思うが、たった一人で産婦人科の病院へ行った。妊娠がわかったときは、不安より喜びが大きかった。斎藤は心から好きだと言ってくれた。少し順番は狂ったけれど、斎藤にさっさと離婚してもらって、早く一緒に暮らそう。子供の為にも。
 客観的に見ればあまりにも利己的なその恋情は、斎藤に妊娠を告げた日に、ガラガラと崩れた。
「 ――― 今は、駄目だ。産めるわけがない……今回は、堕ろそう」
 斎藤は、子供を産んで育てるということが、どれだけ大変か切々と語った。そこで初めて、神代は彼に子供がいることを知った。彼が自分のことを面倒に感じ始めたことも、なんとなくわかった。
(いやだ。斎藤さんと別れるなんて)
 ずっと、一緒にいたいのに。

 斎藤は電話に出なくなった。会いに来なくなった。会社で話し掛けようとしても、神代のシフトを知っていた彼には、上手にかわされた。神代と斎藤の関係に気付いたバイト仲間の視線も痛かった。
 そうしているうちに、時間は過ぎていった。順調にお腹の赤ちゃんは育ち、神代は現実が信じられず、冷静な判断力を失った。
 話さなければ。斎藤と、きちんと今後のことを話して、また以前のように、幸せな時間を取り戻さなければ。そればかり考えて、ある日彼女は行動を起こした。
「斎藤さん」
 会社の昼休み。バイトの予定がない日に、神代は事務所に行った。まだ何人か、昼食に出てない社員がいて、斎藤もその一人だった。突然現れた神代に動揺しているのがハッキリわかった。彼を事務所の隅にある休憩室へと呼んで、神代は必死の思いで口を開いた。
「なんで、私を避けるんですか……っ」
 黙り込んだままの斎藤の表情からも態度からも、神代を厄介に思っているのは明らかだった。
 もう終わりなんだ ――― もう終わりだ。何もかも。二度と、この人が以前のように笑いかけてくれる日は来ない。
 悲しみと憎しみがふくれあがって、神代は涙を流しながらただ言葉を吐き出した。
「こんな風に、うやむやにするなら、ハッキリ別れたいって言って欲しかった!
 結婚してるならしてるって、どうして最初から言わなかったんですか。どうして私を抱いたんですか!? 好きだって言ったのに! 私から逃げるような真似して」
 しゃくりあげて、呼吸が上手くできなかった。苦しくて、喉の奥から笛のような音がした。神代の声は次第に大きくなり、開け放した扉から、事務所に残っていた社員へと届いていた。
「おっ、お腹の……赤ちゃん……どうするの。私は、産みたい。産みたいです」

 静まり返ったオフィスに、神代の泣き声だけが響いていた。斎藤は顔色を失って、表情を強張らせたまま、神代を見ていたが、その目に浮かんでいたのは怒りと不信だった。
 コツ、と革靴の硬い音が響いて、休憩室に顔を出したのは松波だった。彼もまた、強張った顔をしていた。
「 ――― 斎藤……この馬鹿……! お前、自分が何したかわかってんのか!!」
 次第に場がざわめき始めた頃、神代の体がぐらりと揺れた。張り詰めていた気持ちが緩んで貧血を起こし、倒れた神代を抱き起こしたのは、斎藤ではなく、ずっと一緒に仕事をしてきた松波だった。
 暗闇に引きずり込まれる。このまま目が覚めなければいいのに ――― 神代はまた一筋涙を流して、意識を手放した。



 気付いたとき、神代は医務室にいた。ベッドの近くに、斎藤と松波がむっつりと黙り込んで、向かい合っていた。
「 ――― 気がついたか」
 神代に声を掛けてきたのは松波だった。斎藤は神代を見ようともしなくて、その態度でまた神代を傷つけた。
「何も、あんなところで話さなくてもよかっただろう」
 斎藤に低い声で言われても、神代はもう何も言いたくなかった。じゃあ、どうすれば話を聞いてくれたのだろう。自宅に押しかけた方がよかったとでも?
「俺の一生、台無しにしてくれたな。妻は、専務の娘なんだ。今日のことも、すぐに知られる……これで離婚決定だ、満足か?」
 気弱そうで、情けなくて、そういうところを愛しいと思っていた。可愛くて、抱きしめてあげたいと。今は、斎藤のそういう部分を、汚いと思った。狭量なだけだ。意気地なしで、口だけ。
 ただ純粋に好きだった頃の、幸せな記憶が汚されていくのを感じていた。本当に、心からお互いが好きだったときが確かにあった。確かにあったのに。
「 ――― 奥さんと別れるって言ってたのも、嘘なんだ」
 綺麗だった初恋が、ドロドロと汚れていく。こんな風に陳腐な展開に巻き込まれているなんて信じられなかった。ドラマみたいだ、と心のどこかで思った。
 斎藤は何も言わず、両手で顔を覆って大きな溜息をついた。
「綾がこんな行動を起こすなんて、思いもしなかったよ」
(悪いのは、私だけ? あなたは?)
 
 ずっと黙っていた松波が急に立ちあがった。神代に背中を向けて、斎藤の前に立つと、何の前触れもなく力いっぱい彼の頬を殴りつけた。体格のいい松波に比べて、線の細い斎藤は、そのまま椅子から吹き飛んで、派手な音を立てた。
「どこまで情けないんだ、てめぇは。
 神代騙して夢中にさせといて、都合悪くなったら逃げやがって! 家庭も信用も失いたくないなら、最初からやるんじゃねぇよ。お前が逃げてどうすんだよ。子供できてんだろ、しっかり現実見て、お前が覚悟決めなきゃいけないんだろうが!!」
 強かに壁に背中を打ちつけた斎藤は、うめきながら顔を上げた。口の中が切れたのだろう、唇の端から血が垂れていた。松波を仰ぎ見た、その瞬間に、つー、と鼻血が出た。
「……格好悪いの」
 神代の口から、ふふ、と笑い声が漏れた。なんて情けない男だろう。
「 ――― 松波さん、もういいです。これ以上、関わりたくない」
 これ以上失望したくない。
 神代は斎藤を全く見ずに、医務室を出た。松波が追いかけてくるのが、足音でわかった。  


04.06.07

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