Keep The Faith:3
第14話 ◆ 業(1)

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 過去は消せない。
 未来は見えない。
 結末がどうでも、この気持に偽りはない。
 嘘で塗り固めても、純粋さは消えない。

 ――― 私はどこへいくのだろう。



 日崎がまだ神代の部屋にいた頃、先にマンションを出た日向は、疲れ果てた体で帰路についていた。
 車が行き交う交差点で、信号が変わった途端に、ものすごい勢いで赤のカローラ・フィールダーを発車させた。スムーズに加速して追い越し車線をひた走る、その運転席で、日向はハンドルをぎゅうっと握りしめた。
「ああ、もうっ!!」
 前を走る遅い軽自動車にクラクションを鳴らした。車線変更して追い越す。腹が立って仕方ない。40時間近く仮眠も取らず動いているのに、気持ちが高ぶって眠気など欠片も感じなかった。
(綾の馬鹿者、馬鹿者、馬鹿者―ッ!)
 今日一日のことを振り返ると、納得がいかなくて叫び出しそうになった。
 好感度良しの青年だった日崎も、あんな聖人君子みたいな顔をして、しっかりやることはやっていたのだ。現時点で何も知らない彼に罪はないとわかっていても、日向はあの場で指を突きつけてやりたかった。
(『綾は君の子供を妊娠してるのよ。さあ、どうするの!?』って言いたかったわよ、本当に! 我ながらよく我慢できたもんだわ)
 神代の側に居る日崎を見ていれば、少なからず神代を想っているのは明らかだった。神代だって、嫌いならあれほど近づけるわけもない。二人に未来はあるように見えるのに。

 昼間、神代の妊娠が発覚した後、日向は彼女を連れて、懇意にしている産婦人科へ行った。内診と超音波検査の結果、妊娠11週目に入ったところだった。
「……悩むなぁ」
 病院を出て、車に乗りこむと、神代がこめかみを押さえてつぶやいた。日向は微かに響く雨音を聞きながら、真剣な顔で腕組みした。
「でも、あんまり悩む時間はないよ。もし中絶するなら、できるだけ早い方がいい。体に負担かかるし、12週過ぎたら、死産届も出さないといけない」
「ああ、産むのは決めてるのよ。仕事どうしようかなぁ、って」
 きっぱりと言い切った神代に、日向は驚いて「え?」と間抜けな声を上げてしまった。
「 ――― 子猫育てるわけじゃないのよ。わかってるの?」
「わかってる。私、結婚はあまり興味ないけど、ずっと子供は欲しかったの」
 妊娠がわかった直後はパニック状態だった神代だが、今は迷いの無い晴れやかな表情を見せていた。その決断の早さは、日向に自暴自棄という単語を思い出させたが、それは思い過ごしだった。神代は、現実的に将来のことを考えていた。
「……でも、あなた一人の問題じゃないでしょうが。彼には言うの?」
「言わない」
「どうして? ちゃんと責任取らせるべきよ。勢いで寝たって言っても、赤ちゃんできてるのは現実なんだし。綾に結婚する気がないなら、せめて認知してもらわなきゃ。養育費の問題もあるし」
「認知って言ったって……日崎にしてみれば、私が大丈夫って言ったからゴム無しでしたのに、妊娠しましたーって言われたら、もう詐欺だよ」
「何でよ!? 生でしたら妊娠する可能性が高いってことくらい、馬鹿でもわかるでしょうッ」
「生って言わないの。
 ――― とにかく、日崎には言わない。絶対」
 日向が全く口出しできないくらい、神代の決意は固かった。それから何を言っても無駄で、結局日向は、話し合うのに疲れて話題を変えた。

「それにしても、全然妊娠に気付かなかったの? もう三ヶ月だよ、兆候ありそうなものだけど」
「ああ、私、すごくつわり軽いの。前もそうだったし」
 聞き逃しそうなほどあっさりと、神代はそう言った。日向は欠伸をかみ殺していたのだが、一気に眠気が飛んだ。
「……アンタね、前って何よ」
「言っておくけど、相手は松波さんじゃないからね。
 二十歳のとき、妊娠したの。そのときは、どうしようもなくて、結局堕ろした。私が今まで生きてきた中で、一番辛い記憶よ」
 だから、と神代は続けた。痛みを堪えるように、かすかに目を細めて。
「堕ろしてくれ、っていう言葉だけは、二度と聞きたくない」
(もう二度と ――― あんな思いは、したくない)
 誰の心にも、触れられたくない傷はある。神代の一番深い傷は、今から十年前に刻まれた。



 神代が初めての恋に落ちたのは、19歳のときだった。

 高校を卒業した彼女は、初めて家を出て、寮生活を始めた。父は無口で厳しく、母は大人しく、よく気のつく人だった。ひとつ下の弟と、祖父母も一緒の六人家族。古く広い家で、使用人に世話されて生きてきた神代は、中学時代に友人の家に遊びに行くまで、それが当たり前だと思っていた。
 父親の事業は順調で、家は裕福だった。大学に入っても経済的に何も不自由はなかった。しかし、神代はそんな自分に疑問を持ち始めていた。いつまでも親に頼り切って生きていていいのだろうか、と。
 多くの友人がアルバイトをして生活費や小遣いを得ている中、神代は口座に入っている桁違いの金額を自由にできた。欲しいものはすぐ買えた、たいした喜びもなく。
 大学二年になって、友人と一緒に初めてアルバイトをした。はじめはバイトを禁止していた両親だが、バイト先が本屋だと言うと、しぶしぶ許してくれた。自分で思っていた以上に世間知らずだった神代は、最初こそミスの連続で落ち込んだが、働くことを楽しいと思った。

 彼に会ったのは、本屋の店員として働いていたときだった。
 閉店間際によく来る客だな、と神代はぼんやり思っていた。多いときは、週に三日くらい通ってくる。そして、経済誌かパソコン関連のコーナーで立ち止まった。いつもスーツ姿で慌てていたので、妙に視界に入った。
(大人なのに、そそっかしい人。変なの)
 神代の間近にいる異性は、父か弟で、ふたりともひどく落ち着いたタイプだったので、なんだか新鮮だった。神代は、大学も女子大だった上に、合コンに行っても高嶺の花と思われるのか、なかなか打ち解けて話せる男には会えなかった。
 その日、いつものように店でレジに入っていた神代に、彼が質問してきた。プログラムの専門書を探しているという。どういう分野なのか、何について書かれた本か、神代が質問し、話していると、男は不思議そうな顔をした。
「……君、詳しいね。コンピュータ関係の専門学校にでも行ってるの?」
 神代は首を振った。高校の入学祝に買ってもらったパソコンをいじるのが楽しくて、そのうち自分でプログラミングにも手を出すようになっていただけだ。あくまで独学だったが、好奇心から勉強したことだけに、下手な技術者より知識はあった。実際、高校在学中に資格も取っていた。
 神代の言葉を聞いて、男は本を買わず、神代に名刺を渡した。書きこまれた携帯電話の番号。レジから離れた、専門書の人気のない棚の前で、彼はひそっと声を潜めた。
「ウチの会社、プログラマー募集中なんだ。バイトの時給も、ここより高いと思うよ」
 笑った顔がやっぱり情けなくて、神代はつられて笑顔を浮かべた。
 ――― 斎藤圭一 さいとうけいいち 。それが、彼の名前だった。



 神代はそれから1ヶ月後に本屋を辞めた。一度見学に行ったその斎藤の会社は、雰囲気がよくて、何より趣味が仕事に生かせるのが気に入った。猫も杓子もIT産業と騒いでいた時代だ、景気もよかった。
 斎藤は元々技術畑の人間ではなく、気弱な印象とは裏腹に、優秀な営業だった。
「神代さん、帰るよー」
 プログラマーのバイトを始めてからは、寮の門限に遅れそうになると、斎藤が車で送ってくれた。周囲の人々は十代の神代をまるっきり子供扱いして、可愛がってくれた。実際、その頃の神代は、世間ずれしていなくて、素直で、見ていて危なっかしいくらいだった。

「まだ電車あるだろ。甘やかしてんじゃねーぞ、斎藤」
 そう言って斎藤の頭を小突いたのは、技術部の課長、松波史郎だった。神代と同じ部で働く彼は、ワイルドで口が悪くて、いつも神代を怒鳴った。曰く、電話の応対がなってない。自分の仕事にプライドと責任を持て。バイトも正社員もない、お前のミスは会社のミスになるんだ ――― 。
 必然的に、神代は松波が苦手だった。怖いし、タバコ臭くて、髪にはいつも寝癖がついていた。この人が結婚してるなんて信じられない、と内心思ったものだ。
「神代、お前もコイツが気弱だからって、足に使うな。斎藤だって、まだ仕事残ってンだからな」
「俺は構わないよ。未成年の女の子をこんな時間に一人で帰すなんて、危ないだろ」
 そんなとき斎藤は、松波をさっと交わして、神代を連れて事務所を出た。
「いいんですか?」
「ああ、いいよ。松波は怒るのが仕事だから。誰か一人が、憎まれ役にならなくちゃいけないときもあるからね」
 端で見ていると全然タイプは違うのに、斎藤と松波は同期のせいか、仲がよかった。共に35歳。男として脂が乗り切って、仕事が面白くてたまらない時期だった。

 斎藤と一緒にいる時間は穏やかだった。神代は週二回のバイトが楽しみになり、いつも遅くまで仕事をするようになった。斎藤も、そのうち毎回送るようになった。食事をするようになり、休日会うようになり、キスを交わすまで時間はそうかからなかった。

 このとき、神代は思いもしなかった。
 大嫌いだった松波だけが、この先自分を見捨てないことも。心から愛した人が、いつか自分を裏切ることも。初めて恋愛の甘さを味わった彼女には、恋の裏に潜んだ痛みも悲しみも、全く予想することさえできなかった。



04.06.02

NEXT : BACK  : INDEX : HOME  


Copyright © 2003-2006 Akemi Hoshina. All rights reserved.

inserted by FC2 system