Keep The Faith:3
第10話 ◆ 雨はやまない(1)

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 壊れるまで、壊れてもいいから、それでも側にいたかった。
 未来に何もなくたってよかった。
 足元さえ崩れるぐらいに自分を見失っても、
 それでも貴方だけは失いたくなくて。

 側に居られるだけで、何でもできると思っていた。
 ――― それが幻想だと知るまでは。



 日崎はかすかに聞こえた音で目覚めた。軽い電子音が、部屋のどこかで鳴っている。すぐに、携帯電話の目覚まし機能だと気付いた。
 起き上がろうとして、腕に抱いたままの神代を思い出し、彼女が起きてしまう、と慌てた。しかし、神代は日崎とほぼ同時に目覚めていて、彼が苦心している様子を、薄く開いた瞼の下から、じっと見ていた。
 神代の首の下にある左手を抜こうとしている日崎の顔を、斜め下から見上げて、髭が伸びているのに気付いた。寝起きの男の無防備さは、どうしてこんなに女心をくすぐるのだろう。
 神代は手を伸ばし、彼の顎に触れた。ざり、とした感触。日崎が視線を下げる。
「 ――― 起きてたんですか」
「いま起きたの。鳴ってるの、私の携帯。鞄に入れっぱなしだ……」
 神代は起き上がると、椅子の上に置いたままだったショルダーバッグを開けた。途端に、音が大きくなる。朝7時、神代の目覚めの曲だ。携帯のボタンを押すと、ぴたりと止んだ。
「ショパンの夜想曲、第二番ですね」
 日崎は耳に残ったメロディを、懐かしく思った。
「ああ、そっか。君、音大出身だったね」
 笑って、神代はベッドに腰掛けた。指先に触れたアイスノンは、生暖かく、分厚いナイロンの内側はゼリー状になっていた。
 夜中に日崎お手製の卵粥も食べたし、汗を吸った下着も替えていたので、気持ちがいい。今は厚手のバスローブを着ていた。正確に言うと、着替えたときに日崎に無理矢理着せられた、というのが正しい。
 ベッドで欠伸をしている日崎は、半袖のTシャツにジム用のハーフパンツという格好だった。半袖から伸びた腕は、いつもはシャツの下に隠れていてわからないが、引き締まった筋肉が綺麗な曲線を描いていた。
 少しぼんやりとしている日崎を、神代は微笑ましく思った。以前泊まったときもそうだった。神代がベッドを抜け出しても全然気付かなくて、子供みたいに熟睡していた。起こしたあと、しばらく、ぽやんとしていたっけ。
「調子どうですか?」
「大丈夫っぽい」
 神代が返事を終えないうちに、日崎の手が躊躇なく神代の額に触れた。
「まだ、ちょっと熱い」
「気のせいよ」
「……俺の感覚、結構正確ですよ。昔は、妹がよく熱出してたから。
 今日は俺が代わりに出勤しますから、神代さんはゆっくり休んで、明日からまた頑張って下さい。ね?」
(『ね?』って……私、何歳児なのよ)
 今年三十歳になった神代は、心中呆れながらも、日崎に甘えることにした。正直、まだ体はだるい。
「了解。じゃあ、ゆっくりお風呂でも入ろうかな」
 神代は悪戯っぽい視線を投げると、立ち上がってベッドに両手をついた。日崎の耳元で囁く。
「日崎はあとでシャワーどうぞ。まだベッドから出られないでしょう?」
「……」
「男性の生理現象だもんね」
「……気付かない振りして下さい」
 日崎は、毛布の下で膝を立てたまま、神代から顔を背けて片手で顔を擦った。寝起きの下半身はただでさえ元気なのに、腕に半裸の神代を抱いて寝ていたのだ。健康な成人男性としては当然の反応だろう。

 神代が出て行ったあと、日崎はしばらく目を伏せてじっとしていた。
 いつも寝る前に香水をつける癖でもあるのか、シーツからも毛布からも、かすかにrushの香りがした。日崎の中で、それはもう神代の匂いとしてインプットされている。
 自分と神代の関係は、どういうものなのだろう。神代は、自分のことをどう思っているのだろう。
(残り香だけで、こんなにあなたに触れたいと思うのに)
 神代の前では押さえていた感情が、ふと頭をもたげそうになって、日崎は深く呼吸を繰り返した。
 昨夜の神代は全てを投げ出すように日崎に甘えていたのに、朝になればどこか余裕のある態度だった。この部屋を一歩出てしまえば、神代はまた、ただの同僚としての距離感を保つのだろう。ここから入らないで、と見えないラインを引いて。
 関係を変えたい。日崎は切実にそう思った。
 彼女が気弱になったとき、支えられる存在でありたい、と。

 日崎の思考を破ったのは、突然響いたチャイムの音だった。日崎は思わず、びくっと肩を揺らした。神代はまだ朝風呂を楽しんでいるのだろう、チャイムは何度も響いた。
(まさか……松波社長じゃないだろうな)
 日崎は、思い浮かんだ可能性に息を飲んだ。もしそうなら、確実に修羅場だ。
 とりあえず、昨日脱いだまま椅子の背にかけていたブルーブラックのジーンズを穿いて、寝室を出た。神代もバスルームから出てきて、ローブ姿のまま触れた髪をタオルで包み、不機嫌な顔をして玄関を睨んでいた。
「誰か、訪ねてくる予定は?」
 日崎の問いに、神代はもちろん首を振った。
「無い。こんな朝早くに押しかけてくる馬鹿、知り合いにはいないわ。宅配かな」
「俺が出ましょうか。神代さん、その格好じゃマズいでしょう。
 それよりちゃんと髪を乾かして下さい。熱上がりますよ」
 神代が頷くのを確認して、日崎は玄関に向かった。まだチャイムを鳴らしている。いい加減しつこい、もし勧誘なら怒鳴るところだ。
 ドアスコープから覗くと、険しい顔をした女が、挑むような視線でドアを睨みつけていた。一体何の用なのか、皆目検討もつかない。日崎はきっかり三秒迷った末、すんなりドアを開けた。
「何か御用ですか」
 
 マンションの廊下に立ち尽くし、女は口を開いたまま固まった。まんまるになった目が、驚きを物語っている。
「何か?」
 日崎が再度、穏やかな口調で言って微笑むと、我に帰ったようにスッと真顔になった。濃いくっきりとした眉毛が、意志の強さを主張しているかのようだった。
「ここ、神代綾の部屋よね?」
「そうですが」
「あなた誰よ。綾はどこ? 居るの?」
 早口で疑問ばかりをぶつけられて、日崎はわずかに目を細めた。最初から感情的になっている相手と、まともな会話を交わすのは難しい。そもそも、この女性は誰なのだ。
「失礼ですが、どなたですか?」
「あ、た、し、が! 先に質問してんのよッ。もういい、退いて。綾と話すから」
 女は強引にドアを全開にすると、日崎を押しのけて中に入ろうとした。
「……日向」
 そのとき、ぽつりと神代の声が聞こえた。日崎が振りかえると、バスルームに戻ったはずの神代が、タオルを肩にかけたまま、気まずそうに佇んでいた。
「ハーイ、お久しぶりね、綾」
 さっさと玄関に入った女は、後ろ手にドアを閉めると、神代に向かって怒りのオーラを漂わせたまま、にこりと笑ってみせた。


04.05.23

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