Keep The Faith:3
第9話 ◆ Calling Me(3)

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 長いコールの後、日崎の耳に慌てた矢野の声が聞こえた。
『日崎。どうした、こんな時間に』
 夜十時過ぎ。日崎は礼儀正しくて、こんな遅くに電話することは滅多にない。矢野は、辻に何かあったと思ったらしい。
「遅くに電話してすいません。矢野さん、明日は何か予定ありますか?」
『いや、特には……』
「申し訳ないんですが、明日、俺の代わりに辻と京都に行って欲しいんです。日帰りで行く約束をしていたんですが、急用で行けなくなって」
『 ――― 俺はいいけど、辻には連絡したのか?』
 痛いところを突かれた。日崎はこれから連絡する辻の反応を思うと気が重かった。
 一ヶ月以上前から約束していた旅行だ。喜々としてガイドブックを捲っていた辻を思い出せば、心が痛んだ。
「まだです。今から電話しておきますよ」
『わかった。しかし、珍しいな、日崎が辻との約束破るなんて。仕事か?』
「……まあ、そんなところです」
 矢野は少し間を空けて、ふぅん、と微妙な発音の相槌を打った。何を言われるかと構えた日崎だったが、追求の言葉はなかった。
『まあ、いろいろあるよな ――― お互い。
 辻に連絡取れたら、メール入れといて。待ち合わせなんかは、アイツと直接話すから』
 矢野の声に、わずかに憂いが滲んでいた。そういえば、辻はまだ進路のことを矢野に話せていないと悩んでいたことを、日崎は思い出した。
(……矢野さんの性格考えたら、いい加減しびれを切らして自分から訊くだろう。それを、話してくれるまで待つなんて)
 矢野はもう知っているのかもしれない。辻が卒業したら、この街を離れることを。
「わかりました。辻を、よろしくお願いします」
 明日のことだけでなく、これからも。
 
 その後、辻にも連絡をとって、日崎はすぐに行動した。
 一度車に戻り、鞄に入れたままの手帳を取り出して、社員のシフトを確認した。明日出勤する社員は神代と、川口という三十代後半の温和な男だ。
(川口さん、午前中のみ出勤か)
 午後からラストまでは神代一人。日崎が代わりに出勤することになるだろう。
 日崎は腕時計で時刻を確かめた。食料を買いたくても、コンビニくらいしか開いていない。一番近いコンビニまで車を走らせ、買い物を済ますと、そのまま深夜まで営業しているドラッグストアに向かった。



 リビングの隅で、ネロは日崎に貰った餌を一心不乱に食べていた。
 キッチンのテーブルには、次々と買い物袋から出された物が並べられていく。イオン飲料のペットボトル、林檎、桃の缶詰、卵、ネギ、生姜、牛乳。冬なので、冷蔵庫に入れなくても一晩くらいは問題無い。
 日崎は料理が趣味なので、他人にキッチンを触られるのはいい気分がしないと知っている。だが、今回は仕方ない。冷蔵庫という聖域は侵さないから、許して欲しいところだ。
 とりあえず、食器棚からグラスを借りて、よく冷えたイオン飲料を注いだ。それとアイスノンを手にして、神代の様子を見に行った。
 ゆっくり寝室の扉を開けると、控えめにした照明の下、神代は相変わらず眠っていた。ベッドサイドのテーブルにグラスを置いたとき、日崎はサプリメントの瓶に気付いた。さっきは暗くて気付かなかったのだ。
 テーブルには、日崎が置いたグラスと、ピアスと、小さな目覚まし時計。そして、錠剤が入った子瓶。日崎はラベルの文字が気になって、手にとった。
(睡眠サポート……? ハーブが主成分の睡眠薬か)
 日崎は振り返って、神代を見た。ぎゅっと体を丸めて眠っている。彼女は、薬に頼らなければ眠れない夜を、どれくらい越えてきたのだろう。

 額に手を置くと相変わらず熱くて、汗のせいでぺたりと前髪が張り付いていた。
 日崎は無言のまま、神代の頭の下に手を入れ、枕を退けて、タオルに包んだアイスノンを置いた。
(汗がすごいな。せめてTシャツか何か着て、吸い取らせた方がいい)
 日崎は眠ったままの神代を抱き起こすと、上半身にバスタオルを掛けて、肩や背中の汗を拭いた。ゆらりと揺れた拍子に、神代が目を開けた。
「……あれ、まだ居たの」
 掠れた声が聞こえて、日崎はわけもなくホッとした。
「放って帰れないでしょう。着替えますか?」
「ん……喉渇いた」
 会話が噛み合っていない。神代は、ぼうっとした表情のまま肩に張り付いた髪を持ち上げた。その拍子に、体が前屈みになって、日崎の視界に神代の胸の谷間が飛び込んできた。
「少しは隠してくださいよ! 下着しか着けてないんですから」
「今更。もう知ってるくせに」
 神代は力の抜けた笑顔を浮かべると、そのままゆっくり後ろに倒れた。けほ、と軽く咳をするその体に、日崎が掛けたバスタオルが巻きついていた。
「飲みますか?」
 気をとりなおして、日崎はグラスを手にして神代に見せた。グラスは汗をかいて、よく冷えていることを物語っていた。
 神代はこくんと頷くと、空いていた日崎の左手を引っ張った。ベッドの端に手をついた日崎は、神代の顔を真下に見た。
「飲ませて」
 日崎はしばらく考えた。神代は仰向けに寝転がったまま、動こうとしない。上半身を起こして飲ませるのが一般的だが、神代の視線には違う意図があった。
「 ――― 口移しで?」
 日崎が恐る恐る口にした疑問に、彼女はあっさり頷いた。

 病人の我侭というのは、もっと可愛らしいものではないのか。
 日崎は頭を抱えたくなったが、もうどうにでもなれ、とグラスに直接口をつけ、キンと冷えた液体を口に含んだ。神代は、熱で潤んだ目で日崎の喉をじっと見ていた。
(熱のせいだ。熱のせいで、神代さんは子供みたいになってるだけだ)
 日崎は努めて冷静を装い、躊躇わず唇を合わせた。神代の様子を見ながら、わずかずつその口へと甘い水を注ぎ込む。神代は雛鳥のように、素直にそれを飲み込んだ。
 すべて移し追えたとき、離れようとした日崎の唇を割って、神代の舌が入ってきた。彼女の熱い手の平が、日崎の首に回される。日崎は一瞬体を引いたが、そのまま目を伏せて、ゆっくりと深いキスに応えた。飲み干したイオン飲料のせいで冷えた神代の舌は、長いキスの間に再び熱を持ち、日崎の情熱を呼び起こそうとするかのように執拗に求めてきた。
 日崎は、彼女の耳の横に両肘をついて上体を支えた。強く抱きしめたい気持ちを押さえて、汗のせいで湿ったままの神代の髪に指を通し、飽きることなく口付けを繰り返した。
 凍りつかせたはずの気持ちが溶けて溢れていく。

 はあ、と息をついて、神代が笑った。
「日崎って、ベッドではすごく色っぽい。昼間、会社で会うときはストイックなのにね」
「……どっちが」
 会社とプライベートで全く違うカオを見せるのは、神代の方だ。仮面を全て取り外した神代は、少女のように純粋で、まるで別人のように日崎の目に映る。そのギャップに、更に惹かれた。
(……駄目だ)
 また流される、呑み込まれるとわかっていても引き返せない。たまらなく神代に惹かれる。いつもは慎重に隠されている神代の脆く儚い部分を、強く感じていた。
 縋りついてくる腕を優しく撫でて、日崎は何かから守るように神代を包み込むと、今度は自分から唇を合わせた。
 艶やかに変わっていく神代の吐息が日崎の耳にも届く。心臓の鼓動まで聞こえそうな静けさの中で、声になる一歩手前の二人の息だけが、薄明かりの中ひそやかに繰り返された。
「日崎」
 唇をつけたまま神代が呼んだ。掠れた声はほとんど泣き声に近く、日崎は唐突に相手が病人だということを思い出した。
「……日崎」
 顔を離して、見つめ合う。神代の目元や頬が紅く染まっていて、日崎はその目尻から溢れた涙を親指で拭った。
「……どうしました?」
「 ――― 帰らないで」
 日崎は自分の下で苦しげな顔をしている神代をじっと見つめた。こんな状態の神代を置いて帰るつもりは毛頭なかったが、彼女の口から出た言葉の真意を疑った。
「それは……」
(松波さんの代わりに側に居て、ということですか?)
 そう思ったけれど、訊けなかった。代わりに「側にいますから」と微笑むと、神代の顔から目に見えて不安が消えた。

 日崎は神代の隣に体を横たえた。神代も自然に寝返りを打って、日崎に甘えるようにその胸に顔を埋めた。日崎の右手が神代の髪を撫でる。その触れ方があんまり優しくて、神代はそのまま泣きたくなった。
「君の欠点を見つけたわ」
 神代は目を閉じて、小さくつぶやいた。日崎の手は止まることなく神代に触れている。タオルごしに背中を擦られると、すうっと呼吸が楽になった。目の前の日崎の鎖骨に額を押し当て、神代は深く息を吐いた。
「優しすぎるところ。だから、私みたいなのにつけこまれるのよ……」
 声は細くなって、そのまま寝息に変わった。

 日崎は眠ってしまった神代を、注意深く抱きしめた。力を入れすぎて苦しめることがないように、起こしてしまわないように、そうっと。額をくっつけると、熱も思ったほど高くなくてほっとした。
「……誰にでもこんなことをするわけじゃない」
 安心しきって体を預けてくる神代の瞼に口付けた。
 体調を崩した神代が気になったのは本心だが、それすらも自分に対する言い訳のように思えた。
(深く関わらないようにしようと思ってからも、目が離せなかった)
 こうして神代を抱きしめたかった。あの夜の涙も、オフィスでぶつけられた言葉も忘れられず、何よりも神代への想いを忘れられずに。
 日崎は神代を腕に抱いたまま、目を閉じた。そうしたところで眠れないのはわかっていたけれど、せめて眠る努力でもしなければ、このまま神代を抱いてしまいそうだ。
(状況につけこんでいるのは、俺の方だ)
 肌に神代の寝息を感じながら、日崎は夜の中で息を殺し、欲望を殺し、自分の気持ちがどこにあるのかを、静かに考えた。

 もう誤魔化せない。
 神代はきちんと『日崎』と名を呼んで、帰らないでと言った。誰かの代わりではなく、自分を頼ってくれた。熱のせいでもいい。今だけでも。
 
 神代の求める男が自分ではないと知っていても ――― 側にいたかった。


(Calling Me/END)
04.05.14

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