Keep The Faith:3
第8話 ◆ Calling Me(2)

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 日崎は、無防備に見上げてくる神代の目が潤んでいるのに気付いて、はあ、と大きく吐息した。

 昼間、神代の手に触れたとき、なんだか熱いような気がしたのだ。気のせいだと思っていたが、夕方、会社を出る前にちらりと神代を見れば、明らかに顔色は悪くなっていた。
(体調崩したなら、さっさと帰ればいいものを)
 どうせ意地を張って最後まで仕事をするのだろうと予想して、悩んだ末、こんな風に待ち伏せしてしまった。そして、読み通り駅に向かわず大通りに出ようとした神代に、日崎は自分の推測が間違ってないことを知った。抱きとめた神代の体は熱い。
「どこまで無茶すれば気が済むんですか、全く」
 苛立った声で言うと、呆然としたままだった神代が、急に腕を伸ばして日崎と距離を取ろうとした。その弱々しい抵抗を意に介さず、日崎は「失礼します」と言って、彼女を抱き上げた。
「ちょっと、何……ッ」
 神代の声は、日崎の一睨みで途切れた。
 闇に目をこらせば、すぐ近くに黒のインプレッサが止まっていた。その助手席に押し込められた神代は、かなり怒っているらしい日崎を謎に思いつつも、目を閉じてシートに背中を預けた。疲れ果てた体から力が抜けていく。
 運転席のドアが閉まる音に気付いたけれど、神代は目を開けなかった。今すぐ眠ってしまいそうに瞼が重い。それに、日崎の怖い顔を見るのも嫌だった。なるようになれ、と投げやりな気分になったとき、突然シートが倒れた。
「え?」
 思わず目を開けた神代の顔の前に、日崎の肩があった。助手席のシートをリクライニングさせる為に、日崎は腕を伸ばしていた。彼の上半身が神代に被さるような体勢。
 横たわった神代が瞬きしている間に、日崎の顔が近づいてくる。彼の真剣な眼差しに、神代の心臓がどきりと鳴った。日崎の手が顔に触れた瞬間、神代はぎゅっと目を瞑った。
「吐き気とかは?」
 日崎の大きな手の平が、優しく頬に触れて、熱を確かめるように額に移る。先ほどまでの苛ついた声ではなく、いつもの静かな話し方だった。神代がそうっと目を開けると、至近距離で心配そうに覗き込んでくる彼の顔があった。もう怒ってないらしい。
 安心して、神代はかすかに笑ってみせた。
「……ない。しんどいだけ」
 日崎は神代から離れると、後部座席からバスタオルを取って、神代の膝に掛けた。
「なんでバスタオルがあるの……?」
「会社帰りに、時々ジムに泳ぎに行くから、水着とタオルは常備してるんです」
(ジム行ってるんだ。どうりで軽々と抱き上げられたわけだ)
 低いエンジン音が響いて、車は滑らかに動き出した。神代は睡魔と闘って、何度も瞼を閉じては、また開けた。日崎がそれに気付いて苦笑する。
「病院行きますか? 熱、結構高いですよ。明日は日曜だし、夜中になったらもっと上がるかもしれない」
「ああ、病院はいい。このままウチまで送って」
「大丈夫ですか?」
「寝たら治るわ、こんなの」
 信号に引っかかったので、日崎は助手席の神代を見た。右手で目元を覆って、大きく息をついているその様子は、言葉とは裏腹にかなり辛そうだった。
 日崎の視線に気付いたのか、神代は手を下ろして、独り言のようにつぶやいた。
「病院、嫌いなの。どうしてもヤバくなったら、医者やってる友達に来てもらうから」
 日崎は頷くと、正面に顔を戻した。アクセルをゆっくり踏み込んで、淡々と言葉を続ける。
「神代さん、鍵」
「え?」
 意味がわからず、神代は体を起こして日崎の横顔を見ようとした。それを察して、日崎の左手がやんわりと神代の肩を押し戻す。
「……しんどいんでしょう。寝てていいですから、鍵だけ出しておいて下さい。でないと、あなたを抱えて部屋に入れない」
「………」
 神代の住むマンションまで、車だと二十分もかからない。
 それまで眠らずにいられるだろうか。神代はぼうっとした頭で考えた。肩に触れたままの日崎の手の温かさが心地よくて、この手を信用できないわけがないと、自分でもよくわからない結論にたどり着いた。
 バッグから鍵を取り出して差し出すと、日崎は神代の肩に置いていた手で受け取り、ドアポケットに入れた。神代は、斜め後ろからその顔をじっと見ていた。相変わらずのポーカーフェイス。彼の感情が読めない。
(あんたなんか要らないって、言ったのに)
 二週間前に自分が投げつけた言葉を思い出すと、日崎の態度が信じられなかった。その優しさが、胸を締め付ける。日崎はずるい。こちらから謝る前に、こんな風に接してくるなんて。
「日崎」
 呼びかけると、まっすぐ前を向いたままで「なんですか」と返ってきた。神代はゆっくり目を伏せた。涙が出そうなのは熱のせいだ。そう自分に言い聞かせて、顔を窓の方へ向けた。
「ありがとう」
 そのまますうっと眠り込んでしまった神代へ、日崎の手が届きかけて、止まった。
 相変わらず長く続くテールランプの赤を見ながら、日崎はかすかに目を細めた。
 このまま触れて、髪を撫でて、抱きしめたい。一人でそんなふうに意地を張らないで。いつでも頼っていいからと、その耳元で囁いて、彼女を傷つける全てのものから守りたい。
(この間拒絶されたばっかりで、何考えてるんだ、俺は)
 叶うはずの無い想いを抱えて、日崎は自嘲気味に唇を歪めた。
 
 重ならない気持ちを内に秘めた二人を乗せて、車は静かに夜の底を進んだ。



 マンションの駐車場に車を停め、日崎は車から降りて助手席に回りこんだ。静かにドアを開けると、眠る神代の体をバスタオルに包んだまま抱き上げた。控えめな照明の下で見ても、神代の額に浮いた汗は確認できた。
「神代さん」
 小さく声を掛けてみるが、起きる気配はない。やはり先に鍵を渡してもらってよかった。
 日崎は車をロックすると、さっさとエントランスに入り、エレベーターに乗り込んだ。他人が見たら、怪しい男に見えるんだろうな、と冷静に思う。
 神代の部屋の前に立ち、日崎は複雑な心境で鍵を開けた。もう二度と来ることはないと思っていた場所だ。まさか二度目にして、自分が鍵を開けるとは思いもしなかった。
 後ろ手にドアを閉めて明かりをつけると、みゃーう、と猫の鳴き声がした。玄関先までお出迎えに来ていたネロが、警戒心のかけらもなく日崎に近づいて、その腕の中の神代を見上げている。
「ちゃんとご主人の許可は取ってるからな」
 リビングを過ぎて、寝室に入る。暗がりに目を凝らして、神代をベッドに下ろした。十一月下旬、もう夜は肌寒い。日崎は明かりをつけ、エアコンのスイッチを入れた。
「ん……」
 神代の声が聞こえて、日崎はベッドを振り返った。
「起きましたか?」
 近寄ろうとして、足を止めた。うっすらと開いた瞼の向う、神代の艶やかな目はぼうっと日崎の方を向いていた。壮絶に色っぽい。しかもベッドの上だ。これでその気にならない男がいるなら見てみたい。
 日崎が立ち尽くしている目の前で、神代は体を起こすとベッドサイドの時計を見た。ふー、と長い息を吐く。
「ごめん、本当に寝てた。もういいよ、日崎。アイスノンも風邪薬もあるし、大人しく寝るから大丈夫。鍵は、外からドアの郵便受けに放り込んでおいて」
 日崎もつられて時計を見た。22時。明日は予定がある。もう帰らなければいけない時間だった。
「迷惑かけてゴメンね。今度、昼ごはん奢るから」
 弱々しく笑いかけられたら、もうこれ以上ここにいる理由はない。日崎は、それじゃあ、と軽く頭を下げて、寝室を出ると扉を閉めた。正直、立ち去りたくなかったが、その理由を考えると後ろめたくなる。神代が心配だから側にいたいのではない。自分が離れたくないのだ。
 だから、もう帰った方がいいと自分に言い聞かせて、玄関のドアを閉め、言われた通りに鍵を内側に入れようとして、はたと気付いた。
(神代さん、明日出勤って言ってたよな?)
 今の神代の状態から言って、明日は絶対休んだ方がいい。シフトはどうだったろう。他に社員が出るのなら、休んでも問題ないと思うが、社員が神代一人なら、誰かに代わってもらわなければならない。
 日崎は再び鍵を開けて、神代の家に戻った。遠慮がちに寝室のドアをノックするが、返事はない。
「神代さん?」
 何度呼んでも、応えなかった。
(倒れてるんじゃないだろうな!?)
 不安になった日崎は、迷った末、寝室のドアを開けた。明かりがついたままの部屋で、神代はベッドに倒れこむように眠っていた。引き寄せたと思われる布団は、申し訳程度に被さっているだけで、薄いキャミソールごしに背中が見えていた。脱いだスーツは無造作に椅子に掛けられている。
「何が、大丈夫だよ……」
 日崎はゆっくりとした足取りでベッドに近づくと、神代の顔を覗き込んだ。枕に顔を埋めるようにした神代の頬に、涙の跡があるのに気付く。剥き出しの肩に触れると、汗が冷えて、ひやりとしていた。
 日崎は布団を掛けなおして、神代の肩まで覆うと、じっとその寝顔を見つめた。
 理由なんてどうでもよかった。ただ、疲れ果てて眠る彼女を一人にしたくない。こんな神代を一人にして帰れるわけがない。
 日崎は寝室を後にすると、自分のジャケットから携帯電話を取り出した。


04.05.09

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