Keep The Faith:3
第7話 ◆ Calling Me(1)

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 あなたの声で名前を呼んで
 世界の果てでも会いに行くから



 月曜の朝が来てしまった。
 日崎は目覚ましを止めて上半身を起こした。気が重い。
 金曜の夜、神代から逃げるように帰宅して、そのまま土日は休暇だっだ。壁に貼ってある社員のシフト表を見れば、神代が今日出勤するのは間違いない。
(軽蔑できれば楽なのに)
 松波との関係を認めた神代に対して、そんな感情は抱けなかった。別れたことを匂わせる発言と、痛々しい慟哭を思い出すと、そのまま抱きしめて泣かせてあげたい、と思ってしまう。潔く、これ以上彼女と関わらないと決心できればいいのだが、本人を目にすれば、きっと気持ちは彼女に向かうだろう。
(けじめをつけなきゃいけない)
 神代と会っても平常心でいられるか、と自問自答した。
 彼女に反応するスイッチを切る……できるだろう。
 日崎はひとつ溜息をつくと、ベッドからおりた。




 月曜日の朝が来てしまった。
 神代は、ぼんやりと天井を見上げたまま、低く流れる音楽を聴いていた。目覚ましが鳴るより早く目覚めたので、なんとなく以前好きだった女性ボーカリストのベストアルバムをかけていたのだが、結局三曲目の途中で止めた。
 恋を失ったときにラブソングを聴くと、歌詞の意味を全て自分にあてはめてしまうのはなぜだろう。過度に感情移入して、涙が出そうになる。朝から泣いている場合ではない。
 神代は寝室を出て、冷たい水で顔を洗った。
 今日は日崎が出勤する。彼に弱みは見せない、心の内は悟らせない。
(あの夜と同じことよ。何もなかったことにすればいい)
 肌を合わせた、あの初秋の夜。翌日会った二人は、何の違和感なくいつも通りに話せたのだから ――― 今度も大丈夫だ。
 神代は濡れた前髪をかきあげて、鏡を見た。さきほどの呆けた顔が嘘のような、きりりとした女がそこにいた。ピンと張り詰めた糸のような緊張感が漂っている。
 その糸がどれほど脆いものか、神代自身は気付いていなかった。



 正午、日崎がオフィスに入ったとき、既に神代はデスクで電話中だった。日崎が来たことにも気付かず、手帳を睨み、手元のメモ用紙にものすごい勢いでペンを走らせていた。
 ただならぬ様子に気付いた日崎は、上着を脱いで神代に近づく。パッと顔を上げた神代は、日崎に気付いて一瞬目を見張ったが、すぐに視線をそらせて松波を見た。神代の話す内容から電話の用件を推測していた松波は、躊躇なく頷いた。
「わかりました。その条件で承ります」
 神代は受話器を置くと、松波と二人で会議室に入った。五分後、日崎を含めオフィスいた正社員が集められ、すぐにミーティングが始まった。
「二週間、修羅場だ。覚悟しろよ」
 納期まで間がないシステムの発注。松波の言葉に全員顔色を変えたが、神代と日崎は心のどこかで安堵していた。
 何も考えられないくらい忙しい方がいい。そのうち、時間が全てを攫っていってくれるだろう。これ以上関わらない。これ以上踏み込まない。
 ミーティングの最中、日崎と神代は一度も目を合わせなかった。

 それからの二週間は、本当に慌しかった。社員の勤務シフトも可能な限り調整され、休日出勤、残業も続いた。バイトで手が空いている人間も、ことごとく仕事を振り分けられた。
 そんな中、誰よりも負担が増えたのは神代だった。
 ただでさえ他人の倍仕事をやってのける彼女だが、通常の業務に加えて飛び込んできたこの件は、神代が担当している得意先からの発注だった。進捗具合の報告を聞き、臨機応変に人を動かし、自分が担当している他の仕事も平行して進める器用さに、改めて共に働く人々は舌を巻いたが、その分神代の労働時間は否応なく増した。
「無理するな」
 松波が心配して声を掛けても、大丈夫です、と自信に満ちた声で答えた。
 日崎に対しても、頼れないと意固地になっている場合ではなく、有能なサポート役として遠慮なくこき使った。
 それでも、日崎の家庭の事情を知っている神代としては、毎日残業させるのは心苦しくて、定時の21時には帰宅させた。朝9時に出勤しているのだがら、それ以上は本人が望んでも帰らせた。神代自身は8時出勤、毎日深夜1時近くまで残っていた。松波も出張がない日は神代と同じ時間まで残っていたが、神代は不思議と二人きりになっても居心地の悪さを感じなかった。
「この仕事終わったら、温泉でも行くか」
 松波の、本気か冗談かわからない誘いに、
「いいですねー。みんな誘って、近場でもいいから行きましょうか」
 そう軽く返せる自分に驚いた。
(終わったんだなぁ)
 まだ寂しいけれど、つきあっていた頃のような焦燥感はない。二人抱き合ってきた時間が嘘のようだ。愛しいのは記憶。それでも尊敬は消えない。
「松波さん」
「なんだ?」
「……私、松波さんみたいな人になりたかったんです。今も、その気持ちは変わってません」
「そんな偉そうな人間じゃねぇよ。間違いもするし ――― 人を傷つけもする」
 ぽつりと松波がつぶやいた。
 神代は、お互い様だと思い、何も言わなかった。互いに愛しくて、恋い慕って、傷つけあった。過去は消えないし、消したくもない。今は、素直にそう思えた。



「お帰りなさーい!」
 神代がオフィスに戻ると、その場にいた全員が立ち上がって迎えた。笑顔と拍手が広がった。
 例の得意先への商品は、無事納期に間に合った。神代は朝一でアポイントをとって、客先に行っていたのだ。もちろん、クレーム無しで納品は完了した。
「ただいま! みんなも、お疲れさまでした。来週打ち上げしようね」
 本当なら今日の夜飲みに繰り出したいところだが、後回しにしていた仕事が山積みだった。神代も、昨夜は事務所で泊り込みだったので、できれば今日は早く帰って寝たかった。
 ふと松波のデスクに目をやって、そういえば出張だったな、と思い出した。後で電話で報告しておこう。
 自分のデスクに向かう途中、両手を出して待っている面々の手を叩いていく。何かの試合で勝った後のようだと思いつつ、気分がよくて、神代も笑顔になった。順番に一人一人と手を合わせ、途中で神代は足を止めた。
「あれ、日崎? 土曜なのに、なんでいるの」
「まだ片付いてない仕事があるんです。明日は遠慮なく休みますから」
「まあ、ご苦労様。私は明日も出勤よ!」
 力を込めて日崎の手の平を、パン、と叩いた。にっこりと笑いかけると、日崎も赤くなった手を見せて苦笑を返した。二人の間にぎこちなさはない。
(人のこと言えないけど、知らんぷりが上手な男)
 八つ当たりしてひどい言葉を投げつけたことを謝りたいと思っても、この二週間、仕事以外の会話は全くなかった。日崎はさりげなく、だが確かに、神代との距離を置いている。今更、神代の方から蒸し返すのは気が引けた。
 神代がそんなことを思いながら自分のデスクについた頃、神代に背中を向けて腰を下ろした日崎は、彼女に触れた自分の手の平を、じっと見つめていた。



 最後まで残っていた榊が、ようやく席を立った。神代は安堵の息を吐いて、それでも平然とした顔をしたまま時計を見た。既に21時を過ぎている。
「お疲れサンでした。女史も早めにあがった方がいいッスよ」
「ありがとう、もう締めて帰るわ」
 にこやかに応えながらも、神代はデスクの下で両手を強く握っていた。
(早く帰ってよ、榊! ここから出て行って)
 榊の姿が事務所を出て行くのを確認して、神代は大きく溜息をつくと、ぺたりと机に突っ伏した。
( ――― なんとか一日終わったな)
 座っているだけなのに眩暈がした。自分の右腕に乗せた額が熱いのがわかる。
 午後になってから、なんとなく寒気がしていた。夜になると頭痛まで加わって、本格的に風邪らしい。松波と別れてからこっち、寝不足が続いていた上に、ここ数日の激務だ。さすがに疲れが溜まっている。
 過労でも風邪でも、ここでこうして倒れていては悪化するばかりだ。神代は深呼吸して気合を入れると、給湯室に向かった。小さな冷蔵庫を開けて、常備している栄養ドリンクを一気に飲み干す。喉を通る冷たさに、少し意識がはっきりした。
 電車通勤の神代は、バッグを肩にかけてしばし悩んだ。この調子では、駅まで歩くのも辛い。タクシーで帰ろう。そう決めて、事務所の鍵を閉め、エレベーターに乗り込んだ。努めて平静を装ってビルを出ると、タクシーを捕まえる為に大通りに向かった。近道の一方通行の路地は明かりも少なく、いつもは通らないのだが、背に腹は変えられない。
 神代は、カツン、とヒールの音を響かせながら、路地へと続く角を曲がった。
 その途端、不意に腕を掴まれた。

 勢いよく振り返ろうとした神代だが、ただでさえふらついていた体はバランスを崩して、そのまま誰かに抱きとめられた。肩から落ちかけたバッグごと、神代を支えた力強い腕。
 神代が顔を上げるより早く、冷たい手の平が額に触れ、「やっぱり」という声が降ってきた。
 見上げた神代の視線の先に、怒ったような、困ったような、複雑な表情をした日崎がいた。


04.05.06

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