Keep The Faith:3
第5話 ◆ ラプンツェル(2)

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 昼食のピーク時間を過ぎた蕎麦屋の座敷で、神代は松波と向かい合って座っていた。
「……私、食事は済ませてるんですが」
「コーヒーでも頼め」
 メニューも開かず笊蕎麦大盛りと稲荷寿司を注文している松波に、神代は呆れて吐息した。
「また溜息だ」
 松波はネクタイを緩めながら苦笑を浮かべた。
「なんです?」
「なんです、じゃないよ。最近会社で溜息ばっかりついてるぞ、お前。何悩んでるんだ」
 松波はおしぼりで手を拭きながら、神代を見ずにさりげなくそう言った。神代は驚いて真顔になった。
(気付かれてる。N社の件なんて、呼び出す口実なんだ)
 松波と目を合わせることができずに、彼のごつごつとした指や、左手首の腕時計を見た。自分がプレゼントした時計をまだ使っていると気付いて、胸の奥が痛くなった。
「 ――― お前が、割り切れると断言したんだ」
 松波の声は静かで、やるせなかった。沈黙を守っていると、頼んだ物が運ばれてきた。神代はいつもならブラックで飲むコーヒーに、少しだけミルクを入れた。それが疲れているときの彼女の行動だと知っているから、尚更に松波は苛立った。
 割り箸を割る小気味いい音が響いた。松波は、熱い緑茶で唇を湿らせて豪快に蕎麦を啜る。それを見ながら、神代はさして欲しくもないコーヒーを飲んだ。松波の前にあった笊蕎麦はあっという間に平らげられて、座敷に再び静けさが戻ってきた。
 コーヒーを飲み終えてしまった神代は、逃げ出したい気持ちでじっと座っていた。松波が箸を置いたので、何を言われるかとビクビクした。

「……会社は辞めないと、言ったよな。仕事上は今まで通り続ける約束だろ。だったら、ちゃんと相談しろ」
 乱暴に口を拭って、松波は力強い眼差しで神代を見た。この店に入ってから初めて目と目を合わせた。
「一人で抱えるな。俺は、割り切れない。綾が悩んでいるなら助けてやりたいし、意地張って俺を頼らないなら、怒るからな」
(本気で、私が割り切ってると……思うんですか)
 こうして二人でいるだけで、息が詰まりそうなのに。
「言いたくないならいい。だが、もう駄目だと思ったら、すぐに言え。
 ――― 振った男に助けられたくないかもしれないが、仕事だからな」
 豪胆な松波らしくない、自虐的な言葉だった。
「……わかってます。
でも、そんな言い方しないで。私だって、平気じゃない」
 松波は何も言わなかった。
 二人の間を埋める空気は、どんどん重さを増していく。神代は、このまま居れば口にするつもりのないことまで喋ってしまいそうな気がして、すっと腰を上げた。コーヒーの代金を使いこまれた木製テーブルの上に置く。
「お先に失礼します。食後のコーヒー、ゆっくり味わって下さい」
 軽く頭を下げて、神代は障子を閉めた。途端に彼女の肩から強張りが消えた。細く長く息を吐いて、気を取り直して顔を上げる。
(二人きりになりたくないから、報告も相談も最小限にしてるのに)
 別れてから一ヶ月半経つのに、松波を近くに感じるとまだ心が反応した。側にいたくて苦しくなる。自分から終わりを告げたのに、だらだらと引きずっている。自己嫌悪に陥りそうだった。
(あんな、捨てられたみたいな言い方して)
 神代は何の理由も話さなかった。ただ、終わりにしたいと告げた。第三者的に見れば神代が松波を捨てたことになるのかもしれない。だが、恋を終わりへと導いたのは紛れもなく『二人』だった。むしろ、どちらかが悪ければよかった。憎いくらい嫌いになれたら、楽だった。もう日常になっていた関係はあまりに穏やかで ――― 神代に永遠を錯覚させた。最初から幻でしかなかったのに。

 一人残された松波は、障子の向うから神代の気配が消えるのを感じていた。
 また置いていかれた。そう思いながら、ぬるくなった緑茶をゆっくりと飲んだ。
(綾のヤツ、十年前より強くなったな……。
 あの頃は、まさかこんな関係になるとは思ってもみなかったが)
 松波はしばらく一人で佇んでいた。事務所に帰って神代と平然と接するためには、心構えが必要だった。



 20時を過ぎてオフィス内の人間が減るにつれ、日崎は居心地の悪さが増すのを感じていた。左後方から強い視線を感じる。肩越しに見れば、榊が悪びれずに新聞を開いていた。あくまで開いているだけで、顔は日崎の方を向いていた。全く無意味なカモフラージュだった。
「……何か用ですか」
「何も」
 無表情なまま答えられて、会話が続かなかった。榊は時間給ではないので、こうやって事務所で暇つぶしをしていたところで、会社側としては特に問題もない。
 榊にしては非常に珍しいことに、先ほどまで新人が四苦八苦しているのを見かねて指導していたのだが、指導していた相手も帰ってしまい、いよいよやることがなくなったらしい。
 気にしないよう努めたが、仕事中にじっと見られるのはあまり気分のいいものではない。日崎はプログラムの最終チェックをしながら、榊に話し掛けた。
「やることがないなら、帰ったらどうです」
 榊はひっそりと笑った。
「帰らないね、カズに用事あるから。お前が仕事終わるまで待ってんだから、早くしろよ」
 一方的な言い分に、日崎は画面から目を離し、眉間を押さえた。
「 ――― 初耳ですが」
「ずっと意味深な視線送ってるんだから、気づけよな」
 その視線には、果たしてどういう感情が込められているというのか……日崎は考えるだけでいつもの倍疲れそうになった。
 お先に、と声がして、最近来はじめた専門学校生が出て行くと、ついに事務所内は二人だけになった。
「夜組、撤退早いな」
 生活スタイルによって、バイトの人間が働く時間帯はまちまちだった。主に昼間働くバイトを昼組、17時以降に入ってくるバイトを夜組と呼んでいる。榊は気まぐれに事務所に来るので、どちらともいえない。オフィスは9時に開いて、21時に閉まる。今日は日崎が戸締りの係だ。
「大抵夜9時まで居る誰かさんにも、見習って欲しいですね」
 揶揄された榊だがそれぐらいで動じるわけもなく、素知らぬ顔で、腹減ったなぁ、とつぶやいた。
「カズ、ラーメン食いたくねぇ?」
「食べに行くのはいいですけど、まだ締めるまで三十分以上かかりますよ」
「もう置けよ、どうせ急ぎの仕事じゃないだろ」
「客先から電話があるかもしれない」
「なんでそう考えが堅いんだ」
 それだけ責任感が強いということか。榊の目に、日崎は甘すぎるように写る。いい意味のいい加減さがない。きっちりしすぎている。その真面目さが、裏目に出ることもあるだろう。
 しばらく会話が途切れた。
「ヒサキサンは相変わらずモテますこと」
 榊の言葉は棒読みで、日崎は嫌な気分になった。
「唐突に何を」
「バイトの小娘たちが噂してるんだよ。
 彼女いるのかしらー、インプレッサの助手席に乗せて欲しいわー」
 スキンヘッドの人相の悪い男が裏声で女言葉を話しているのは、楽しい光景ではない。日崎は仕事する気も失せて、画面の中のウィンドゥを次々と閉じた。榊を見るのが怖い。
 日崎の背中に一気に疲れが滲んだが、榊は気にせず裏声で話し続けた。
「料理も上手なんですって。まあ素敵。でも最近、神代女史と仲良さげじゃなーい?」
 日崎はひやりとしたが、表面上は何事も反応せずにやり過ごせた。榊の言葉を無視して黙々とデスクの上を片付ける。
 しかし、さすがに次の言葉で動きを止めた。
「それって、ありえなーい。神代さんには松波さんがいるじゃないのー」
 
 日崎はノートパソコンの電源を落とすと、椅子ごとゆっくりと回り、榊と向かい合った。榊の顔つきは、ふざけていた言葉とは対照的に真剣で、日崎は彼がずっと自分を観察していた理由がわかった気がした。
「……お前さ、神代さんとどうなの」
 静かな問いかけに、ごまかせない雰囲気があった。
「以前より気は合いますね」
「 ――― そりゃ、よかったな」
「……神代さんと、松波さんが? まさか。確かに親密ですが、松波社長は確か ――― 結婚」
「してるよ」
 日崎の言葉尻を捕らえて、榊が淡々と続けた。
「感づいてるヤツは少ないだろうけど、あの二人はプライベートでもパートナーだ。
 十年前、この会社を設立したのが松波社長と神代女史だって知ってるだろ? 社長は結婚してるが、ここ五年は別居してる。理由までは知らないが、だいたい予測つくよな。立ち上げたばっかの時なんて睡眠時間以外全部仕事だったんだろうし、そんな時期に支えあって毎日会ってりゃ、情も湧く。よくある話だ」
 日崎は背もたれに体を預け、かすかに眉間に皺を寄せて榊の言葉を聞いていた。
「まあ、最近よそよそしいから、別れ話とか出てんじゃねーの。
 女史に深入りするなよ。巻き込まれる」
 日崎が腕組みしたまま黙ってしまったので、榊は軽く息をついて彼の肩を叩いた。
「ほら、ラーメン食いに行くぞ」
 日崎が素直についてきたので、榊は自分の心配が杞憂だったのだと思った。余計なことを言ったな、と内心反省していた。榊の後ろを歩く日崎の心中が、暗い色に染まっていたのも気付かずに。


04.04.23

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