昼食のピーク時間を過ぎた蕎麦屋の座敷で、神代は松波と向かい合って座っていた。
「……私、食事は済ませてるんですが」
「コーヒーでも頼め」
メニューも開かず笊蕎麦大盛りと稲荷寿司を注文している松波に、神代は呆れて吐息した。
「また溜息だ」
松波はネクタイを緩めながら苦笑を浮かべた。
「なんです?」
「なんです、じゃないよ。最近会社で溜息ばっかりついてるぞ、お前。何悩んでるんだ」
松波はおしぼりで手を拭きながら、神代を見ずにさりげなくそう言った。神代は驚いて真顔になった。
(気付かれてる。N社の件なんて、呼び出す口実なんだ)
松波と目を合わせることができずに、彼のごつごつとした指や、左手首の腕時計を見た。自分がプレゼントした時計をまだ使っていると気付いて、胸の奥が痛くなった。
「 ――― お前が、割り切れると断言したんだ」
松波の声は静かで、やるせなかった。沈黙を守っていると、頼んだ物が運ばれてきた。神代はいつもならブラックで飲むコーヒーに、少しだけミルクを入れた。それが疲れているときの彼女の行動だと知っているから、尚更に松波は苛立った。
割り箸を割る小気味いい音が響いた。松波は、熱い緑茶で唇を湿らせて豪快に蕎麦を啜る。それを見ながら、神代はさして欲しくもないコーヒーを飲んだ。松波の前にあった笊蕎麦はあっという間に平らげられて、座敷に再び静けさが戻ってきた。
コーヒーを飲み終えてしまった神代は、逃げ出したい気持ちでじっと座っていた。松波が箸を置いたので、何を言われるかとビクビクした。
「……会社は辞めないと、言ったよな。仕事上は今まで通り続ける約束だろ。だったら、ちゃんと相談しろ」
乱暴に口を拭って、松波は力強い眼差しで神代を見た。この店に入ってから初めて目と目を合わせた。
「一人で抱えるな。俺は、割り切れない。綾が悩んでいるなら助けてやりたいし、意地張って俺を頼らないなら、怒るからな」
(本気で、私が割り切ってると……思うんですか)
こうして二人でいるだけで、息が詰まりそうなのに。
「言いたくないならいい。だが、もう駄目だと思ったら、すぐに言え。
――― 振った男に助けられたくないかもしれないが、仕事だからな」
豪胆な松波らしくない、自虐的な言葉だった。
「……わかってます。
でも、そんな言い方しないで。私だって、平気じゃない」
松波は何も言わなかった。
二人の間を埋める空気は、どんどん重さを増していく。神代は、このまま居れば口にするつもりのないことまで喋ってしまいそうな気がして、すっと腰を上げた。コーヒーの代金を使いこまれた木製テーブルの上に置く。
「お先に失礼します。食後のコーヒー、ゆっくり味わって下さい」
軽く頭を下げて、神代は障子を閉めた。途端に彼女の肩から強張りが消えた。細く長く息を吐いて、気を取り直して顔を上げる。
(二人きりになりたくないから、報告も相談も最小限にしてるのに)
別れてから一ヶ月半経つのに、松波を近くに感じるとまだ心が反応した。側にいたくて苦しくなる。自分から終わりを告げたのに、だらだらと引きずっている。自己嫌悪に陥りそうだった。
(あんな、捨てられたみたいな言い方して)
神代は何の理由も話さなかった。ただ、終わりにしたいと告げた。第三者的に見れば神代が松波を捨てたことになるのかもしれない。だが、恋を終わりへと導いたのは紛れもなく『二人』だった。むしろ、どちらかが悪ければよかった。憎いくらい嫌いになれたら、楽だった。もう日常になっていた関係はあまりに穏やかで ――― 神代に永遠を錯覚させた。最初から幻でしかなかったのに。
一人残された松波は、障子の向うから神代の気配が消えるのを感じていた。
また置いていかれた。そう思いながら、ぬるくなった緑茶をゆっくりと飲んだ。
(綾のヤツ、十年前より強くなったな……。
あの頃は、まさかこんな関係になるとは思ってもみなかったが)
松波はしばらく一人で佇んでいた。事務所に帰って神代と平然と接するためには、心構えが必要だった。