Keep The Faith:3
第2話 ◆ 十月の祝日(1)

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 『幸せ』に定義はあるだろうか。
 誰もが納得する幸福の形はありえない。
 個々で価値観が違うのだから、そういうものだと思う。
 
 それでも、願う ――― 君が幸せであるように。



 十月中旬の日曜日。晴れ渡った空はすっかり秋らしく、澄みきった水色がどこまでも広がっていた。
 午後三時過ぎに辻が帰宅したとき、日崎は礼服に身を包み、慶事用の白いネクタイを手にしたところだった。彼はそのまま自室のドアを開けてリビングに顔を出した。目が合った途端、辻の顔に無邪気な笑みが浮かんだ。
「ただいま!」
「……おかえり」
 日崎は複雑な心境で辻を見つめた。辻は昨夜、帰宅していない。そして日崎は、彼女がどこで誰といたのか知っていた。金曜か土曜の夜、辻は恋人であり、日崎の親友でもある矢野健の部屋に泊まりに行くのが恒例になっている。もちろん、辻からはきちんとその旨連絡がある。今更外泊についてどうこう言うつもりのない日崎だが、辻のことも矢野のこともよく知っているだけに、彼らが過ごした夜を思うと、なんともやりきれない気分になった。
 特に、辻は彼にとっては妹同然の存在だ。大きくなってからもすぐ手を繋いでくる、背中から抱きついてくる、甘えたがりの妹。それが恋人を作って、徐々に離れていく。
(これじゃ、兄というより父親の心境だな)
 鈴子が生きていたとしたら、彼氏ができた時、やっぱりこんな気持ちになったのだろうか。  
 そんな日崎の心中も知らず、辻はバッグをソファに置くと、慣れた仕草で日崎のカフスボタンを留めた。
「結婚式、何時から?」
「六時から」
 辻の問いに答えながら、日崎は数時間後に会うだろう懐かしい面々を思い浮かべた。

 高校時代の親友、井上達也からの招待状が届いたのは、夏真っ盛りの八月だった。卒業して六年 ――― 近くに住んでいても、お互い就職してからはなかなか会うこともなかった。それでも連絡だけは取っていて、だから日崎は、招待状が来る前から井上の結婚相手が誰かを知っていた。合田美弥という名の彼女は、日崎とも旧知の仲だった。
「友達に会えるの、楽しみだね」
 辻は柔らかく微笑んで日崎を見上げた。日崎は少し考えてから頷いた。懐かしい、楽しみだ、という期待とは別に、日崎の心には覚悟もあった。
 沢渡茜 ――― 合田美弥の親友である彼女も、式に来ると聞いていた。
 彼女は日崎にとって特別な存在だ。かつて愛し合った相手……四年前に別れてから、会ったのはたった一度だけだった。妹の鈴子が死んだとき、日崎は彼女にだけ涙を見せた。何も言わず受け止めてくれたが、それ以来顔を合わせていない。彼女に対する気持ちは複雑だった。
「井上から、ピアノ弾いてくれって頼まれてるんだ。早めに出るから」
「ん、わかった」
 日崎は部屋に戻ろうとして、辻の何か言いたそうな視線に気付いた。
「何?」
 辻は少し口ごもって、胸元のペンダントヘッドを指で弄んだ。それが矢野からの誕生日プレゼントだということは、日崎も知っている。
「結婚するって、どんな気分なんだろうね? なんだか、想像つかなくて」
「 ――― 世界で一番幸せらしいよ。井上談だ」
 数日前の井上との電話を思い出して、日崎は苦笑を浮かべて答えた。辻は、やっぱりそうだよね、と言いつつも不思議そうな顔をしていた。彼女の母はシングルマザーだ。辻の周囲に『結婚』している人は、とても少ない。

 日崎は、キッチンに向かった辻を見送って、少しだけ未来を想像した。
(辻もいつか、ウェディングドレスを着るんだろうな)
 彼の思考は、ますます娘を持つ父親の心境に近づいていた。



 式開始の二時間前に、日崎は式場に入った。新郎の井上は既にグレーのタキシードに着替えていて、照れくさそうに彼を迎えた。
「美弥はまだ用意してるんだ。悪かったな、先に来てもらって」
 井上たちの招待客はもちろんまだ来ておらず、他の結婚式に来ているらしい見知らぬ人々がソファでくつろいでいた。
「いや、俺も最近弾いてなかったから、リハーサルがあってよかった」
「リハってほどでもないけど。まあ、軽く合わせてみるかってことで」
 話していた二人は、近づいてきた男に気付いてそちらを見た。入り口がまっすぐ歩いてくる男は、日崎と同じように礼服を纏い、意気揚揚と足を進めた。左肩にギターケースを背負い、右腕に大きな花束を抱えて、満面の笑みを浮かべている。
「ひっさしぶりー!」
 両腕が自由なら、そのまま二人に抱きつきそうな勢いだった。
「テンション高いな……安藤」
 二年ぶりに会った日崎のつぶやきに、男は真顔で答えた。
「こんなめでたい日に、はしゃぐなという方が無理だ。これ、ウチの親から」
 日崎と井上の親友である安藤尚樹は、抱えていた大きな花束を井上に差し出した。安藤は現在、家業の花屋の三代目店主に収まっていた。
「今日はいろいろ世話かけるな。ありがとう」
 挙式後、施設内にあるレストランで披露宴が行われる。井上はレストランの生花の飾り付けを安藤に頼んでいたので、安藤は今日の午後から大忙しだったのだ。もちろん、ブーケも彼が作り上げた。
「こちらこそ、ご利用ありがとうございます」
 安藤は馬鹿丁寧にお辞儀すると、顔を上げてニヤリと笑った。
「時間ないんだろ。ザキと合わせるのも久しぶりだし、さっさと上に行こう」
 そう言って二階のレストランに目を向けた。
 三人揃って演奏するのは、高校の文化祭以来だ。それをとても楽しみにしていた男三人は、それこそグラウンドに駆け出す少年のように心を弾ませて階段を上った。



 最初こそ違和感があったが、すぐに三人の作り出す音は重なって優しい音楽になった。
 高校の頃よく演奏していたプリティ・ウォーマンが終わる頃には、レストランで準備をしていたスタッフから、拍手と口笛が飛んだ。
「あー、なんかタイムスリップした感じ」
 安藤が愛しそうにギターを撫でた。頷いた日崎の指が鍵盤の上を滑り、音を紡ぎ出すと、他の二人もすぐに反応して続いた。楽しさに時間を忘れる、そんな場合ではないのに。
 彼らの音を止めたのは、きつく響いた女の声だった。
「こら、井上! いつまで美弥をほったらかしするつもり? あんた、今日の主役でしょうが」

 ミュールの踵を早いリズムで鳴らしながら、何の前触れもなく沢渡茜は現れた。
 日崎の記憶よりずっと大人びた雰囲気を纏って、木蓮の花弁を思わせるクリーム色のシフォンドレスを揺らしながら、呆れたように三人を見据えた。
「式まであと一時間半! 井上はちゃんと美弥の側にいてよね。和人も安藤も、音合わせなんかすぐ終わったでしょう? 後で思う存分弾けるんだから、今本気にならないの」
 ピアノの近くに立っていた井上は、悪戯が見つかった子供のように視線をさまよわせたが、すぐに、ぷっと吹き出した。
「……沢渡、四年ぶりに会って最初の言葉がそれかよ。とことん委員長体質な、お前」
「あなたたちと居ると、ブレーキ役にならざるを得ないのよ」
 沢渡はそう答えると、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。
「井上、遅くなったけど、結婚おめでとう。今、美弥とも会ってきたの、支度出来てるよ……すっごく綺麗だった!」
「そうか。じゃあ俺、控え室に戻る」
 井上は、日崎と安藤に軽く手を振って背中を見せたが、沢渡の側でぴたりと足を止めた。あー、と小さく声を出して、俯く。
「――― 沢渡、遠いのに来てくれて……ありがとう」
 照れ隠しなのか、右手で鼻を掻きながらそう言うと、井上は足早にレストランを後にした。沢渡は珍しいものでも見るように、目を見張ってその後姿を見送った。
「井上でも照れることあるんだ」
「あいつなりに緊張してるんだよ」
 沢渡が振り返ると、いつの間にか日崎がすぐ後ろに立っていた。沢渡の中に、一瞬だけ甘い記憶が蘇る。いまでもお互い恋をしていると錯覚してしまいそうなほど、再会は自然だった。
 沢渡は、笑顔を浮かべて日崎を見上げた。客観的に見て、やっぱり素敵な人だと思った。そして、実際に顔を合わせても、自分の内から恋情が湧くことはないと実感した。好きだと思うけれど、それはもう恋でなく ――― 愛でもない。

「……元気だった?」
「元気だよ、辻も元気にしてる。茜に会いたがってた。
 俺も楽しみにしてたよ ――― まさか、会ってすぐ叱られるとは思わなかったけど」
 さきほどの沢渡を思い出して、日崎は苦笑を浮かべた。沢渡は反論しようと口を開いたが、視線を感じ、目だけ動かして左側を見た。ギターを抱えたいい年の男が拗ねていた。
「俺もいるんですけども。沢渡さん、安藤尚樹って知ってる? もうそんな存在感の薄い男のことなんか忘れたか、そうか、そうだよなー」
「……拗ねても可愛くないよ、安藤君」
 
 そんな風に安藤と話す沢渡を間近に見て、日崎も自分の気持ちを落ち着いて見つめていた。
(……俺たちの間にあったモノは、もう形を変えてる)
 あんなに激しかった恋愛感情は風化していた。そこにあるのは強い信頼と懐かしさ。
「茜も安藤も、下のロビーで話そう。スタッフの邪魔になる」
 二人を促して、日崎は階段を下りた。
 かつての恋人の隣を歩きながら、こうして会えてよかったと、心から思った。


04.04.02

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