Keep The Faith:3
第1話 ◆ THE POINT OF LOVERS’NIGHT

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 その夜から全ては変わる。
 あなたからの視線も、僕があなたの名を呼ぶ意味も。



 自分に限ってそんなことはありえないと思っている人間は多い。
 日崎和人も、そんな一人だった。

「日崎、起きて」
 耳元で囁かれた声に、日崎はゆっくりと瞼を持ち上げた。まだ眠り足りないというように、ゆっくりとした瞬きの後目を閉じたが、鼻をくすぐる香りに違和感を持つ。甘いけれど、スッキリとした香り ――― 辻とは違う香水。
 弾かれたように体を起こすと、ベッドに腰掛けて腕時計を着けていた女がちらりと日崎を見た。
「起きた? 君は午前半休ってことにしておくから、午後からきちんと出社するのよ。遅れないで。鍵はコレ、後で返して」
 まだ呆然としているうちに、手の平に鍵を押し付けられた。冷たい金属の感触に、一気に日崎の意識は覚醒する。
「あの」
「時間がないの。また事務所でね」
 遅刻厳禁、と言い足して、女はさっさと部屋を出て行った。すぐに玄関ドアの閉まる音が響いた。静かになった部屋で、日崎は呆然と状況を確認した。
 時計は朝の8時を回ったところ。裸で、ベッドで、見知らぬ部屋で ――― けれど立ち去った女を、彼はよく知っていた。
  神代 綾 かみしろあや 。日崎の直属の上司である。
「……嘘だろ」
 酒の勢いで女と寝る。自分には起こり得ないことだと……思っていた。

 自己嫌悪に陥りながらも、日崎はシャワーを浴びようとベッドルームを出た。ドアの外に黒猫がいて少し驚いた。みゃう、と甘えた声を出して足元にすり寄って来る様子は愛らしく、日崎はしゃがみこんでその頭を撫でた。
「おまえ ――― ネロ?」
 昨夜の記憶を探ると、ちゃんと名前を知っていた。
(もっと酒に弱い体質ならよかったのに)
 ところどころあやふやな部分はあるが、昨日のことはほとんど覚えていた。もちろん、神代を抱いたことも。記憶が無くなるくらい酔っていればよかった。会社で神代に対してどういう顔をすればいいのか。
 日崎は、はぁ、と溜息をついて、彼にしては珍しく力ない足取りでバスルームに向かった。脱衣所の棚に置かれた様々な瓶の中に、赤い香水があった。その四角いフォルムを、日崎の指がなぞる。鼻を近づけると、神代の残り香と同じ匂いがした。
 グッチの“Rush”。鏡には、その瓶を手にしたまま立ち尽くす、途方に暮れた男が映っていた。



 季節は秋になったばかり。九月下旬のその日は平日で、着替える為に帰宅した日崎だが、もちろん同居人の辻真咲は学校に行っていた。
 日崎の携帯には昨夜の着信記録が二件。メールが一件。全て辻からのものだった。『先に寝ます、おやすみなさい』というメールを朝になってから見た日崎は、再び深く自己嫌悪に陥った。常日頃、無断外泊だけはしないように、と辻に言ってきたのに、自分がしてしまったのだ。
(……情けない)
 夜、辻と顔を合わせるまでに言い訳を考えなければ。さすがに事実は言えない。そこまで考えて、まるで浮気した男の思考だ、と自嘲気味に思った。

 日崎が十三時前に事務所に赴くと、同僚が明るく声を掛けてきた。
「体調、もういいのか?」
 神代は、日崎の半日休暇を体調不良の為と説明したようだった。大丈夫だと頷いて、日崎はさりげなく神代を探した。そう広いオフィスではないが、昼休みも時間を定めてないので、今から昼食に出て行く人間も多く、人の出入りは激しかった。
 見当たらないなと思っていると、不意に後ろから彼女の声がした。ぽん、と軽く肩を叩かれただけで、日崎は内心ぎくりとした。
「おはよう、日崎。三十分後にミーティング開始だから」
 にこりと微笑んだ神代からは、昨夜のことなど微塵も感じられなかった。五時間前にベッドサイドで交わした会話が嘘のような、普段通りの接し方。
(神代さんにとっては、よくあること ――― なのかもな)
 日崎は自分のデスクに座るとパソコンを立ち上げ、ジャケットを脱いで背後のカウンター下に置いた。そのとき小さく金属音がして、日崎は動きを止めた。ジャケットの内ポケットには神代の家の鍵がある。その音に、昨夜のことが夢ではないのだと戒められている気がした。
 
 日崎が勤める『Webクリエートカンパニー/K‘s DESIGN』は、オフィスを覗いただけでは『会社』ではないようなイメージを受ける。みんな思い思いの服装でデスクに座り、パソコンを叩いている。交わされる会話にも堅苦しさがない。肩書きではなく名前で呼べ、というのが社長の松波の方針だった。社長でもバイトでも、意見を交わすときは対等でなければならないという持論を持つ松波は、今年四十五歳。社内でも人望は厚く、日崎も尊敬している。
 常時働いている人間は二十人近いが、その中で正社員は松波を含めて七人しかいない。それ以外はアルバイトである。ただし、時間給ではなく完全出来高制 ――― ひとつの仕事をこなせば、それに応じた報酬を払うというシステムだ。専門学校生や、大学生、趣味でPCをいじっているサラリーマン、過去にIT関連の技術者だったが出産を機に退社した主婦など、さまざまな境遇の人間が入り混じっている上に、メンバーは常に流動的だった。いわば、ひとつの企画ごとに契約を結ぶようなものだ。最初に面接さえ通れば自宅のPCで仕事をすることもできる。バイトも即戦力しか採用しない。バイトの中で突出して使える人間は正社員に引き抜く。
 だが、正社員と言えど甘えてはいられなかった。それなりに知識も技術もある人間が次々と入れ替わる状態は、硬直を許さない。新しい技術、情報 ――― わからないことはお互いにどんどん話し合い、結果的に会社全体のレベルは上がっていった。

 日崎も、大学時代に友人に誘われてここのバイトを始めたので、上司である神代とのつきあいはもう四年以上になる。アルバイトの主な仕事は、システム開発とホームページの構築。日崎たち正社員の仕事は、彼らの管理と顧客の獲得だった。もちろん、正社員は全員一定以上の技術力を持っていて、それぞれに担当する仕事もこなしている。
 日崎はこの仕事が好きだった。ホームページのデザインを考えたり作ったりすること自体も好きだが、それ以上に、常に人が動き活気に満ちている会社そのものに愛着を持っていた。



 ミーティングは三十分ほどで終わって、日崎と神代を含めた四人は応接兼会議室を出た。会議室と言っても、衝立を立ててソファセットとテーブルを置いているだけだ。ちなみに、納期まで期限が迫っているときは、仮眠室にもなる。
 日崎が自分のデスクに座ったときには、神代は外回りの為に既に事務所を出ていた。鍵を返すタイミングが掴めない。他人の家の鍵を預かっているのは、どうも落ち着かなかったが、とりあえず午前中に片付けるはずだった仕事をこなすのが先だ。
 気持ちを改めてファイルを取り出した日崎の耳に、応接から声が届いた。
「これ、神代女史のだよな?」
 日崎の後輩にあたる中村が、新しいアルバイトを連れて応接近くに立っていた。彼が手にしているのは、神代愛用の革表紙の手帳だ。彼女はどんな打ち合わせのときも、この手帳を離さない。もちろん外回りにも必携だった。忘れるなんて珍しい。
 日崎は迷わず中村に近づいた。
「まだ下にいると思うから、渡してくる」
 
 日崎はエレベーターでビルの地下駐車場に向かった。もう神代は出ているかもしれない、と思いながら、左手に手帳を、ポケットに入れた右手には鍵を握って。
 感じるか感じないかの浮遊感を味わって止まったエレベーターから出ると、すぐそこに壁にもたれた神代がいた。待ちかまえていたように。
「……手帳、わざと忘れたんですか」
 神代は日崎の差し出した手帳を受けとると、当然というように頷いた。
「日崎なら、機会を逃さないだろうと思って」
 日崎は神代の読み通りに動いたことになる。日崎はそれ以上何も言わずに、右手を差し出した。神代の手の平に鍵を落とす。
「昨日のことは、内緒ね」
「わかってます。引きずるようなマネもしません」
 二人は一瞬だけ相手を探るように目を合わせたが、何事もなかったかのように別れた。日崎はエレベーターに乗り込んで、神代が車に乗り込むのを見ていた。扉が閉じて見えなくなるまで、神代の肩の上でゆるく波打つ褐色の髪を、じっと。
(何も無かったように振舞うくらい、できる)
 日崎のポーカーフェイスは、長いつきあいの矢野にも嫌味を言われるほどだ。今更、社内の人間に怪しまれるような態度は取らない。神代も同じだろう。日崎の目に、昨夜の神代と、今会話した神代は別人のように映った。
 それでも日崎には気になることがあった。
(神代さんは、覚えてないんだろうか)
 昨夜は神代もひどく酔っていた。覚えていなくても不思議はない。

 彼女は昨夜、何度もごめんなさいと口にして、日崎の腕の中で泣いたのだ。

 まだ彼は知らない ――― 神代の涙の理由も、たった一度神代と関係したこの夜が、長い恋の始まりになることも。


(THE POINT OF LOVERS'NIGHT/END)
04.03.24

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