Keep The Faith:2
第18話 ◆ 恋の季節(4)

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 委員長に早退する旨を告げ、北沢は鞄を掴み、マフラーとコートを左腕に引っ掛けたまま階段を二段とばしで下りていった。正門を出ながらコートを羽織り、まだちらちらと舞う粉雪を見上げた。灰色の空に、吐く息は白く流れる。いつか見た空と似ていた。
 最近はいつも数人で話しながら帰っていたので、一人きりで門を潜るのは久しぶりだった。
(隣に空がいないだけで、こんなに静かなのか)
 北沢はぎゅっと唇を結び、鞄を持ち直して軽く足を踏み出した。空が学校を出てから、そんなに時間は経っていない。すぐに追いつける。
(もう待たない。こんな寒空の下、一人では泣かせない。もし泣いていたとしても ―――すぐに抱きしめてやるから)
 学校から続く坂道に、北沢の革靴の音と昼休み終了のチャイムが響いた。



「空!」
 一人とぼとぼと歩いていた空は、背後から聞こえた北沢の声に、思わず足を止めた。どんな顔をしたらいいかわからなくて、とりあえず無理をして笑ってみた。
「……北沢、どうしたの?」
 空に追いついた北沢は、少し乱れた呼吸を整えて、軽く目を閉じた。はあ、と息を吐いて、手にしていたマフラーを無造作に空の首に巻く。
「体調悪いって聞いた。大丈夫か?」
 大丈夫、と頷く空の目の縁が赤い。泣いていたのだろう。北沢が何か言う前に、空はにっこり笑って見せた。
「送ってくれるの?」
 おどけた様子で首を傾げる。いつもの空だった。
( ――― 手帳のことを訊くつもりはない、か)
 北沢は、結局そのことには触れず、空と並ぶと二人きりでゆっくりと歩き始めた。

 はらはらと、小さな雪が舞っていた。顔や服についても、すぐに溶けてしまうような軽い氷の結晶。風はあまりない。
「これだと、積もらないね。なんか雪が降ると嬉しい」
 空が寒さで頬を赤くしたまま笑うと、北沢も頷いた。ふと真顔になる。
「でも、冬は好きじゃない。いい記憶がないから」
 小さな北沢のつぶやきに、空は顔を上げた。右側に立つ北沢の横顔を見る。背が高いので、どうしても見上げるかたちになった。北沢は両手をコートのポケットに入れて、まっすぐ前を向いていた。
( ――― 鈴子さん、12月に亡くなったんだよね)
 空は、事故の詳細を清水の母から聞いていた。話を聞いただけでも、可哀想だと思った。そのときの北沢の悲しさは想像に難くない。辻の苦しみも。それまで北沢と辻の仲の良さを嫉んでいたけれど、その話聞いて以来、空の見方は変わっていた。北沢が辻を大切にするのも無理はない。辻と仲良くなればなるほど、彼女のよいところも知って、以前のように辻を嫌いにはなれなかった。
「髪、濡れるぞ」
 北沢にフードを被せられて、空は我に返った。フェイクムートンの裏地に包まれて、耳までふわりと温かくなるが、慌てて脱いだ。
「やだ。これ被ると、髪くしゃくしゃになるから!」
「幼稚園児みたいで可愛いのに」
 からかうような北沢の声に、空は頬を膨らませた。北沢は面白がって、またフードに手を伸ばした。北沢の鼻先に落ちた雪がすぐに溶けてなくなるのが、空にはっきり見えるほど、二人の距離は近い。
 空が北沢のコートの袖を引っ張った。空の髪の雪を払っていた北沢が顔を向けると、空は力の抜ける無邪気な笑顔を浮かべた。
「今までの冬は、もう変えられないけど。
 ――― 今年の冬は、いい思い出いっぱい出来るといいね」
 北沢はしばらくそのまま空を見つめていたけれど、再びコートのフードを深く空の頭に被せた。顔半分が隠れるくらいに。空は反射的に目を瞑った。
「ちょっ、北沢ぁ!」
 抗議の声を上げたとき、間近に温かい息を感じた。すぐに、頬に柔らかいなにかが押し付けられる。しっとりと。
(キス、されてる)
 頬に唇。

 北沢が顔を離しても、空は動かなかった。フードを脱ごうと持っていった空の両手は、逆にフードの端を強く掴んで、顔を隠している。覗き込んだ北沢には、鼻から下しか見えない。
「空?」
 腕を伸ばして、そうっとフードを脱がせた。空の両手が抵抗するように強張ったけれど、すぐに諦めて放す。困ったように北沢を見上げる顔は、本当に真っ赤で、一文字に引き結んだ唇といい、途方に暮れて逸らす視線といい、あまりにも微笑ましくて、北沢を笑わせた。
「何だよ、その顔」
「だって、急にっ」
 ほっぺにチュウなんかするから、と小声で言うと、空は北沢に背を向けてすたすたと歩き出した。いちいちやることがわかりやすい。
(『ほっぺにチュウ』って、何歳だよ、まったく)
 ゆったりと歩き出すと、さほど急がなくても空に追いついた。もともとスライドが違う。まだ頬を染めたままの空の隣に並んだとき、マフラーの端を何気なく掴んだ。歩調を緩めなかったので、すぐに空の前に出ることになる。
「やめてよぉ。なんか、犬の散歩みたい」
 北沢にマフラーを引っ張られて、空は足早になった。
(いつもなら歩調を合わせてくれるのに)
 ちょこちょこと走って北沢に追いつくと、待っていたように北沢はマフラーを手放した。代わりに、ごく自然に空の左手を握って、歩く速さを緩める。
 自分の手とは全然違う、温かくて大きな手。
「 ――― 北沢、今日は優しすぎる」
 北沢は答えずに、空の手を包む手に力を込めた。空にわからないように、浅く微笑む。だが、北沢の後ろを歩く空は、北沢の暖かい手の平を感じて、その広い背中を見つめて、泣きそうになっていた。
「……優しくされると、ツライ」
「え?」
「北沢が誰を見てても、やっぱり好きだよ。北沢の側に居たい。
 でもね、北沢は辻さんしか見てないじゃない? それを近くで見ていたくない。こうやって優しくしてくれるの嬉しいけど、時々勘違いしそうになる……」
( ――― 私のことを好きだなんて、思ってしまう)
 また涙が滲んできて、空は俯いた。不意に腕を引かれて立ち止まる。本当はそのまま北沢を追い越して逃げたかったけれど、繋いだままの手はますます強く握られて、空には振り解けなかった。

「空、手帳見ただろう」
 ストレートに問われて、空は答えに詰まった。空が顔を上げないことに北沢は心が痛んだが、目は逸らさなかった。
「別に怒ってないから。
 なぁ、クリスマス、TOGOの洋ナシタルトを俺一人で食わなきゃいけないのか?」
 その言葉に空が勢いよく顔を上げた。目を丸くした空に、北沢はかすかに笑った。その笑顔が優しかったので、空も驚いた。
「タルト、予約したの?」
「したよ、しかもホールで。誰かさんが好きだって言うから」
 日曜日、偶然会ったときに空が言ったことを、北沢はきちんと覚えていた。
(……勘違いじゃ、ない?)
「俺は、嫌いな子の頬にキスしたりしない」
 北沢の両手が、風に攫われかけた空のマフラーを掴んだ。空に巻いてあげただけで、それは北沢の物なのだが。北沢はもう一度、丁寧に空の首にマフラーを巻いた。そのまま、頬を両手で包む。
「24日に辻と会うのは、プレゼントを渡す為だ。でも、毎年恒例のパーティーは断ってる。その日、午後からずっと空けてるのは、誰の為だと思う?」
 空はどきどきとうるさい鼓動を意識したまま、すぐそこにある北沢の顔をただ見上げていた。いつも冷静な光をたたえる一重の鋭い北沢の目が、今は違って見えた。柔らかくて優しい眼差しは、間違いなく空に向けられていた。
「……空が隣にいれば、楽しい記憶なんてすぐ出来る」
 近づいてくる北沢の顔をじっと見ていた空は、慌てて目を閉じた。北沢の手に包まれた頬が熱くなっていくのがわかる。
 素直に目を閉じた空の睫に雪が触れて、じわりと溶けた。
 空は、目を閉じるといつもの子供っぽい表情が消えて、急に大人びて見える。その顔を、北沢は初めて見た。これから何度、こうして目を閉じた空を見るのだろう。
(先のことなんてわからない。でも、今は空を ――― 愛しいと思う)
 遠くからクリスマスソングが聞こえる。気温が低くて頬も耳も指先も冷たかった。粉雪はやみそうで、なかなかやまない。灰色の雲は少なくなったが、その向こうに見える空は夏のように真っ青ではなく、淡い淡い水色だった。冬の空はどこか儚い。それでもいいと北沢は微笑んだ。澄み渡った夏空にも負けない元気な空が、北沢の隣には居るのだから。
 触れるだけで、心に広がる青空。
(冬も、悪くないな)
 降り注ぐ雪も、冷たい風も、誰かを失った痛みも変わらず存在するけれど……だからこそ、繋いだ手の温かなぬくもりを大切だと思える。

「好きだ」

 空の耳元で低く囁いて。
 静かに降り注ぐ粉雪の中、北沢は静かに唇を重ねた。


(恋の季節/END)
04.01.28

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