月曜の夜、いつものように合気道の稽古に行った北沢を、意外な人物が待っていた。
「久しぶりね、北沢」
十二月だというのに、頬を流れる汗を拭って、辻真琴は娘とよく似た二重の目で北沢に微笑みかけた。
「真琴さん。いつ日本へ?」
「今朝。出張で来たの、このまま年明けまでこっちで過ごすわ」
朝のフライトで日本に着いて、仕事をこなし、なおかつ道場で稽古。相変わらずの彼女のバイタリティに、北沢も舌を巻くしかない。それから一時間ほど通常の稽古をこなし、礼を終えた後で、真琴は北沢を手招きした。
「勝負しようか」
余裕の笑みを浮かべる真琴に、北沢も目に力をこめて頷いた。真琴は足を肩幅に開いて、北沢の正面に立った。両手の平を肩の高さに掲げ、上目遣いに北沢を窺う。
「……勝負って、組み手じゃなく押し手相撲?」
「そう。懐かしいでしょう」
向かい合わせに立って、お互いの両手だけを触れ合わせ、押し引きする。足が動いた方が負け。北沢が道場に入ったばかりの頃、よく真琴とこうして遊んだ。視覚だけに頼らず、相手のわずかな動き、呼吸、気配から動きを予測してかわし、攻める。単純だがなかなか難しい。
「いいですけど、俺、最近コレで負けたことないですよ」
「偶然ね、私もよ」
真琴の挑発的な視線に、北沢は小さく笑って、真琴と両手の平を合わせた。道場がシンと静かになる。片付けをしていた他の道場生も、興味深い対決を密かに見ていた。
相手が力を込めているときは、押しても動かない。不意をつかなければ。その為には、こちらが動くタイミングを悟らせてはならない。真琴も北沢も、静かな呼吸を繰り返し、弱く押し引きして探り合っていた。トン、と北沢が勝負に出た一突きは、真琴に悟られ、軽くあしらわれた。そのまま押し返されるが、予測していた北沢は腹筋に力を込めて難なく受け止める。
「しぶとい」
「真琴さんも」
最初と同じ体勢で、二人は顔を見合わせた。北沢はまた前触れなく試すように押してみた。と、真琴の上半身が揺れた。
(え? 真琴さんがこのぐらいで動いた?)
不可思議に思った北沢だが、そのまま力を加えて押し続けた。真琴はその力に流されるように素早く上半身を後ろに倒した。下半身は動かさないまま、腰を入れて重心は移動させずに。結果的に、北沢は真琴に抱きつきそうになり、咄嗟に右足を前に出した。
「ハイ、北沢の負け」
真琴は逸らせていた上体を戻し、北沢の肩を軽く叩いた。北沢は間近に立つ真琴の、胴着に隠れた体に興味を持った。いやらしい意味でなく、裸が見たい。普通、上半身を逸らす場合は膝を曲げるか腰を前に出すかして重心を移動させるものだが、真琴は腰から下を動かさずに北沢をかわした。腹筋と背筋が強くなければ出来ない。
「……真琴さん、かなり背筋鍛えてますね」
「前よりはね。停滞は後退よ。北沢は、予想できる範囲で相手が動くと無意識に思ってる。相手が自分の思い通りになると思ったら大間違いよ。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。知ってるでしょう? 物事も人も、どう動くかはわからない。だから世の中面白いんじゃないの。あまり自分の正しさを過信しては駄目よ。
どんなことでも、ありのまま受け止める柔軟さを持ちなさい。君は、それが出来る人間なんだから」
ニッと笑った真琴の、強い眼差しに、北沢は言葉が返せなかった。
(参った)
空のことを思い出して、苦笑した。北沢は空が悩んでいるのを知りながら、問い質してくるのを待っていた。まるで手の平で遊ばすように、空の行動を先読みして待ち構えている。
「平家物語冒頭は、好きです」
北沢がそう言うと、真琴は、私も好きよ、と真顔で答えた。
「自分が偉そうだと感じたとき、いつも思い出すようにしているの。上には上がいる、今の自分は、昨日の自分より進歩しただろうか、って自問自答するのよ」
「昨日より、ですか?」
「そう。例えば、ベンチプレスを今日20回しか出来なかった。じゃあ、明日は21回にするぞ、って。そうやって小さく目標を作るとね、出来るとものすごく嬉しいのよ。それが毎日続くと、一年後には出来ることがたくさん増えている。楽しいでしょう?」
ふふ、と笑うと、真琴は北沢に背を向けて道場を出て行った。気がつけば、汗はすっかり冷えている。北沢は立ち尽くして、自分の両手を見た。
(俺は、まだまだだ……)
真琴の精神的な強さの秘密を垣間見て、改めてこの人には敵わないと思い知った。
(待つのは、やめよう。これ以上傍観するのは)
好きだと告げたら、空はどんな顔をするだろう。確かに予想出来ない。だから未来は楽しいのだ。
北沢は強く拳を握ると、力強い足取りで道場を後にした。