空の視界が一瞬真っ暗になった。目の前に迫ったものが北沢の手の平だと気づいたときには、その大きな手で口を塞がれ、床に押し倒されていた。見開いた空の目に、さっきまで北沢が顔を伏せていた机の底が映る。両側に広がる机と椅子の、金属の足。かつて見たことのない光景だった。
北沢はその伸びやかな腕で空の肩を押さえつけ、傍らに跪くと、冷たい眼差しで空を見下ろした。鋭い目は細められ、表情を失った顔からは何の感情も読み取れなかった。ぴりっと緊張が走る。
「好きなら、相手に何を言っても許されるのか」
空は北沢の腕に手を掛けたが、びくともしなかった。塞がれたままの口から、んん、と言葉にならない声が漏れる。北沢の手が夏服の襟元にかかるのを見て、空の体は強張った。
北沢の指が白い布を引っ張ると、スナップボタンはあっけなく外れ、鎖骨から胸の上部が露わになった。空の口から離れた北沢の左手が、開いた胸元をさらに広げる。空は、左肩が冷たい床に触れる感触に息を呑んだ。
「……声、出すよ」
自由になった口からしぼり出した声は、掠れていた。北沢の両手が、空の両腕に重なる。
「 ――― 出せば?」
空の顔も見ないまま淡々と言葉を返した北沢は、空気に晒された空の白い胸に顔を寄せた。その前髪に首筋を撫でられ、空はぎゅっと目を瞑った。生暖かい唇の感触に肌が粟立つ。すぐに痛いほど吸い付かれた。
「……っ」
体を動かそうとしても無理だった。掴まれているわけでもないのに、押さえられた腕が痛む。口付けられた個所が熱くて、こらえ切れず、空は小さく声を上げた。
「北沢」
北沢はわずかに顔を上げて、空を見上げる。視線が交わった途端、空の背中がゾクリと震えた。怖さが這い上がってくる。
北沢は相変わらず無表情のまま、空の制服のボタンを留めなおすと立ち上がった。カバンを手にして、教室を出て行こうとする背中に、ようやく上半身を起こした空の声が届く。
「北沢!」
北沢は、床に座り込んだままの空を見た。強張って青ざめたその顔を見つめる。
「空、もう友達も終わりだ」
声を失った空の耳に、北沢の靴音だけが聞こえた。いつもと変わりなく、何事もなかったかのように去っていく規則正しい靴音が。