Keep The Faith:2
第8話 ◆ 禁句(3)

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 空の視界が一瞬真っ暗になった。目の前に迫ったものが北沢の手の平だと気づいたときには、その大きな手で口を塞がれ、床に押し倒されていた。見開いた空の目に、さっきまで北沢が顔を伏せていた机の底が映る。両側に広がる机と椅子の、金属の足。かつて見たことのない光景だった。
 北沢はその伸びやかな腕で空の肩を押さえつけ、傍らに跪くと、冷たい眼差しで空を見下ろした。鋭い目は細められ、表情を失った顔からは何の感情も読み取れなかった。ぴりっと緊張が走る。
「好きなら、相手に何を言っても許されるのか」

 空は北沢の腕に手を掛けたが、びくともしなかった。塞がれたままの口から、んん、と言葉にならない声が漏れる。北沢の手が夏服の襟元にかかるのを見て、空の体は強張った。
 北沢の指が白い布を引っ張ると、スナップボタンはあっけなく外れ、鎖骨から胸の上部が露わになった。空の口から離れた北沢の左手が、開いた胸元をさらに広げる。空は、左肩が冷たい床に触れる感触に息を呑んだ。
「……声、出すよ」
 自由になった口からしぼり出した声は、掠れていた。北沢の両手が、空の両腕に重なる。
「 ――― 出せば?」
 空の顔も見ないまま淡々と言葉を返した北沢は、空気に晒された空の白い胸に顔を寄せた。その前髪に首筋を撫でられ、空はぎゅっと目を瞑った。生暖かい唇の感触に肌が粟立つ。すぐに痛いほど吸い付かれた。
「……っ」
 体を動かそうとしても無理だった。掴まれているわけでもないのに、押さえられた腕が痛む。口付けられた個所が熱くて、こらえ切れず、空は小さく声を上げた。
「北沢」
 北沢はわずかに顔を上げて、空を見上げる。視線が交わった途端、空の背中がゾクリと震えた。怖さが這い上がってくる。

北沢は相変わらず無表情のまま、空の制服のボタンを留めなおすと立ち上がった。カバンを手にして、教室を出て行こうとする背中に、ようやく上半身を起こした空の声が届く。
「北沢!」
 北沢は、床に座り込んだままの空を見た。強張って青ざめたその顔を見つめる。
「空、もう友達も終わりだ」
 声を失った空の耳に、北沢の靴音だけが聞こえた。いつもと変わりなく、何事もなかったかのように去っていく規則正しい靴音が。



 その日の夜、合気道の道場に北沢の姿はあった。 
 ピピピ、と響くタイマーの音に、動きをとめて前髪をかきあげた。荒い息を静めるように、目を閉じて深呼吸をすると、額から頬を流れる汗を感じた。通常の練習後に残って自主トレーニングをしているのは北沢一人で、静まり返った道場に彼の呼吸音だけが吸い込まれていく。
 限界まで疲れてから帰りたかった。そうでもなければ、きっと眠れない。
(あんな風に、空を傷つける必要はなかったんだ)
 まだ鈴子を忘れられないのか。そう言われて、気づいたら感情のままに動いていた。空に悪気がないのはわかっていたのに。いや、だからこそかもしれなかった。
 もう二度と自分に近づけないくらい深く傷つけてやりたいと、思った。

 夕方見た夢の中で、鈴子は笑っていた。現実にはありえなかったクリスマスイブのデート。真っ白なコートを着た鈴子は、それでも最後に掻き消えた ――― 所詮夢だと諭すように。
 北沢が鈴子を忘れることなどありえない。

 呼吸を整えた北沢は、目を閉じ正座すると、静かに呼吸を繰り返した。体の力を抜き、心を静める。
(空は……どうして鈴子のことを知ってた?)
 北沢と鈴子のことを知っている人間は、辻と矢野、そして北沢の中学時代の友人だけだ。
(秋津、か ――― )
 空と接点があるのは、彼くらいだった。北沢は強く目を瞑った。
 誰にも悪意は無い。そもそも、幼かった北沢があるひとつの嘘をついたことから、話は始まっている。彼自身を支えるために、必要だった嘘。

 誰かが道場に入ってくる気配がして、北沢は目を開けた。
「 ――― 何セットしてるの?」 
 道場の入り口から顔を覗かせたのは、先ほどまで一緒に稽古をしていた前園桜だった。合気道を始めた頃の彼女は大学生だったが、社会人となった今も、週二回の稽古を欠かさない。北沢にとって、気兼ねなく喋ることの出来る友人だ。
「まだ3セット。5セットしたら帰ります」
 言って立ち上がる北沢に、前園は何の前触れも無く、手に持っていたモノを投げた。北沢は反射的に受け取る。
「……のど飴?」
 前園は、入り口の棚に置かれていた北沢のタオルを手にして、神棚に向かって一礼すると道場に上がった。北沢の正面に立ち、彼にタオルを掛ける。
「練習は常に愉快に実施するを要す、でしょう?
 自分を痛めつけるような練習はしないで欲しいな、先輩。疲れてるときは、甘いもの食べるといいんだよ」
 合気道歴五年の北沢は、彼女とって先輩にあたる。『練習は常に愉快に実施するを要す』という合気道技術書に記されている練習上の心得は、北沢も知っていた。頷くしかなくて、苦笑を浮かべる。
「 ――― おっしゃる通りです。もう上がる」
 にっこり笑った前園と一緒に道場を出た。更衣室に向かった北沢は、ふと足を止めて前園を振り返った。
「俺、稽古のとき荒れてましたか?」
「全然。乱取稽古のときも、いつもと一緒だったよ。ただ、帰り際にちょっと覗いたら、瞑想してるのに眉間にしわ寄ってたから、疲れてるなぁ、と思って……何かあった?」
 上目遣いに見上げてくる前園の顔には、ほんの少し愛情がにじみ出ていた。
「―――今日、ちょっといろいろあって、女の子襲いかけたんです」
 予想外の言葉に、前園は軽く眉を上げた。
「それって、犯罪じゃない。欲求不満なの?」
「そういうわけじゃないんですけどね。まだまだ精神的に未熟だって思い知りました」
 自嘲気味に笑う北沢を見て、前園は一歩踏み出した。
「……抱っこしてあげようか、前みたいに」
 前園の指が、無造作に北沢の喉に触れた。北沢の乱れた胴着の内側から、汗ばんだ肌が覗いていた。秋風に晒されて表面は冷え、前園の指にひやりと冷たさを伝える。
「もう大丈夫です」
 やんわりと断って、北沢は退いた。前園の指がおちていく。
「衝動に任せて女を抱いても、気分が晴れないことは知ってるから」
「そうだったね」
 前園は明るい笑顔を見せると、また稽古で、と言って去っていった。暗闇に消えていくその後姿は、小柄だが肉感的だ。
 北沢は、Tシャツの下の彼女の肌を知っている。千鶴を失って自暴自棄になりかけていた頃、一度だけ体を重ねた。お互いに割り切って、獣のように。けれど、傷を塞ぐつもりが、余計に広げただけだった。

 寒気がして、北沢は更衣室に急いだ。完全に汗が冷えてしまった。
 あれから四度目の冬は、すぐそこまできていた。



 翌日の体育の授業後、北沢は三年三組の秋津に声を掛けた。
「秋津、ちょっといいか」
 体育の授業は一組から三組まで合同で行う上に、この三クラスは教棟も階数も同じなので、必然的に一緒に戻ることになる。
 北沢と秋津は、アリの行列のようなクラスメイトの群れから抜け出すと、体育教官室前の階段に腰掛けた。体育教師は風紀にうるさい者が多く、生徒も出来る限りここに近づこうとはしない。誰かに話を聞かれる心配もない。
「同窓会の件?」
 言いながら、秋津はジュースのプルトップを開けた。ごくっ、と喉を鳴らして飲む。
「いや、鈴子の件。空に話しただろう?」
 責める口調にならないように注意して、北沢は静かに問い掛けた。秋津は、しまった、という顔で北沢を見る。
「……マズった? なんか、空を見てると、報われないのに一途だから応援したくなってさ。 元カノいたかどうかぐらい、教えてもいいかと思って、言っちゃったんだよな」
 片手を顔の前に上げて、軽く頭を下げた秋津の頭上から、静かに声は降ってきた。

「 ――― 嘘なんだ、鈴子は彼女じゃなかった……もう死んでたから」


03.10.27

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