Keep The Faith:2
第1話 ◆ キレイな愛じゃなくても(1)

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 いつからか、通れなくなった道がある。
 どれだけ月日が経っても、隣に誰がいても、あなたを思い出すから。
 金木犀と月と、肌に触れた指の記憶。
 それは嵐のように僕を支配した、高校一年の冬の恋。



 自転車を漕ぐ北沢の足が止まった。
 浩々と地上を照らす月明かりの下、しんと静まった公園に人影が見えたのだ。遠目にも、若い女性だということがわかった。
(危ないな。十時前とはいえ、この辺人気ないのに。送っていくか? いや、声掛けた時点で、俺が怪しい奴だと思われるのがオチだな)
 どうするべきか考えているうちに、人影が動いた。よく見れば金木犀の樹の真下の立っている。一番低い枝に向かってまっすぐに差し出された腕は、それでも枝には届かないようだった。
(あーあ、小さいのに背伸びして)
 苦笑を浮かべて、北沢は自転車を漕ぎ出した。公園の中に入って、木犀の近くで自転車から降りると、ブレーキ音に気付いて人影が振り向いた。
「立派な金木犀だな」
 北沢はその人に構わず、樹を見上げた。今まで風向きで気付かなかったが、むせ返るような芳香が漂っていた。無造作に手を伸ばして、易々と金木犀を一枝手折る。
「はい、どうぞ」
 少し笑って枝を差し出して、北沢は初めて女の顔を直視した。

 くっきりと影が映るほど明るい月に照らし出されて、透明な眼差しが北沢を見つめていた。桃色の唇が、艶やかに光りながら笑みを形作る。身長から、彼女を年下だと思い込んでいた北沢は、相手の落ち着いた雰囲気に、自分の過ちを知った。
「どうもありがとう。私じゃ届かなくて」
 木犀を受け取った彼女の指が、北沢の手に触れた。北沢は反射的に、パッと手を引いた。
(うわっ、意識してますって言ってるようなもんだッ)
 焦る北沢の心中を察してか、女はくすくすと忍び笑いを漏らした。きまりの悪い北沢は、小さく肩をすくめたけれど、自分でも笑ってしまった。
「俺、自転車ですけど、よかったら送りますよ。真っ暗だし、ここら辺人気ないし。
 あ、もちろん下心はありません」
「ありがとう。でも、向こうに連れがいるんです。
 金木犀ありがとうございました。嬉しかった。それでは」
 ゆっくりと頭を下げて、女は去っていった。
 しばらくその後ろ姿を見送りながら、北沢は自分の息がかすかに白くなっていることに気付く。
「寒くなったな……」
 さっさと帰ろう、と自転車に跨った彼は、それきりその女のことなど忘れていた。



「あなた、金木犀を下さった方でしょう? ああ、やっぱり。こんにちは」
 やんわりとした言葉と笑顔に、不機嫌に強張っていた北沢の顔がほころんだ。十一月に例年行われている大きな茶会の席での再会だった。
「御縁があったんですね。またお会いできて嬉しいです」
「こちらこそ、覚えていて下さってありがとうございます」
 北沢は、作った笑顔で言葉を返し、適当に相槌を打った。他人のことなど全く気にかけられないほどに、彼の心は荒んでいた。

 鈴子がいなくなってから、二度目の冬が訪れようとしていた。北沢は、彼女の願いを継いで『辻を幸せにしよう』と決心したにも関わらず、当の辻は鈴子の兄、日崎和人にべったりで、北沢には今まで同様友人でいる以外、何もできなかった。
 同じ高校に入学しても、クラスは別々で、結局一緒にいられるのは放課後くらいだ。それも、北沢が部活を始めてからは、ままならない。
 やるべきことを決めているのに、どう動けばいいのかわからない。人一倍強い責任感と、自己満足に過ぎないのでは、という疑問が彼を追いたて、苦しめていた。

「……あの、大丈夫ですか? 気分が悪いのだったら」
「ああ、そういうわけでは ――― 」
 軽く笑って否定しようとする先から、言葉が途切れた。
(このままじゃ駄目だ。俺がつぶれる。だけど、どうすればいい?)
 俯いた北沢の前で、女はそっと周囲を見た。何かを確かめてから、ごく自然に北沢の隣に並び、彼を促す。
「少し歩きませんか? 向こうに庭園が広がってるんです。きっと、紅葉が見頃ですよ。木犀のお礼にご案内します」
 柔らかな声が、耳に心地よく北沢を誘った。藤色の着物を纏った女は、慣れた様子で人々の間を縫っていく。
 知らない人間だからこそ、突破口を見つけられるかもしれない。他人に話すことで、客観視も出来るだろう。そう思った北沢は、迷うことなく女の後をついていった。
 
 小川沿いの小道では、色づいた紅葉が正に見頃だった。風に攫われた葉が、ひらひらと川面に落ちて波紋を広げた。
「一昨年の冬、好きだった子が死んだんです」
 北沢の足の下で、落ち葉が乾いた音を立てた。細い道は深紅に埋め尽くされたまま、遠く続く。
「彼女が死んだ後で、自分の存在が彼女を悲しませていたことを知って ――― 」
 目を閉じると、すぐに鈴子の哀願するような眼差しが蘇った。どうして私と辻の間に入ってきたのと、言いたかったに違いない、潤んだ黒い瞳。
「彼女の為に今更出来ることといったら、彼女の願いを叶えることぐらいだ。だから、彼女が誰よりも愛した人を幸せにしようと……決心したのに」
 女は静かに足を止めて、北沢を見つめていた。大きな体をしているのに、風に流されそうなほど儚く天を仰ぐ、苦悩に我を忘れている興味深い目の前の人物を。
「こんなにも無力だった」
 何かを振り切るように、急に北沢が振り返った。強い決意を秘めた双眸と対峙させられた女は、目を見開いて、そして知った ――― 彼の視界に自分など映っていないことを。
「だから、落ち込んでいるんです。せっかくまた会えたのに、不愉快な思いをさせてすいません。この景色はとても綺麗ですが、僕はもう帰ります。
 また縁があれば」
「私には詳しい事情はわかりませんが」
 北沢の言葉を遮って、女はゆっくりと口を開いた。
「ひとつのことを思いつめると、視野が狭まって他の可能性を見つけられなくなるでしょう。あなたは今、その状態なのではありませんか」
「どういう、意味ですか」
 息を飲んだ北沢の目に、かすかに希望の光が生まれる。
「簡単なことです。あなたがそんなに追い詰められているのに、他人を幸せにできるはずないでしょう?
あなたはまだ、死んだ女の子のことが好きなんですね、きっと。その子を失った痛手から立ち直れなくて、あんまり辛いから、他のことに懸命になってそれを忘れようとしているのじゃありませんか?」
 ああ、と北沢はうめいた。心に切り込まれた気がした。
「……彼女は、すごく狭い世界で生きてきた。俺の周りで、彼女の思い出を共有できる人間は、一人しかいないんです。彼女の親友だった子だけなんです。正直、このままだと時間とともに鈴子のことを忘れそうで……!」
 罪悪感と贖罪の思いが、焦りを生んで心を蝕む。常に心に浮かぶ鈴子の切ない眼差し。いつからだろう、鈴子の笑顔を思い出せなくなったのは。
 鈴子を失った辻を支えることで、自分も救われると信じていたけれど、自分の気持ちの決着すらつけられない人間が他人を支えられるわけもなかった。
 つきつけられた、それは真実。

「あら、忘れるわけないじゃないですか」
 あっさりと告げられた言葉が、北沢の顔を上げさせた。目の前の彼女の表情はひどく優しく、冷たく固まった北沢の心にじんわりと染みこんでゆく。
「心の傷も、体の傷と同じですよ。月日が経てば、跡は残っても痛みはなくなるでしょう?
 きっと、もう少しすれば、彼女を失った辛い思いはなくなって、後には綺麗な彼女が幸せな記憶になって残るんです。記憶の中で、その存在はどんどん純粋になって、あなたの罪を癒して、今度はあなたを支える記憶になる。だから、ごまかして自分をダメにしてはいけないわ。
 まず、自分の為に生きてみてはいかが?」
 
 北沢は、頭ひとつ低いところにある女の顔をまじまじと見つめた。女は動じることなく北沢に笑いかける。女神もかくやという穏やかさで。
 彼女のひとつひとつの言葉は、砂が水を吸い込むように北沢の心のすみずみまで届いて、彼を苦しみから解き放った。
 そして、目の前の女は、北沢の中で急速に存在を大きくした。
「名前を ――― 」
 静かに北沢は囁く。

「お名前を教えて頂けますか」
「姫宮千鶴と申します」
「僕は、北沢勝。高校生です。
 千鶴さん、下手な宗教より説得力ありますね。脱帽だ。知り合うことが出来て光栄です」
「そこまで言って頂けるような人間じゃありません」
 北沢は微笑む千鶴の隣に並び、彼女を促して歩き出す。
「ひとつお願いがあるんですが」
「何でしょう?」
「また会っていただけますか」
「ええ、喜んで」
「じゃあ、明日」
 即座に返された台詞に、千鶴は驚いて目を瞬いた。
(さすがに駄目か)
 長い沈黙に、余裕綽々だった北沢の態度が不安気に変わる。子犬のような目に見つめられて、その余りのわかりやすさに、千鶴は笑いを堪えた。一途さが伝わって、断るべきと考えていた返事を動かす。
「それでは、明日の夜」
 明晩の食事の約束をして、二人は別れた。立ち去る彼女の後姿が、北沢の目を切なく細めさせる。

『自分の為に生きてみてはいかが?』

 落ち着いた物腰と気品のある声、穏やかなだけではない、強さを秘めた言葉、彼女の全てが北沢を誘う。
 その魅力に逆らえるはずもなかった。


03.08.25

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