Keep The Faith
第22話 ◆ きっと愛してる(5)
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 北沢がまだ記念写真を撮っていたころ、辻は人気のない教室で涙を拭い、カバンから替えのTシャツを取り出した。開けた窓から、遠く体育館の歓声が届く。
 いろいろと考えて泣いたせいか、少し体がだるかった。
 窓際の誰かの席、腰掛けて空を見上げた。晴れ渡る青空に、伸びる飛行機雲。こんな気持ちの良い日に、泣いているのももったいない。気持ちを切り替えて、辻はカーテンを閉めた。
 汗だくのTシャツを脱ごうと裾に手を掛けたとき、教室の扉が勢いよく開かれた。見ると、三組の鈴木空が息を切らせて立っていた。
「……何か用?」
 近づいてくる空の強張った表情に、辻は眉をひそめて問いかけたが、空は無言のままだった。辻まであと一歩というところで、体の側面で強く握られていた空の右手が動いた。

 次の瞬間、空気を裂く音がした。空の手が辻の頬に向かって振り下ろされる。辻は、反射的に上半身を反らしてかわしたが、避けきれず、ガリ、と爪が左頬の皮膚を削る音を聞いた。  避けられたことに驚いた空だったが、目の前の辻の頬に、ぷっくりと血が盛り上がり、静かに流れていくのを見て、気を取り直した。
「いきなり、何するの」
 辻は頬に持っていった指先についた血をじっと見て、低い声でつぶやいた。伏せられた目は、空を見ていない。

「前から好きじゃなかったけど、本当にキライ、辻さんのこと。北沢を、どこまで傷つけるつもりなの! 北沢は、辻さんの奴隷じゃないんだよ!? 私、北沢が好きだから、見てらんない。
 辻さんって、キレイだけど、すごく冷たいよね。クラスの女子からも浮いてるし、仲いい女友達もいないでしょ? 北沢がいなくなったら、誰もいなくなるものね。でも、これ以上北沢に付きまとわないで! 彼のこと、自由にしてよ。でないと、許さないから」
 強い口調で一気にまくし立てて、空は呼吸も荒く辻を睨みつけた。
( ――― 許さないから?)
 空の一言で、辻の中で我慢していた何かが切れた。
 ゆっくりと視線を上げ、凍てついた目で空を見る。一瞬で雰囲気が変わった辻に、空はたじろいだが、もう遅い。

「……北沢に付きまとうな? 何様のつもり?
 私と北沢がつきあっていようと、別れていようと、あなたには関係ないでしょう。北沢のことが好きなら、私じゃなくて、北沢本人に言えばいいじゃない。
『辻さんよりも、私を選んで』って言ってみれば? もっとも、北沢があなたみたいな底の浅い人を選ぶとは思えないけれど。万が一、北沢があなたを選ぶと言っても、上手くいかないわよ、絶対に。
 私が北沢を弄んでると思ってるの? 本当に頭の悪い人ね。もし北沢が本心から私といるのを嫌がってるなら、自分の口でそう言うわ。北沢がそういう人間だって、わからないの?」
 廊下に足音が二つ響いた。空が開けっ放しにしていた教室後ろの出入り口、辻から見れば、空の肩越しに、北沢と遠山が現れた。息を切らせた二人は、辻の頬に走った赤い傷と、その場の雰囲気に、教室に踏み込んだ途端に足を止めた。
 辻は気にせず言葉を紡ぐ。
「私と北沢がどういう関係か、わかりもしないのに口出さないで。北沢と私のことは、私たち二人が決める。誰の指図も受けないわ。
 何も知らない第三者が、口挟まないで ――― 邪魔よ」

 静かに告げると、辻は視線を空から遠山に移した。遠山は、その眼差しの強さに気圧された。辻は、汗とまじって頬を流れる血を手の甲で拭った。辻の視界の中、北沢も遠山も、息をつめて辻を見ている。
 空は、辻の迫力に何も言えず、目に涙をためて唇を噛んでいた。
「……それと、私はやられたことはやり返す主義だから」
 辻はそう言うと、右手をひる返した。パンっ! と高い音が響く。
「きゃッ!」
 目を閉じた空は、避けきれずにまともに左頬を打たれて、その場に座り込んだ。赤くなった頬を両手で押さえたその目から、ぼろぼろと涙が零れる。辻はそんな空を一瞥すると、踵を返して北沢と遠山の脇を通り、廊下へ出た。擦れ違いざま、北沢が何か言いたげに辻を見たが、辻はまっすぐ前だけを見て通り過ぎた。
 うわーっ、と子供みたいな空の泣き声が響いた。

(なんて馬鹿なんだろう。感情だけで突っ走って、自分のしたことも理解できずに、泣いて何もかもを忘れようとする……見てるだけでイヤだ)
 敵意が止められない。背後から北沢の声だけが追いかけてくる。
「辻! 待てよ、怪我の手当て……ッ、放せ、空!」
 空が北沢にしがみついている様子が、すぐに想像できた。辻は振り返りもせずに、廊下を曲がり階段へ向かう。
(馬鹿みたい、私。鈴木さんみたいな子相手に、何ムキになってるんだろう。なんでこんなに腹が立つの? 何に? これは、北沢に対する独占欲なのかな)
 思考がぐるぐると回る。自分の呼吸が異様に早まっていることに、辻は気付かなかった。
(周囲の声に惑わされていたけど、北沢と面と向かって話してない。北沢自身の口から、本音を聞いてから全部決めよう。北沢がもう側にいたくないって言うなら、仕方ないもの。一回頭冷やしてから、きちんと話そう。
 矢野さんにも、北沢を信じてって……ダメなら私を信じてって、話そう。ずっと矢野さんの側にいたいもの。話さなきゃ、何も伝わらない……)

 階段を一段下りたとき、眩暈がして、手摺を強く握った。下から誰か上ってくる気配がする。聞き覚えのある声。
(矢野さん……?)
 辻はゆっくりと、次の段へと足を伸ばした。そのとき、突然音が消えた。
 矢野さん、とつぶやいた自分の声すら、聞こえない。
 踊り場に駆け上がってきた、矢野と伊織の姿が見えた。矢野は辻を見つけると笑いかけたけれど、すぐに真顔になった。何か言っているのに、辻には聞こえない。視界も、電波の悪いテレビ画面のように、ノイズがかかる。それでも、矢野が自分に向かって何か叫んでいるのはわかった。
(ねぇ、矢野さん……私、欲張りかもしれないね。和人さんも、北沢も大事なんて。でも、こんな風に心が乱れたとき、一番会いたい相手は、矢野さんなんだよ。
 呼ぶのは、あなたの名前なの……)
「 ――― 矢野さ、ん」
 微かな声でその名を呼んで ――― 辻は意識を失った。



 Webクリエートカンパニー「K's DESIGN」のオフィスで、日崎和人は思わず声を荒げた。
「辻が、熱中症!?」
 携帯を握る手に汗が滲む。電話の相手は、矢野だった。
『ああ、ずいぶん長い間直射日光浴びてたみたいだ。今日は暑いからな、日射病で保健室で寝てる生徒も多いんだよ。
 ただ、辻は、あんまり汗が大量なのと、階段から落ちたっていうのもあって、養護教諭と相談して、今、病院にきてる。診察は今から。すぐに担任から連絡いくだろうけど、少しでも早く知らせておこうと思ったんだ』
「 ――― とりあえず、俺も病院行きます。意識が全く無いわけじゃないんですね?」
『気絶してたけど、今は呼べば答える。頭痛と吐き気はあるみたいだ』
「以前みたいに走れるようになって、嬉しかったからでしょうか。……つい、はしゃぎすぎたのかもしれない。無理するなって、言ってあったのに」
 深く息を吐いて、日崎は視線をパソコンの液晶画面に移す。作りかけのファイルを保存して、メールソフトを起動した。
『とりあえず、俺は受付近くの待合室にいるから。何かわかったら連絡する』
「ええ、お願いします。三十分以内に、俺も行きます」
 通話をオフにするのと同時に、マウスを動かし、辻真琴のアドレスを呼び出した。
 日崎と真琴の連絡は、主にPCメールで行われる。真琴はプライベートのノートパソコンを仕事でも使っているので、二十四時間メールチェックが可能だ。彼女の仕事は、移動が多いので、時差の関係上、頻繁に電話もしにくい。
 とりあえず、辻が病院に運び込まれたこと、結果がわかりしだい連絡することを記して、送信する。
 日崎は上司の神代に事情を話して早退すると、他の社員への挨拶もそこそこに、駐車場へ向かった。



「矢野先生」
 診察室から、養護教諭の脇が出てきて、矢野を呼んだ。腕組して目を閉じていた矢野は、弾かれたように顔を上げた。
「診察、どうでしたか」
 努めて冷静を装ってきくと、脇はにっこりと笑って、
「辻さん、もう、大丈夫です。中度の熱中症だったんですが、意識障害も無いし、内臓も問題ないって。脱水症状が見られるので、今、点滴してます。
 私、学校に連絡入れてきます。もしご家族の方が来られたら、お願いしますね」
 脇が病院の外に出て携帯を取り出すのを見届けると、矢野はそっとその場を離れた。患者と擦れ違いながら廊下を進み、点滴室、と表示のあるドアをスライドさせる。音も無く扉は開いて、矢野を招きいれた。
 六つのベッドが置かれた白い部屋。一番奥のベッドに辻は横たわっていた。点滴の準備をしていた看護婦が、矢野に気付いて微笑みかける。
「保護者の方ですか?」
「いえ、引率の教師です。まあ、身内でもあるんですが」
 軽く頭を下げて、矢野はベッドに近づいた。
 辻は眠っていた。顔からは、血の気が引いたままだ。来ていた服は脱がされ、病院側の用意した服に替えられていた。首の両側と、わきの下に保冷剤をタオルで包んだものが置かれていた。
「もう大丈夫ですよ。すぐに病院に連れてきて下さったんで、処置が早くできました。熱中症は、時間が経つと急激に悪化する場合があるので、危ないんです」
 辻の左腕の手首に、点滴の針が刺された。看護婦は手馴れた様子で薬液の落下スピードを調整しながら、矢野を見た。
「点滴、一時間半くらいかかります。これ終わったら、もう一本ありますから」
「今日帰宅できますか」
「ええ、点滴終わったら、帰れますよ」
 ほっと息を吐く矢野に頭を下げて、看護婦は部屋を出て行った。矢野は、ベッドサイドの椅子に座って、辻の顔をじっと見た。手を伸ばして頬に触れると、やっと心の底から安堵した。
「心配かけんな、バカ」
 ぼそりとつぶやかれた声を聞く者はいなかった。



 エキシビジョンの試合が終わった後、矢野は自販機の側で、ジュースを飲んでいた。
「とにかく来て下さい! 北沢先輩が、矢野先生呼んでこい、って言ったんですー!」
 と言う伊織と一緒に、三年七組の教室に向かっていたら、辻が階段の上に立っていた。何かあったのか、と笑いかけたとき、辻の頬を走る傷に気がついて問いかけたけれど、返事はなくて。
 小さな声で、自分の名を呼んだかと思うと、そのまま階段の最上段からフラッと倒れて落ちてきた。咄嗟に階段を駆け上がって抱き止めたけれど、その辻の体の熱さに驚いた。
 顔も、腕や足の皮膚も血の気を失って白かった。Tシャツは大量の汗でぐっしょり濡れていて、名前を呼んでも反応が無かった。すぐに、伊織を養護教諭の元に走らせた。
 辻、と名前を呼んでいると、上半身裸の北沢が現れた。矢野の腕の中でぐったりしている辻を見つけて、駆け寄ってきた彼を、矢野は噛み付くような勢いで怒鳴った。
「触るな!」
 珍しく黙りこくった北沢をその場に残し、矢野は辻を抱き上げ、保健室へ向かったのだ。

( ――― 女なんだから、顔に怪我するなよ)
 眠る辻の頬に走る傷は、消毒され、布テープが貼られていた。
じっと辻を見ていると、点滴室の扉が開けられた。スーツ姿の日崎と、養護教諭の脇が入ってくる。
「すいません、ご迷惑かけて」
 日崎は、入ってくるなり、矢野に向かって頭を下げた。
「いや、ひどくなくてよかったな。入院はしなくていいそうだ」
「……よかった」
 日崎と矢野の打ち解けた会話に、脇は首を捻っている。説明するのも面倒で、矢野は時計を見ながら脇を追い出しにかかった。
「脇さん、俺ついてますから、もう戻っていいですよ。他にも気分悪くて寝てた生徒いたでしょう」
「お任せしてよろしいですか?」
 頷く矢野を見て、脇は「それでは、お願いします」と部屋を出て行った。
 これで部外者はいなくなった。矢野は日崎に辻の診察結果を話した。頬の傷については触れなかった。矢野にも原因はわからなかったので。
 なんとなく黙って二人はそこにいた。辻の点滴が二本目になっても、静かに座ったまま、辻の側から離れなかった。

 夕刻、点滴が終わる頃になって、ようやく辻は目を覚ました。
「……ここ、どこ」
 まどろんだまま、ゆっくりと視線をさまよわせる。日崎が顔を覗き込んで、静かな声で話しかけた。
「病院。お前、熱中症で倒れて、病院に運ばれたんだよ。もう体温も戻ってるから、この点滴終わったら帰れる」
 辻は瞬きすると、足元に立っている矢野に気がついた。
「矢野さ」
「この、バカ! 自己管理ちゃんとしろよ。学校では、側にいてやれないんだからな。……それで、この頬っぺた誰にやられたんだ。俺が仕返ししといてやる」
 矢野の物騒な言葉に、辻は顔をほころばせた。
「三組の鈴木さん。でも、仕返しは済ませてあるから、何もしなくていいよ」
 辻の言葉に、矢野は驚いて身を乗り出した。
「仕返しって、何したんだ」
「平手打ち」
 話していると、コンコン、とノックの音が響いた。
 はい、と日崎が返事をした後、扉を開けて入ってきた人物を見て、辻は病院だということも忘れて叫んだ。

「 ――― ママ!?」
「心配で飛んできちゃった」
 ダナ・キャランのスーツを着こなした辻真琴は、悪戯っぽく笑った。


03.07.20

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