Keep The Faith
第19話 ◆ きっと愛してる(2)
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 月曜の昼休み、北沢は衝撃の事実を知った。三階の渡り廊下で、辻と並んで高く澄み渡った青空を眺めていたときのこと。下から吹き上げる風が、汗ばんだ肌を撫でていく。
 辻の告白は唐突だった。

「ごめん、北沢 ――― 私、やっぱり矢野さんが好きなの」
 最初は、週末に悩んだ末の言葉だと思った。だから、先週と同じように、「辻が誰を好きでも、気にしないよ。忘れられるまで気長に待つから」と笑えた。
 そんな北沢の目をじっと見て、辻はゆるく首を振った。
「そうじゃない。北沢の言う通りだった。矢野さんに気持ちを伝えたら、スッキリしたよ。
 玉砕しなかったの……ありがとう、北沢」
 人気のない廊下で、辻は穏やかな笑顔を見せた。詳細を聞き終えたとき、北沢は、平然と『よかったな』と言った自分の声に驚いた。心は混乱を極めていたのに。
「 ――― 短かったな、俺たちの蜜月」
「でも、嬉しかったよ。北沢にあんな風に好きだって言われて。
 ……もう戻れないかな。北沢は、今まで通りに友達として続けていくの、無理?」
 見上げてくる辻の瞳は不安に揺れていて、北沢を苦笑させた。そんな顔をされても、もう抱きしめることはできないのに。
「大丈夫だよ。変わらないじゃないか。辻は矢野さんが好きで、俺はそれでも辻が大事。そうだろ?」
 半ば自分に言い聞かせるように、北沢はそう言った。
「 ――― ありがとう。
 こんな言い方していいのかどうかわからないけど、私、北沢とずっといられたらいいって思うよ。もし矢野さんと別れることがあったとしても、他に好きな人ができたとしても、北沢とは、この関係をずっと続けていきたい。例え距離が離れても、きっと心は繋がってるから」
「俺に恋人が出来ても?」
「そうよ。私たちが将来、お互いに結婚したとしても」
 辻は風になびく髪を手で押さえて、北沢と向かいあった。改まって、右手を差し出した。
「これから先、北沢に何かあったら、ちゃんと私を頼ってね。今度は私が北沢を支えるから……ずっと側にいてくれて、ありがとう」
 しっかりとした決意を秘めた辻の目を見て、北沢は差し出された手を握った。告げられた言葉は嬉しかったけれど、もう自分がいなくても、辻は大丈夫なのかもしれない……そう思うと、切なかった。
「何年も先のことなんてわからないからな。もしかしたら、俺と辻が結婚してるかもしれない」
「それもアリかな」
「もちろん」
 北沢の言葉に、悪戯っぽく微笑んだ辻を間近で見て、北沢は現実を拒否したくなった。
(先週キスしたよな? 恋人同士って言いながら、手をつないで帰って ――― )

 北沢は握ったままの辻の手を強く引き寄せた。バランスを崩した辻は、ぽすん、と軽く胸に飛び込んできた。胸を押し返してきた辻を、腕に力を込めて留める。
「 ――― 最後だから……少しだけ、抱きしめさせて」
 耳元で囁くと、辻の抵抗が収まった。
「みんな見てるよ?」
「いいから」
 今更周囲の目なんかどうだっていい。辻が背中を向けている、三階の音楽室から出てきた矢野と佐々木がこっちを見ていようと、構いはしない。
 むしろ矢野に見せつけるように、北沢は辻を抱きしめた。髪に顔を埋める。視界に映る友人たちが呆れた顔をしても、下級生がじっとこっちを見ていようとも、北沢は動じずに、しばらく辻を抱きしめていた。時間にすれば、三十秒ぐらいのことだったが、その時間を、北沢は忘れないと思った。
 恋人としての、最後の抱擁を。

 目を閉じてじっとしていた辻は、北沢の腕が緩んだのを合図に顔をおこした。
「……バイバイ、北沢」
 そっと小さな声で告げて、脇をすり抜けていく。辻の足は、まっすぐに廊下を渡り、音楽室へと向かっていた。
 北沢は、音楽室前の廊下から眼鏡越しに鋭く睨みつけてくる矢野を、静かに見返した。矢野の隣では、美術の佐々木が肩を震わせて笑っている。
 ――― 誰が思うのだ、秋に結婚する予定の男が、違う相手からの告白に応えてしまうなんて。婚約破棄していたなんて。いいトコ取りじゃねーか、ちくしょう!
 辻が矢野に気持ちを伝えれば、そこで辻の恋は、嫌でも終わりになる予定だった。
(……そうなるハズだったんだ。
 俺が幸せにしたかったんだ。守ってやりたかったんだ。矢野さんなんかより、ずっと)
 けれど、時既に遅し。辻にはもう、矢野しか見えていない。
 今更ながら、北沢は自分の冷静さを呪った。辻が「たった一人の誰か」を手に入れてしまったことが、これほど自分を落ち込ませるとは思わなかった。
 とっくに恋だったことに、気づかなかった自分を呪った。



 辻が音楽室に行くと、廊下にいた矢野と佐々木も一緒に準備室に入ってきた。矢野は不機嫌さを隠そうともせず、会いに来た辻と顔を合わせても、何も話そうとはしなかった。
 矢野の態度があまりにも冷たいので、辻は首をひねった。見かねた佐々木が、苦笑しながら口を開く。さすがに抜け目なく、廊下や音楽室に他の生徒がいないのを確かめてから。
「彼は、いい年して北沢に嫉妬してんの。さっき抱き合ってたでしょ、キミら」
 ああ、と辻はようやく納得した。
「北沢が、最後に抱きしめさせてって……だから、お別れしてただけよ。何をそんなに怒っているの?」
「お別れしてただけ? お前なぁ……!」
 矢野は思わず声を荒げたけれど、佐々木がいることを思い出して、口をつぐんだ。佐々木はニヤニヤと二人を見ている。
「 ――― 千代ちゃん、席外して」
「イヤだね。面白そうだから」
 大きく吐息して、矢野は眼鏡を外した。引き出しから、自分のカバンを取り出し、いくつも鍵が連なるキーホルダーを出す。その中からひとつの鍵を外すと、辻の手に握らせた。
「ウチの鍵。学校終わったら、ウチに行って。その鍵、スペアじゃないからな……無くすなよ? 俺も七時には帰る。日崎に遅くなるって連絡入れとけ」
 辻はまだ訝しげな表情をしていたが、こくんと頷いて音楽室を出て行った。

「 ――― やっぱり面白いね、辻」
「面白がるなよ……マジ、先が思いやられる。なんであんなに警戒心無いんだか」
 両手で顔を覆って天を仰ぐ矢野の傍ら、佐々木は細い目を伏せて、三本目のタバコに火をつけた。
(辻には、あのまま我が道進んで欲しいけどね……)
 凛とした立ち姿、強い眼差し、呆れるくらい周囲の目を気にしない……矢野とつきあうことで、辻のそういう部分がなくなるとしたら、それはあまりにも惜しい。佐々木は風に流れる煙を目で追いながら、そんなことを考えていた。



 約束通り、辻は学校帰りに、直接矢野のマンションへ行った。
 この部屋で抱かれたのは、つい一昨日のことで、あまりにも生々しい記憶に、顔が火照るのを感じた。北沢を待たずに帰ってきたので、窓の外はまだまだ明るい。しばらくソファに座ってぼうっとしていた辻だが、思い立って冷蔵庫を開けた。
(矢野さん、外食かコンビニ弁当ばっかりだもん。晩御飯、作っておこう)
 そう思ったものの、冷蔵庫の中にはビールしかなかった。米すら無い。呆れた辻は、近くのスーパーに行って、さっさと材料を買い込んできた。お米も一番小さな袋を買った。
 長く使われていないであろう炊飯器の釜を洗い、鍋で炒めた米と野菜、エビをスープごと流し込む。最後にローリエの葉を一枚入れて、スイッチを入れれば、あとは炊き上がるのを待つだけだ。
(トマトとレタスは、カリカリに焼いたベーコンと和えてサラダにしよっと。あとは缶詰のコーンスープを温めればOK)
 やることのなくなった辻は、おもむろにカバンから参考書とノートを取り出した。余った時間は、苦手科目の復習に当てるのが、最近の自分のルールだ。
 高校三年の夏 ―――彼女はまだ進路を迷っていた。

 辻は、インターフォンの音に顔を上げた。いつの間にか、二時間が経過している。慌てて玄関のドアをあけると、ネクタイを外した矢野が笑顔で立っていた。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
 普通の挨拶なのに、なぜ照れてしまうんだろう? 辻はかすかに頬を染めた。
「すげーイイ匂い。何作ったんだ?」
「エビピラフ。サラダとスープもすぐにできるよ」
 玄関までコンソメのよい匂いが漂っていた。矢野は満面の笑みを浮かべて、空いている右腕だけで、ぎゅっと辻を抱きしめた。
「やっぱり、誰かが出迎えてくれるのって、嬉しいな」
 辻は少し背伸びして、頬へのキスで矢野の言葉に応えた。

 おいしく食事を済ませ ―― 矢野は最初から最後まで『うまい!』を連発した ―― 食器を片付けようとした辻を、矢野が制した。
「片付けぐらい俺がやる。こっちおいで」
 ベッドに誘われて、辻は素直に従った。部屋の奥側は照明が落とされていて、薄暗い。ベッドサイドに腰掛けた矢野の前に立つと、矢野は胸に顔を埋めるように、ぎゅうっと抱きついてきた。子供のように、そのままの姿勢でじっとしている。
「えーと、矢野さん?」
「んー……気持ちいいな、お前の体」
 辻を見上げて、にこっと笑う顔は、学校にいるときとは別人のようだ。思わず、可愛い、と言いかけた辻だったが、危うく言葉を飲み込んだ。
 矢野はそのまま、強引に辻をベッドに転がした。並んで寝転がって、唇に触れるだけのキスをする。
「 ――― 今日はしない。怖いお兄ちゃんが、『門限』ってうるさいからな」
「……和人さん、門限破ったら怒るかな」
「平日初日で門限破らせたら、俺殺されるね、きっと」
 まさか、と辻は笑ったが、矢野は半分本気だった。殴られたみぞおちにはアザが残り、二日経った今でも体をひねると痛んだ。
 まだ笑っている辻の後頭部に手を回し、長い髪に指を絡ませた。持ち上げると、何の引っかかりも無くサラサラとシーツの上に滑り落ちていく。

「こうやって辻に触れられるの、俺だけにして」
 そう告げた矢野の声は、少し掠れていた。
「 ――― 矢野さん……?」
「北沢に抱きしめられても平気なのか? 俺がトーコと抱き合ってるのを見たら、お前、どう思う? 俺とつきあい始めたんじゃないのか……?」
 矢継ぎ早な問いかけに、咄嗟に言葉が出なかった。ただ、昼間の自分の行動が、少なからず矢野を傷つけてしまったのだと、わかった。
「言いたいことは、わかる……私、トーコさんと矢野さんが抱き合ってるところなんて、想像もしたくない。絶対イヤ。
 矢野さんが一番好きだよ。北沢にもそう言った。矢野さんが好きだから、友達に戻ろう、って。北沢は、親友っていうか……うまく言葉にできないけど、側にいるのがあたりまえで、今更離れるなんて考えられないの。だから、元通りの関係に戻そうって」
 言葉を選んで、ゆっくりとしゃべる辻に、たまらず矢野は深く溜息をついた。
「辻……酷すぎるぞ、それは」
 辻は驚いて、矢野を見た。
(酷い? 一体何が?)
 目を瞬く辻を、矢野は自分の胸に抱きしめた。優しく頭を撫でながら、仕方ないな、というように言葉を続ける。
「北沢と、ちゃんと一線引いてつきあってやれよ。他に好きな男がいるってわかってて、側でずっと見てるなんて、めちゃくちゃツラいに決まってる。北沢はバカみたいに自制心強そうだし、平気に見えるだろうけど、同じ男として同情するね。
 友達として続けましょうなんて、お前から言われたら、生殺しだよ。そんなの優しさじゃない」
「そう、かな……」

 その状況を、辻はよく知っていた。矢野が結婚すると知りながら、好きで好きで、側にいたくてたまらなかった。確かに、泣くほど辛いときもあったけれど ――― それでも、離れたいなんて思わなかった。あの頃、もし矢野に避けられていたら……考えただけでも、ゾッとした。
「私だったら、それでも側にいたい」
「男は、側にいるだけじゃおさまらないモンなの。こうやって辻を抱きしめたいと思ってる男は、お前が思ってる以上に多いんだよ。少しは自覚しろよ?」
 困ったような笑顔を向けられて、辻は頷くことしかできなかった。それでも、何か釈然としないものを感じながら。


03.07.16

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