Keep The Faith
第18話 ◆ きっと愛してる(1)
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 あなたに 捧げる言葉はひとつだけ
 受け取る言葉と同じように
 強く絡ませた指を放さぬように
 あなたの熱を忘れぬように
 初めて私から伸ばした手を握ってくれたあなたの笑顔を
 この心に刻もう



 日崎和人は、自宅に足を踏み入れた途端、嫌な予感を確信に変えた。
 台風一過、天気は快晴。汗ばむほどの陽気の中、予定通り午前十時過ぎのフライトで帰ってきた。昨日の台風に、一人残してきた辻が心配で自宅に連絡を入れたけれど、結局電話を取る人間はいなかった。辻の携帯も反応は無く、溜息つきつつ矢野の携帯にも連絡をとったが、昨日からずっとマナーモードのままだ。
「また泊めたんだろうな……」
 家のどこにも、辻が帰宅した形跡はなかった。今回は仕方がない。例え日崎が矢野の立場でも、同じことをしただろう。
(婚約破棄したこと ――― もう教えたんだろうか。辻が暴走してなきゃいいけど)
 手早く着替えを済ませ、日崎は三日ぶりに乗る愛車を走らせて矢野の住むマンションに向かった。そこに、想像もしなかった光景が待っているとは、露ほども知らずに。



 二度インターフォンを鳴らしても反応が無かったので、日崎はキーケースを取り出した。お互い一人暮らしだった頃から、合鍵は交換していた。病気になったときの為だが、実際は飲んだ帰りに酔っ払った相手を送り届ける際しか使われていない。
 矢野は基本的に夜型人間なので、休日の午前中はまず寝ている。辻もああ見えて寝起きは悪く、二人ともまだ眠ってるのだと、日崎には容易に察しがついた。駐車場にシルバーのカムリが停まっていたので、留守だということもないだろう。

 日崎がドアを開け玄関に立つと、涼しい風が吹き抜けていった。窓が開いていて、カーテンが風をはらんで大きく膨らんだ。ドアを閉めた途端に、静かに落ちていく。
 窓から差し込む陽光で、部屋の中は白く淡い光で満たされていた。
「矢野さん」
 呼びかけるが返事はない。日崎は部屋の奥へと足を進めた。そんな彼の目に飛び込んできたのは、一見穏やかな風景だった。
 窓際に置かれたベッドの上、矢野と辻が静かに眠っていた。吹き込んでくる穏やかな風が、二人の前髪を優しく揺らす。ただ問題なのは ――― ブランケットの下の二人が、どう見ても裸だということ。
 しばし声を失った日崎だが、気を取り直して矢野の肩を軽く揺らした。
「矢野さん」
 重く低い声で、つきあいが六年になる一つ年上の親友を呼ぶが、相手は小さく「うー」と声を出しただけで、起きようとはしなかった。それどころか、眠る辻を抱き寄せて、その髪に顔を埋める。
 日崎は無表情のまま手を振り上げ、矢野の頬を平手で打った。ぱん! と高い音が響く。
「 ――― 痛っ!」
 声を上げて目を開けた矢野の口を、すばやく日崎の手が塞ぐ。
「大きな声を出さないで下さい。辻が起きてしまう。
 ――― この状況、説明してくれますね?」
 日崎の口調は静かだったが、有無を言わさぬ強さがあった。矢野はきつい眼差しで日崎を睨みつけたが、絶対零度の視線で睨み返され、諦めたように頷いた。

 シャワーくらい浴びさせろ、という矢野の言葉に、日崎は渋々頷いた。だが、ものの五分もかからずに、髪から水滴を落としながら戻ってきた矢野の姿に、眉間の皺を一層深くした。トランクス一枚身につけただけの矢野の背中 ――― 肩から肩甲骨にかけて、細い引っかき傷が何本も走っていた。誰が、どうしてその傷をつけたのか……そんなことは、聞かなくてもわかる。
「まさか、矢野さんが辻の気持ちに応えるなんて、思いもしませんでしたよ」
 溜息まじりの言葉を吐いて、日崎はソファに腰を下ろした。
「そりゃそうだろ。俺自身、こんな風になるなんて想像もしてなかったんだ」
 冷蔵庫からコーラを取り出し、矢野は一本を日崎に手渡した。自分もプルトップを開け、ごくごくと喉を鳴らして飲む。タオルで髪をごしごしと拭きながら、視線をベッドで眠る辻に向けた。パーティションは風を遮るので畳んである。
 バスルームを出たばかりの矢野は、眼鏡を掛けていなかった。元々そんなに視力が悪いわけではない。自宅にいるときは外していることが多かった。
 辻は起きる気配もなく、うつ伏せになって眠っている。肩からすべりおちた髪が、シーツの上に広がっていた。
(寝たの、明け方だったもんなぁ。まあ、辻は気を失ったって言った方が近いか)
 数時間前の辻を思い出して、矢野はつい頬を緩めた。

「それで、何でこんなことになったんですか」
 苛立ちを含んだ日崎の声に、矢野は視線を戻した。日崎の表情は、この部屋に来た時からほとんど変わらない。彼は、怒れば怒るほど冷静になる。
「何でって ――― 辻が俺を好きで、俺も辻を好きだからだろ。それ以外、何があるって言うんだ」
「矢野さんが辻を好きだなんて、信じられませんよ。一昨日の電話のときも、それ以前も、そんな気配は全く無かった」
「あるワケないだろ? 俺だって自覚したの、昨日なんだから」
 飄々とした矢野に、日崎は思わず右の拳を握った。爪が手のひらに食い込む。全く、人の神経を逆撫でする男だ。
「ん……」
 辻の声がかすかに聞こえて、二人は同時にそちらを見た。
 ころんと寝返りを打った辻の背中が露になっていた。薄青のシーツの上、流れる黒髪と、腰の下まで露出した白い肌は、息を呑むほど艶っぽかった。背中のところどころに咲いた赤い花が、余計にそう思わせる。
 矢野は無言でベッドに近づき、今にも落ちそうになっているブランケットを掛けなおした。例え日崎にでも、これ以上辻の肌を見られるのは嫌だった。
 少し汗ばんだ辻の肩に触れる。矢野の手の平に吸い付くような、極上の滑らかな肌。
「日崎。お前が何を言っても、俺は自分のやりたいようにやる。我慢するつもりはない。 ――― 辻が嫌がったら、別だけどな」
 今まで見たことも無いくらいに、優しい眼差しで辻を見つめる矢野。日崎に、もう止めることはできないのだと、思い知らせる姿だった。
「……教師が生徒に手を出していいんですか」
「俺と辻が、『教師と生徒』だったことなんか、一度も無いだろ。ずっと前から『矢野健』と『辻真咲』っていう個人だ。考えてみろよ、もし日崎の会社に辻が入ってきたとして、いきなり『上司と部下』になれるか?」
 反論できずに、日崎は口をつぐんだ。いつも軽く見られがちの矢野だが、本質は限りなくドライで強いということを、日崎は知っていた。
 いつだってそうだ。いい加減に見えるのに、自分が一度決めたことは、何があろうと成し遂げる。たとえどんな障害があろうとも。そして、やる気がなくなると、何の未練も無く切り離すのだ。
 逆に言えば、矢野にそういう部分があるからこそ、日崎はつきあいを続けている。自分には無い決断力と行動力は、時に羨ましく、時に憎らしくさえなる……今のように。
「俺は、矢野さんと辻がつきあうのは反対です。あなたの気まぐれで辻が傷つくのを見たくない」
「傷つくことは、避けられないさ。俺と辻は別人なんだ。恋愛に限らず、複数の人間が居れば、多かれ少なかれ傷はつく。ついた傷は癒せばいい。
 ――― いずれにしても、喜んだり泣いたりするのは、辻なんだ。全て、選択権はコイツにある。日崎が決めることじゃない」
 そう言って、矢野は寝ている辻を抱き起こした。
「辻、起きろ。お迎え来てるぞ」
 うん、とうめいた辻は、目を閉じたまま、矢野の背中に腕をまわして抱きついた。
「おはよ……矢野さん」
 とろけそうに甘い声で、囁く。
「もうちょっと寝かせて……?」
 そんな風に耳元で、耳たぶを噛まれながらお願いされて、矢野は危うく日崎の存在を忘れてそのまま押し倒しそうになった。女は魔性とはよく言ったものだ、一晩でここまで成長されては、この先が危ぶまれる。
「辻」
 日崎が強い口調でその名を呼んだ。矢野に抱きついたまま、再び眠りに入ろうとしていた辻の目が、ゆっくり開く。矢野の肩越しに、日崎と目が合った。
「和人さん? あれ、どうしてここにいるの?」
「迎えにきたんだよ」
 当然のことながら、辻は全裸で、そのほとんどが矢野の上半身とブランケットで隠されているとはいえ、日崎は目のやり場に困った。今更ながら、辻と矢野の間に起こった出来事を痛感する。昨日、台風の中、どんな手段を使ってでも帰ってくるべきだった。後悔は尽きない。
 辻はぼんやりとした顔で、しばらく日崎を見つめていたが、何も言わずに矢野に視線を移した。二人が軽くキスして離れるのを、日崎は怒りに耐えながら見ていた。



 辻がシャワーを浴び、制服に着替えてリビングに戻ると、矢野と日崎の間になんだか怖い空気が漂っていた。Tシャツに色あせたブラックジーンズを着た矢野が、ソファの横に立てかけたままだった辻のカバンを手渡すと、それが合図のように日崎も立ち上がった。
「お邪魔しました」
「じゃあ、また月曜に学校で会おうね」
 各々の挨拶に、矢野は軽く手を上げた。玄関を出るときになって、日崎が辻に車の鍵を預けた。
「辻、ちょっと先に行ってて。矢野さんに話あるから」
 辻は軽く頷いて、部屋を出て行った。彼女の足音が遠ざかってから、日崎は矢野に向き直る。矢野は何を言われるのか検討もつかず、無言で佇んだ。

「矢野さん、辻には、最低限のことは守るよう言います。
 平日は外泊禁止。矢野さんのところに泊まるときは、必ず連絡すること。少なくとも、卒業するまで学校に知られないようにすること。子供を作らないこと。テスト順位を落とさないこと。
 これだけは、矢野さんも守ってください。俺は、辻の保護者代理です」
 言われた内容を心の中で反芻して、矢野は快く頷いた。平日は外泊禁止ということは、週末はよいということだ。おまけに、季節は夏休み直前。これから会える時間はたっぷりと作れる。
「それでは」
 そう言って日崎が踵を返したので、矢野もリビングに戻ろうと一歩踏み出した。その背中に、日崎の言葉が被さった。
「そういえば、ひとつ忘れてました」
 矢野が体を玄関に向けた瞬間、強烈な痛みがみぞおちを襲った。一瞬呼吸が止まる。
「……ッ!!」
 日崎の右拳が、力の限り矢野の腹部にめり込んでいた。矢野はたまらず膝をつく。みぞおちを抑え、うめき声をあげる矢野を、日崎は冷たく見下ろした。
「あなたと辻のことは、確かに二人の問題です。俺には何も言えない。
 ――― ただ、俺は辻のことが大事です。もし泣かせたら、このぐらいでは済みませんから……覚えておいて下さい」
 ごほっ、と大きく咳きこむ矢野から視線を逸らし、日崎はゆっくりとドアを閉めた。

 インプレッサに乗り込むと、助手席で待っていた辻が勢い込んで聞いてきた。
「矢野さんに話って、何だったの?」
「辻の門限つくりますって話。夜九時だからな、守れよ? あと、平日は外泊禁止」
「えー、門限? 今更!」
「駄目。守りなさい」
 楽しく話す辻と日崎を乗せて、車は真夏の太陽の下、風をきって走っていった。


03.07.12

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