Keep The Faith
第16話 ◆ 甘い罠(3)
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 期末考査最終日、天気は荒れに荒れた。朝はただの雨模様だったが、時間が経つにつれ、教室の窓を叩きつける雨の音が次第に大きくなっていった。
「台風直撃かぁ。午後は休校になるね」
「たぶん」
 三限目、矢野と佐々木は、テスト監督に当たっていなかったので、いつものように音楽準備室で休憩をしていた。
「予定変更する?」
 ひっそりとつぶやかれた佐々木の言葉に、矢野は首を振った。
「雨天決行。俺、気ぃ長くないから」
 沈黙を埋める雨音。正午前だというのに、教室は日暮れのように薄暗かった。
「 ――― 辻とは、どういう関係なのか、聞いていい?」
 煙を吐き出しながら、佐々木が問うた。矢野はちらりと彼女を見てから、軽く顎に手を当てた。
「……俺にも、よくわからないんだよな」
「アタシも全然わかんないわよ。あの子には、北沢ってラブラブな彼氏がいるのに、いい年して横恋慕してんの? 避けられてること自体、嫌われてるってことでしょうが」
 むしろ逆だよ、と心の中でつぶやいて、矢野は椅子の背もたれに体を預けて、大きく伸びをした。
「だーかーらー、わからないんだって。俺自身、どうしたいのか……わからないから、会うんだよ。
 あいつのことは、小学生のときから知ってる。生意気で可愛げのないガキだった。なのに、事故以来、みんな辻を大事に大事に扱って、あいつの意思はどこ行ったのか見えない。守られることに甘んじるようなヤツじゃなかったんだ」
 こんなことを話しても、佐々木にはきっと理解できないだろう。そう思いながらも、矢野は言葉を紡いだ ――― 自分の心を見据えるように。
「実は、千代ちゃんと東郷が、ただの教師と生徒の関係じゃないって気付いたのも、偶然じゃない。最近、東郷がよく俺を睨んでるって気付いて、真っ先に考えたのは、『コイツ、辻狙いなのか』ってことだった。北沢がそうだからな。
 でも、しばらく東郷を観察してたら、あいつの視線の先に、辻はいなかったんだ。代わりに、千代ちゃんがいた。俺らが昼休み一緒にいるの、生徒も面白がってウワサしてるから、それで牽制してきたんだろうな。あんな可愛いカオして」
 佐々木は近くの椅子に勢いよく腰掛けて、矢野と向きあった。足を組んで、そこに肘をつく。
「可愛いって言わないの。本人気にしてるんだから。
 ちなみに、アタシと東郷は、つきあってるわけじゃないからね。アタシが一方的に想われてるだけだから」
 念を押すように強く矢野の目を見据えた。矢野は、軽く頷くと、再び語り始めた。
「辻に避けられて、始めて気付いた。学校では、俺と辻の接点がまるでないって。
 それでも毎日のように会ってたのは ――― 辻が俺に会いに来てたからだ。窓越しに目が合うことが多かったのも、あいつが俺を見てたから。それが無くなって、淋しいって思った自分がいた。……だから、確かめたいんだ。辻がなんで俺を避けてたのか、俺が辻をどう思ってるのか」
「 ――― 結構、シリアスな理由ね」
「どう思ってたんだよ」
「てっきり、やらしいこと考えてんだと思ってた」
「……俺のこと、どんな人間だと思ってんの」
 矢野と佐々木が顔を合わせて笑ったとき、チャイムが鳴った。同時に、職員収集の放送が流れる。二人ともタバコを消して立ち上がった。
「職員に連絡するなら、放送で『午後休校』でいいと思わない?」
「まあまあ。行くよ、千代ちゃん」
 音楽準備室を出る。階段を下りながら、雨音に邪魔されないよう、佐々木が矢野に近づいて告げた。
「職員会議が終わったらすぐに、辻の呼び出しかけるから。
 村上先生は休みだから心配ない。誰も来ないとは思うけど、中から鍵掛けた方がいいかも。鍵はアタシが持ってるし。一時間後に戻るから、それまでには、話を済ませておきなさいよ」
 一階におりると、生徒たちが窓から不安げに空を見ていた。



『三年七組、辻真咲、美術準備室の佐々木まで来るように』
 帰り際のざわめく教室に、校内放送が流れた。
「あれ、モデル終わったんじゃなかった?」
 ジュースを飲みながら、前の席の女生徒、田村が辻を振り返る。
「うん、もう用は無いはずなんだけど……北沢が来たら、先に帰ってて、って伝えてくれる?」
「……いいけど。早く帰らないと、外、あんなだよ?」
「大丈夫。傘も持ってるし、遅くなるようなら佐々木先生に送ってもらうから。
 じゃあ、田村さんも気をつけて帰って」
 ふわっと笑って教室を後にした辻を見送って、田村はふと溜息を漏らした。
 辻とは、四月からよく話すようになったけれど、その見目麗しい外見に加えて、彼女が携帯を持っていないことで、どこか一線引いてつきあってしまう。仲良くなりたい気持ちはあるのに。
 同じように、周囲から溜息が漏れた。
「北沢さえいなけりゃなー」
 同じクラスになったところで、既に公認の彼氏持ち。いくら焦がれても相手にされない男子連中の溜息は、やはり辻には届かないのだった。



 辻が美術準備室の扉を開けると、誰も居なかった。
「佐々木先生?」
 美術室にいるのだろうか。そう思って隣室に通じる扉に近づいたとき、背後に気配がした。
 響く靴音。扉の閉まる音、鍵を閉める音。
 今、辻が入ってきたばかりの扉を後ろ手に閉め、矢野健が立っていた。
 そして二人は今、対峙している。

「久しぶりだな」
 二週間ぶりに聞くその声は、たった一言で辻を揺さぶった。
「あれだけ露骨に避けられて、俺が傷つかないとでも?」
 眼鏡の奥の、伏せられた眼差しがさらに追い打ちを掛けた。辻は立っていられなくなって、壁にもたれ掛かかる。
「こら、ずっと黙るつもりか」
 声を聞くのも、見つめられるのも苦しいのに、矢野から目が逸らせなかった。喉の奥から、かすれた声をしぼりだして、今更どうでもいいことを問うた。
「……佐々木先生は?」
「いないよ。俺が頼んでお前を呼びだして貰ったんだ。俺の呼び出しに応じてくれるとは思えなかったから」
 満足そうに微笑む矢野。その笑顔を、辻は卑怯だと思った。
「……また、黙るのか」
 つぶやいて、矢野はゆっくり辻に近づいた。ドアに鍵をかけられたことを思い出して、辻はどこにも逃げられないことを悟った。
 だから、まっすぐに矢野を見つめた。
 こうまでして、矢野が自分に会いたがったのは何故なのか、と思った。今、矢野は何を考えているのだろうか、と。
 ――― こうして触れるほど近くで、瞬きもせずに見つめ合っている今に、どんな意味があるのか。
「何で避けるんだ。この前の音楽室で、悪ふざけが過ぎたからか。怒ってるのか?」
 手を伸ばせば届くところに、矢野が居た。辻は目を逸らすことが出来ない。甘い誘惑が心に広がる。
 我慢する必要など無い。何もかも捨てて、自分に正直になれ。これまでの努力と、これからの小さな幸せを捨てて、今一瞬の最上の幸福を手に入れろ ――― 。

(手を伸ばしたら、あなたに届くの?)

 空気が動いた。
 矢野が一歩踏み出す。壁に肘をつけて、辻に覆い被さるように、真上から辻を見下ろした。まるで獲物をいたぶる猫のごとく、両手に囲って逃がさぬように。
「でも、俺も怒ってるんだ。お前、嘘ついてただろう」
 何を?
 矢野の声が降ってくる。けれど、辻は答えなかった。応えられなかった。矢野の言葉は意味を成さずに素通りして、彼の視線だけが、辻を捕らえて離さない。
「逃げずに答えろ。
 ……お前が好きなのは、俺だろう」
 交錯し続けた視線が、辻の吐息と同時に途切れた。
「ち、がう。私、北沢と」
 矢野の強い視線が辻の心を絡め取る。耐えられなくて、顔を伏せた。
「 ――― 北沢とつきあってるもの。キスも、したし」
「へぇ。キス、ね」
 深い声音が耳を掠めて、辻は体を強張らせた。声だけで、さらわれそうになる。矢野との間には、わずかな空間しかなくて、うつむくと余計に近づいた気がした。鼻腔をくすぐるタバコの匂い。切なくて、苦しくて、辻はぎゅっと目を閉じた。
 矢野はうつむいた辻を見下ろしながら、静かに眼鏡を外して近くの棚に置いた。
「こんな風に?」
 言葉の意味を考える前に、辻は強引に顔を上向かされていた。頬を矢野の大きな両手が包み込む。
「や……っ」
 噛み付くようなキスだった。強引に辻の唇をこじ開けて、深く舌が侵入してくる。それは、北沢のキスとは全然違っていて。
 歯の裏をなぞられ、舌や唇を吸われて、辻は何がなんだかわからなかった。外の台風そのままに、嵐にさらわれるようで、矢野の背中に腕を回してしがみつく以外、どうすることもできなかった。
「ん ――― ッ!」
 声をあげようとするけれど、口を開こうとした途端に、一層深く口付けられる。次第に辻の体から力が抜けていった。

 どれぐらいの時間が経過したのかもわからない。いつの間にか、矢野の腕は辻の腰に回されて、今にも崩れそうな辻をしっかりと抱きしめていた。荒々しかった口付けも、次第に優しくなり、ゆっくりと唇を舐められ、舌を軽く噛まれると、辻の体がぴくんと震えた。
 力強く、情熱的な矢野の本質を初めて知って、辻はその激しさに、何も考えられなくなった。
 今触れている矢野だけに、神経が集中する。
 矢野は唇を離し、額を触れさせたまままま、至近距離から辻の顔を見つめた。その瞬間、切なく細められた辻の眼差しに射抜かれて、矢野は言葉を失う。今さっき口づけたばかりの唇が、やけに艶めいて見えて、抱きしめた柔らかな体に、そのまま直に触れたくなった。
 二人とも、呼吸が乱れていた。突然雨の音が蘇る。
「言って。お前は誰が好きなんだ?」
「 ――― 矢野さん……矢野さんが、好き」
 辻は、涙が浮かんでくるのを感じながら、震える声で名を呼んで。
 次の瞬間、息が止まるほどきつく抱きしめられていた。

 矢野は深く息を吐いた。自分でも驚くほど、愛しさがこみ上げてくる。なぜずっと北沢が気に障ったのか、どうして日崎が辻を過保護にしているのが苛立ったのか、全部わかった気がした。
 辻が愛しかったからだ。当然のように会いに来て、いつも笑ってくれる辻を、待っていたのかもしれない ――― 何よりも、矢野自身が。
 二人とも夢中で腕を伸ばした。辻は矢野の首に腕を絡め、同時に狂おしい程抱きしめられて、その感触の確かさと、体温にひどく安心して、涙が止まらなかった。それは、辻がずっと望んでいた瞬間だった。待ちわびて、けれど実現するはずのない夢だった。
 一瞬矢野の腕がゆるんで、辻の両肩を掴んで離す。夢の終演を感じて辻は息を飲んだけれど、次の瞬間、再び深く口づけられていた。
 何度も唇を重ね、辻は立っていられなくて座り込みそうになった。矢野は口付けたまま辻を抱き上げ、手近な机に座らせた。髪の中に手を埋め、耳や首筋にもキスを降らせる。
 辻は矢野にしがみつくようにして、彼を見ている。その瞳には、まだ不安が浮かんでいた。乱れた呼吸のまま、辻はなんとか言葉を紡いだ。
「……ど、して?」
「何が」
 辻の長い黒髪を指で梳きながら、矢野は囁いた。声が余韻を残して甘い。
「どうして、キスするの。抱きしめたりするの!?
 ……トーコさんが、いるのに」
 矢野はふと日崎との会話を思い出した。日崎は、自分の言った通り、辻には知らせていないのだろう。大事なことを言い忘れていた。
「俺、結婚しないよ。トーコとは別れた。二ヶ月前に、婚約も破棄したんだ」
 辻は、ぱちっと目を見開いた。止まらない涙が、また一筋頬を伝った。
「婚約、破棄……?」
「ああ。日崎から聞いてなかったのか?」
 とりあえず、矢野は日崎を悪者に仕立て上げて、この場を乗り切ることにした。
 辻は無言のまま眉間にシワを寄せる。誰に向ければいいのかわからない苛立ちが膨れ上がったけれど、優しく背中を撫でている矢野の手が心地よくて、もうどうでもいいことだ、と思った。
 見上げれば、すぐそこに矢野が笑っていた。
 軽くキスを交わして、二人は再びゆっくりと抱き合った。そのとき。
 ガラガラと耳障りな音を立てて、扉が開いた。

「……一時間経過したわよ、君たち。ちなみに、校内セックス禁止です」
 咥えタバコの佐々木が、呆れて立っていた。声を掻き消すぐらいに雨音と雷がすごくて、すぐに扉を閉める。
「ほら、帰らないとマジでヤバイよ。警報出てるし、道路にまで水が溢れてるって。続きは自宅でやりな」
 佐々木は、抱き合ったままの辻と矢野など目に入らないかのように、窓の鍵をチェックし、荷物をまとめている。矢野は辻の額に軽くキスして、ようやく辻を解放した。辻も机から降りて、乱れた制服を整えた。
「サンキュ、千代ちゃん。仲直りできたよ」
「真相なんか聞きたくないよ。さ、辻もカバン忘れずにね。
 ヤノッチ、悪いけど駅まで送って。アタシ電車通だから」
 矢野はもちろん、快く頷いた。
 三人で美術準備室を出て、職員用の駐車場へ向かう。人影は全く無い。
「誰もいねーな」
「職員もすぐに帰れって放送あったでしょう。聞こえなかった?」
「全然。辻、聞こえた?」
 ふるふると辻も首を降る。あまりの豪雨に、しばらく職員室前に佇んでいると、通りがかった用務員が驚いて声を上げた。
「まだいらしたんですか? 佐々木先生、駅行っても無駄ですよ。さっき、電車も停まったみたいですから」
 佐々木は、ゆっくりと後ろの矢野を振り返った。
「もちろん、送ってくれるよな?」
 ニヤリと笑みを浮かべる佐々木に、今回ばかりは矢野も服従するしかなかった。


03.07.06

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