Keep The Faith
第15話 ◆ 甘い罠(2)
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 後々よく考えてみても、その日、その場所で彼女と再会したことが、日崎には不思議でたまらなかった。

 神代と、桃子の連れは、二人に気を使って先に帰った。桃子に連れられて来た店は、落ち着いた雰囲気のバーで、店の入り口では壮年の男が静かにピアノを弾いていた。
「時々、ここで演奏してるんだ。さっき一緒に飲んでたのは、一緒に練習してるメンバー」
 間接照明に照らされた桃子の顔は、少し疲れて見えた。夜が更けたせいかもしれないし、照明の角度でそう見えただけかもしれない。大学を卒業した後、矢野と桃子が暮らしてきた街のすぐ近く ――― 仕事の都合で、矢野と一緒に暮らし始めるのは夏以降だと聞いていたので、桃子がここにいることは、別におかしいことではなかった。
 出会ったのは、ただの偶然だろう。時々、信じられないことが重なるのが現実だ。
「……続けてるんですね、トランペット」
「好きだもの。日崎君は、ピアノ弾いてる?」
「最近はあまり」
 日崎は桃子の横顔を見るともなく見ながら、グラスの水割りを飲んだ。
「お酒強いね。大学の頃は、食べてばっかりじゃなかった? 猫被る性格でもなかったでしょうに」
「ゆっくり飲むのが好きなんです」
 苦笑して、日崎は空になったグラスをカウンターに置いた。同じの、とつぶやくと、まだ少年のようなバーテンダーが、手馴れた様子で氷を入れ、ウィスキーとミネラルウォーターを注いだ。桃子も手の中のグラスを持ち上げ、二人だけで乾杯をする。
「 ――― 卒業して以来ね」
「そうですね。トーコさん、大学の頃もジンライム好きだった……変わってないな」
 透明な液体に、二つに割ったライムが沈んでいるグラス。桃子も懐かしい気持ちでそれを見ていた。正直言って、今は違うカクテルを飲むことが多い。でも、今日はジンライムが飲みたかった。時が戻ったかのように。
「日崎君も変わってない。甘いお酒、キライだったね」
「たかが二年で、そんなに人間変わらないですよ」

 語っているうちに、ピアノの曲調が変わった。映画音楽から、ビートルズへ。
 桃子が少し目を細めて、ピアノの方を見た。日崎には、彼女の気持ちが手に取るようにわかった。いつもピアノでビートルズばかり弾いている恋人を、思い出したのだろう。
「 ――― 辻ちゃんは、元気?」
 ピアノへ視線を投げたまま、桃子がつぶやいた。
「元気です。今度、会いに来てやって下さい」
「もう17歳だっけ? 可愛くなってるんだろうな」
「可愛いというか……綺麗になりましたよ。見ますか?」
 兄馬鹿丸出しの日崎だったが、桃子は好奇心に勝てずに頷いた。日崎はポケットから携帯電話を取り出し、他の客の迷惑にならないように、テーブルの下で二つ折になっていたそれを開いた。画像を呼び出す。
 しばらくすると、辻が笑いかけている画像が表示された。
「うわ……ホントに美人。大人びてる」
 思わず感嘆した桃子を見て、日崎が得意気に笑った。桃子は、日崎に了解を得てから、他の画像も見始めた。そのほとんどが辻だ。ラグの上にうつ伏せに転がって、両手を伸ばしてくる画像。着物姿。辻が撮ったのだろうか、後ろから抱きついた辻が、日崎の肩に顎をのせて、二人で頬をくっつけて笑っているものもある。
「バカップル……幸せそうでいいね」
「お言葉ですが、矢野さんとトーコさんだって、学生のときかなり馬鹿やってましたよ。
 でも、そんなに羨まなくてもいいじゃないですか。トーコさんだって、矢野さんと幸せになるんでしょう。俺なんかより ――― トーコさん?」
 日崎がそう言った瞬間、傍目にもトーコの両肩に力が入ったのがわかった。
「トーコ、さん?」
 桃子が大きく息を吐く。髪をかきあげる腕に遮られて、表情は読めなかった。
「参ったな。あの男、なんっっにも! 話してないんだ?
 ――― 婚約破棄したの、二ヶ月前よ」
 日崎は唐突に思い出した。二ヶ月前……矢野が辻を泊めた頃だ。
(まさか、矢野さん)
 寝耳に水とはこのことだ。ずっと辻が苦しんでいたのは、何だったのか。それ以上に、矢野が黙っている理由がわからなかった。
(あの人は、理由もなく隠すような性格じゃない。何か目的があるはずだ。まさか、矢野さんの狙いは ――― )

「日崎君が、気を使って話題避けてんだと思ってたのに、知らなかっただけなのね。馬鹿みたい、すごく緊張したわよ」
 アルコールのせいか、微笑んだ桃子の瞳が潤んでいた。
 別れてから二ヶ月しか経っていないのに、平気な態度で強がっている桃子が、矢野のことで泣く辻の姿と重なった。日崎は、別れた理由は聞かないことにした。矢野と親しい自分と向き合うことですら、今の桃子には辛いことだと、容易に想像がついたから。
「 ――― 日頃強がってる女性が参ってると、放っておけなくて困りますよ」
 吐息して、日崎は手を伸ばした。左手で、涙を我慢している桃子の頬に触れた。優しい眼差しと、温かな手が桃子の張り詰めた心を溶かす。桃子は目を閉じて、その手に頭を預けた。
「ズルイよ……こういうときは、優しくしたらダメなんだから。強がりなままでいさせてくれなくちゃ」
 涙声でつぶやいて、自分の手を日崎の手に重ねた。日崎は無言で桃子を見ていた。流れるビートルズは、嫌でも矢野を連想させる ――― Let It Be。
「私、知ってるんだ。日崎君、冷たくみせてるだけで、本当はすごく優しいの。無愛想で怖く見えるけど、辻ちゃんのこと話すときは、よく笑うよね。
 健とは正反対。彼は、誰とでもすぐ打ち解けるけど、本性すごく冷たいから」
 自嘲気味に微笑んで、桃子は顔を上げた。

 バーを出ると、雨はまだ降り続いていた。生暖かい湿った風が頬を撫でる。
 タクシーを停めて、二人で乗り込む。日崎が宿泊するホテルは近くだったが、この風雨の中、桃子を無事に送り届けてから帰るつもりだった。
 タクシーの中でも二人は無言だったけれど、降り際、桃子が小さな声でぽつりと言った。
「健があの学校に行かなかったら、私たち上手くいっていたかもしれない」
「 ――― どういうことです」
「彼が、あんまり深く他人と関わらないの、知ってるでしょう? 日崎君ぐらいよ、ずっとつきあい続いてる友達。自分のテリトリーに土足で踏み込まれるの、大嫌いなのよ。
 でも、辻ちゃんにはバリア張ってない。健は自覚してないけど、彼の中で辻ちゃんの存在って、意識しなくていいものなんだと思う。無条件で受け入れてるの」
 ――― 少しずつお互いの気持ちがズレていくのがわかったよ。怖かったけど、もう終わりだって気付いて、私から『別れよう』って言ったのよ。
 彼、一度も『嫌だ』って言わなかった。引き止めろって、思うよね?

 涙を流さず笑って見せた桃子に敬意を評して、日崎は慰めの言葉を飲み込んだ。
「また飲みましょう」
「うん、またね」
 タクシーを降りた桃子が、マンションのエントランスに入っていくのを見届けて、日崎はその場を離れた。タクシーの座席に、深く体を沈めた。すっかり酔いは醒めてしまった。
(目的が何であれ ――― 矢野さんが黙ってる理由は、辻に関係してるんだろうな)
 窓を叩く雨の勢いが強くなる。時刻は深夜一時前。辻の声が聞きたかったが、もう寝ているだろう。日崎は手の中の携帯をしばらく握っていたが、覚悟をきめて、ボタンを押した。



 不意に携帯電話が鳴った。
 矢野健は、ちらりと時計を見た。こんな夜更けにかけてくる人物は限られている。矢野の生活パターンを知っている相手。
「もしもし」
 電話を掛けてきたのは、日崎和人だった。
『……矢野さん、トーコさんに会いましたよ』
 矢野は少し間を置いて、軽く笑った。
「バレたか」
『あのね……何で黙ってたんです。まぁ、言いにくいことですけど。もう少し早く言ってくれていれば』
「辻に知られたくなかったんだ」
 被さるような矢野の言葉に、日崎の沈黙が続く。
「……お前に知られれば、辻に伝わるだろう。だからだよ。
 俺がフリーになったと知ったら、今までみたい素直に話してくれないと思ったんだ。俺にしか話せないこともあるだろ」
『辻が、矢野さんにしか話せないことって何です』
「お前のことに決まってるだろうが。……そういえば、最近辻の様子がおかしいな。お前、浮気でもしたの?」
『だっ、誰が!』
「前も言ったけどさ、辻、泣かすなよ。お前に限ってそんなことないと思うけど、本気じゃないんなら、もう別れろ」
『矢野さん』
「……悪い、言い過ぎた。
 辻には、もうしばらくしてから、俺から話すよ。黙っててくれないか?」
『 ――― わかりました』
「じゃ、またな」
 通話を切った矢野は、小さく吐息を漏らして天井を仰いだ。どこまでも真っ直ぐな、ひとつ年下の親友は、自分の嘘も暴かれていることに気付いていない。
(辻とつきあってるって嘘、もうバレバレ。俺は電話で教えたりしないけど)
 ベッドにもぐりこみ、ライトを消す寸前、矢野は「トーコは元気だろうか」と考えた。
 そうして、すぐに忘れた。



 出張先のホテルに戻った日崎は、ベッドに腰掛けて、携帯電話を見つめていた。
『辻、泣かすなよ』
 矢野の言葉が耳に残っていた。
何故、それをあなたが言うのか。泣かせているのは誰だ。黙っていたのは誰だ。
 けれど、日崎もまた、辻にこの事実を告げるべきか迷っていた。
『辻が知ったら』
 矢野がそう口に出したとき、日崎は心臓が止まるかと思った。矢野は全て知っているに違いないと、そうまで思ったのに。
(辻が知ったら?)
 その後は目に見えている。今までの歯止めがなくなった分、すぐにも彼女は打ち明けるだろう、これまでの自分の想い全てを。
 早く教えるべきなのだろうとわかっている。矢野本人から告げられて、辻がパニックになるのは軽く予測できた。それでも、日崎は教えたくなかった。
『彼は、誰とでもすぐ打ち解けるけど、本性すごく冷たいから』
 桃子の言葉が、何度も心を揺さぶった。矢野には、確かにそういうところがある。辻がこれ以上傷つくのは見たくなかった。

( ――― 辻を、矢野さんには渡さない)
 それだけは、今、心に決めた。


03.07.04

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