Keep The Faith
第14話 ◆ 甘い罠(1)
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 きっと、あなたは知らない。
 あなたの声が、姿が、その香りが、どれだけ私の心を締め付けるか。さりげないしぐさが、何気ない会話が、どれほど私を幸福にしているか。
 近づきたくて、側にいたくて、でも気づかれぬように見つめて、息を殺して、せつなさは血脈にのって体中を駆けめぐり、理性を引きちぎろうと叫び出す。
 私の微笑みの下の、こんなにも苦しい恋情をあなたは知らないままで。
 これからも、ずっと。

 だから、この恋心を忘れよう。
 どれだけ時間がかかっても、いくら涙が流れても。
 いつまでも、留まってはいられないから。
 私を支えてくれる人が、側にいるから。
 ――― さよなら、ずっと好きだった、人。



 水曜日の朝、教室に入った途端に、北沢は遠山を始めとする友人数人に囲まれた。
「……なんだよ?」
 いぶかしげに眉を潜めるが、そこに昨日までの不機嫌さは欠片も残っていない。遠山がしゃがみこんで北沢を見上げた。
「 ――― 北沢、今朝は清々しい顔してるな」
「昨日とはえらい違い。辻ちゃんとケンカしてたんだろ? 仲直りできてよかったよな」
「テスト期間中に、あそこまで堂々といちゃつくなんて」
「恥ずかしい奴!」
『というわけで、ノート見せろ』
 男四人の声が重なり、北沢はつい声を出して笑ってしまった。
「どういう理由だよ」
 言いながらも、カバンから本日のテスト科目のノートを取り出し、机に広げた。信じられない、という表情で悪友たちはノートを見た。彼のノートは完璧だが、滅多に他人に見せないことで知られている。
 隣の机で、ノートを捲って歓声を上げる面々を尻目に、遠山がぽつりと囁く。
「……北沢、すっげー上機嫌。辻さんとやった?」
「遠山、下品。……お前は勉強しなくていいのか」
「今更したって、同じだよ」
 遠山は立ち上がると、目線で北沢を促した。北沢も席を立ち、生徒の行き交う廊下に出た。みんなが好き放題しゃべる中、時折女子の甲高い矯正が上がる。
「昨日、駅前で辻さんとキスしてた?」
「した」
 腕時計を見ながら、北沢はあっさりと答えた。
「お前、人前でそんなことするタイプじゃないのに。あいつらが言ってるの聞いて、びっくりしたよ」
「まあ、初めてだったし。周りなんかどうでもよかったから」
「……はぁ!? だってお前ら、一年のときから」
「 ――― 純愛だろ」
 そう言って、照れたように笑った北沢が、一瞬幼く見えた。高校に入ってから友人になった遠山が初めて見る、褒められた子供みたいな、幸福そうな表情。
「よかったな」
 それ以外、かける言葉が見つからなくて、遠山は彼の肩を強く叩いた。



 七月に入って、陽差しが一段と厳しくなった。学期末を迎えて、教師陣も忙しさを増していた。副担任の矢野は比較的暇な部類ではあったが、顧問をしている合唱部の大会を一ヶ月後に控え、なかなか多忙な日々を送っていた。
 しかし、いくら忙しいとはいえ、毎日のように会っていた辻と全く会わないのは、どう考えても作為的だった。
(明確に避けてんな、あいつ)
 そんな辻と、久しぶりに今朝、すれ違った。辻は北沢と一緒にいて、矢野の目をじっと見つめて少し笑った。
「おはようございます、矢野先生」
 すれ違いざまそう言って、何事もなかったのように去っていった。北沢の目に、以前のような抑えた敵意もなかった。
 あの雨の日からちょうど十日。朝の職員朝礼も聞き流し、矢野は頬杖をついて考えを巡らした。そこらの子供じゃあるまいし、逃げるから追う、なんてマネはできないし、する気もない。
(罠でも張ってみましょうか)
 新しいタバコの封を破りつつ、矢野は心の中で、企みの笑みを浮かべた。

 午後、矢野が美術室を訪ねると、幸い佐々木しかいなかった。開け放されたままの入り口から顔を出す。
「ハイ、千代ちゃん」
「あれ、ヤノッチ。珍しいね、ここに来るの」
 テスト期間中なので、部活は全て休みになっている。午後二時を過ぎた現在、校内に生徒の姿はなかった。教員もほとんど職員室にいる。
 矢野は美術室から、準備室へ繋がるドアに近づいた。
「準備室、見ても構わないかな」
「どうぞ、何か探し物?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
 二人で準備室に入る。矢野はぐるりと室内を見渡して、腕組みした。
「ちょっとお願いあるんだけど」
「ん?」
「金曜のテスト後、一時間だけこの部屋貸してくれないかな」
「……何に使うの」
「うーん、詳しくは言えないな。ついでに、千代ちゃんの名前で、辻真咲も呼び出して欲しい。俺が呼び出しても来ないから」
 佐々木の顔が険しくなった。
「ちょっと待ちなさいよ。君と辻がどういう関係か知らないけど、学校で何しようっての? しかも、ココで!? 冗談じゃない。聞かなかったことにするから」
 佐々木は早口で言い捨てると、キツく矢野を睨みつけた。矢野は無表情のまま、壁に立て掛けられた生徒の作品を目で追っていった。
「コレ、上手いね」
 突然、話題を変えられて、佐々木は一瞬反応が遅れた。矢野は、一枚の絵の前に立ってキャンパスの上部に指を這わせた。
「……ああ、県展にも出品した。今の部長の絵だよ」
「好きだな、こういう絵。今の部長、二年の東郷だっけ」
「……よく知ってるね」
 佐々木の声に警戒が含まれた。矢野の考えは読めないけれど、この会話の流れは、よくない。
「知ってるよ。女の子みたいに可愛いって有名だし ――― よく睨まれるから。
 ああ、そういえば東郷って、作品描くのに熱心な余り、よく居残りするらしいね。千代ちゃん、家まで送ったりする?」
「……まさか。男子生徒だから大丈夫でしょ」
 矢野は、ゆっくり佐々木を振り返った。にっこりと笑みを浮かべる。
「俺、いつも不思議なんだ。東郷は何で俺を睨むのか。
 ――― 千代ちゃん、理由知ってるんだろ?」
 馬鹿みたいに軽い口調も、全て計算なのだろう。からかうような口調なのに、矢野の眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。佐々木の微妙な変化も見逃さないように、瞬きもせずに見据えている。
 二人はしばらく睨みあった。先に視線を逸らしたのは、佐々木だった。
「 ――― 六日の、何時に辻を呼び出せばいいの」
 佐々木は諦めて溜息をついた。目の前にいる男が悪魔に見える。辻と矢野がただの知り合いではないと、感づいてはいたが、どうやら辻にとってよくない展開になっているらしい。
(辻、私を恨むなよ)
 佐々木は、無邪気に笑う辻を思い出して、少し心が痛かった。



 その翌日の木曜日、朝から雲に覆われた空は暗くて、風が少しずつ強さを増していた。天気予報は台風接近を知らせていて、気象情報によれば、明日が一番荒れそうだった。
 日崎和人は、予定通りに上司と二人で客先を回り、無事に出張一日目を終えようとしていた。雨が降る中、歩き回る気もせずに、宿泊するホテルから近い居酒屋で、上司と向かい合ってビールのジョッキを合わせた。
「お疲れさまー。明日もこの調子で行こうね」
 彼の上司は、神代綾という女性だ。プログラムの知識も、デザインセンスも、マーケティングにも長けていて、この景気の中、会社の利益が僅かずつでも上昇を続けているのは、彼女の手腕によるところが大きい。アルバイトだった日崎に、正社員になる気はないか、と声をかけてきたのも彼女だ。日崎にとっては、尊敬できる理想の上司だった。
 仕事の話は抜きで、二人で大いに語って飲んだ。空腹も満たされて、ほろ酔い気分になったところで、二人は顔を見合わせた。
「二軒目行く?」
 お互い日本酒好きなのは知っていたので、神代は既に飲む体勢に入っている。
「明日も客先回るんですよね? 二日酔いはまずいですよ、神代さん」
「日本酒は残るからなー」
 真剣に悩む神代に苦笑を浮かべて、日崎はさりげなく冷酒を二杯追加した。
 そのとき、
「 ――― 日崎君?」
 後ろから声を掛けられて振り返った。そこにいたのは、思いもかけない人物だった。
 座敷から出てきたばかりの、ショートヘアと勝気な瞳が印象的な女が、日崎を見つめて唖然としていた。
「すっごい久しぶり! 何でここにいるの?」
「……トーコさんこそ」
 満面の笑みで、ミュールの踵をカツンと響かせながら日崎に歩み寄る、彼女の名前は佐伯桃子という。
 日崎の大学時代の友人で ――― そして、矢野の婚約者でもあった。


03.07.02

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