Keep The Faith
第13話 ◆ ハピネス
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 お願いだから泣かないで
 どうしても涙を流すなら、僕のところにおいで
 何も聞かずに抱きしめてあげるから
 一人で耐えられない悲しみを、せめて半分僕に分けてよ



 辻は足早に廊下を歩く。矢野に見つからないように。
 雨の音に包まれて、見つめ合ったのは先週の日曜日の話。あれから辻は、矢野と顔を合わせていない。矢野は、ほとんど音楽準備室にいるので、辻の教室とは教棟も違う。辻が会いにさえいかなければ、偶然廊下ですれ違うぐらいで、まず接することもなかった。辻は選択科目で美術を取っているので、授業で会うこともない。
 辻は、矢野と二人になるのが怖かった。彼が怖いのではない、二人きりになったときの自分が怖いのだ。
(矢野さんは、もうトーコさんと結婚決まってるのに)
 だからあのとき、一瞬にしろ、矢野から抱きしめられるような気がしたのは、錯覚なのだ。
 そう考えて、辻は唇を噛んだ。
 思い出すのは、あの矢野の眼差し、自信に満ちた笑み。逞しい彼の腕が、背後から伸びてきたあの時、辻は、彼の匂いが自分にまとわるのを感じた。背中が熱くなって、何も考えられなくなった。
 諦めたはずの想いが、遠くから蘇って、辻は手を伸ばしそうになったのだ。
 ――― 抱きしめてと、言いたかった。
 今度あんな雰囲気になったら、辻は自分を止める自信がない。想いは口をついて出て、腕は彼を求めるだろう。
 矢野とは、絶対二人きりにはならない。そう、強く心に決めていた。



 六月末日の月曜日。期末考査初日の学校は、微妙な緊張感に包まれていた。
そんな中、一人の男が異様な不機嫌さで周囲を圧倒していた。
「……どしたの、北沢」
「や、なんか先週からあんな感じ。ピリピリしてて、こえーよ」
 同じ階にある三組から遊びに来た鈴木空と遠山が、一組の教室前の廊下でひそひそと言葉を交わしていた。
 話題の主は、教室後ろの壁に背中を預け、ノートを見ていた。テスト日の朝としては、珍しくもない光景だが、彼がテスト前にノートや教科書を見ていることなど、今までなかった。授業中にポイントをすべて覚えられるという特技を持つ北沢は、常に成績上位をキープしている。
「しかし、あの体格で、あの目つきでオーラ出されると怖いね。友達のオレでも、話かけるのためらうわ」
「確かに。いつも物静かだから目立たないけど、怒らせると怖そう、北沢って」
 廊下での会話は、しっかりと北沢の耳にも届いていたが、彼はあえて無視した。
 北沢は、もう四日も辻と会っていない。

 先週の木曜、いつものように部活後、辻を迎えに美術室に行くと、彼女はいなかった。
「テスト前だから、モデルもお休みだよ。何、北沢君、辻から聞いてなかったの?」
 佐々木に言われて、迷わず図書室に向かったけれど、そこにも辻はいなかった。連絡を取ろうにも、辻は携帯電話を持ち歩いていない。
 翌日、七組に赴いて辻を捕まえた。
「言い忘れてた、ゴメン」
 申し訳なさそうに謝られて、しばらく一人で帰ると宣言された。用事があるから、と言われて、深く追求も出来なかった。けれど、明らかに辻はどこか余裕が無くて、とにかく学校にいたくないように見えた。
 何かあったのだと予想はついたが、辻は話してくれない。そのことが、余計に北沢を苛立たせた。



「辻、起きて」
 優しい声が降ってくる。辻はゆっくりと瞼を持ち上げた。ぼんやりとした視界に、日崎が浮かぶ。
「余裕だな。テスト勉強しなくていいのか?」
「した方がいいんだけど……したくない」
 辻の答えに、日崎が軽く笑った。窓の外は、もう真っ暗だ。夜九時になろうとしている。辻がリビングのソファに横になったのが帰宅してすぐだから、四時間近く眠っていたことになる。辻は起き上がって、瞼をこすった。
「うたた寝して、風邪ひくなよ。俺、木曜からいないんだから」
 Tシャツとジーンズに着替えた日崎が、リビングに戻ってきた。
「出張、二日間だったよね?」
「ああ、土曜の昼には戻るよ。テスト頑張れ」
 日崎の言葉に、辻はうつむいてしまった。
「……一人になるのが淋しい?」
 日崎が囁くと、辻は、こくんと頷いた。日崎は苦笑せざるを得ない。
 ここ数日、辻は子供のように甘えてくる。テスト前で、帰宅が早い日が多かったので、時間を持て余していたのだろう。日崎が帰宅すると、待ちわびていたように出迎えてくれるのが嬉しかった。それだけに、二日間留守にするのが、少し可哀想でもあった。
 くしゃ、とその頭を撫でて、ぽんぽんと叩く。
「大丈夫だよ。何かあったら、携帯に掛けておいで。仕事中は取れないけど、後から絶対掛けなおすから。辻も、携帯持って学校行けよ。部屋に転がしてても、意味無いんだからな」
「イヤ。携帯電話って苦手」
 日崎は肩をすくめた。辻の携帯嫌いは筋金入りだ。持っているのに、持ち歩かない。いつも部屋においていて、海外にいる真琴との連絡専用のようになっている。もっとも、真琴とはパソコンでよくメールを交わしているので、電話することも少ないようだった。
「晩飯、パスタでいいか? ペスカトーレ食べたいんだけど」
「私も、食べたい!」
「了解。お皿選んで」
 キッチンに向かう日崎の背中を、辻は、じっと見ていた。
 真琴と暮らしていた中学の頃も、よく一人で夜を過ごすことはあった。一人で何日か過ごすのは、基本的に平気だ。ただ、今は一人になりたくなかった。けれど、日崎に何と言えばよいのか。
 「矢野さんとの関係が危ないから、行かないで」と? 言えるわけがない。
 そうして月曜の夜は、更けていった。



 翌日、期末考査二日目。
 紙の上を走るシャーペンの音だけが、静かに教室を満たしていた。北沢は、何度目かわからない溜息をついた。テスト用紙の解答欄は、既に埋まっている。
 顔を上げれば、副担任の矢野が、暇そうに窓の外を見ているのが目に入った。余計に気が滅入る。どうしてこのクラスの副担任が彼なのだろう。見たくもないのに。
 待ちわびていたチャイムの音で、教室全体が息を吹き返した。ざわめきが蘇る。
 北沢はカバンを手にした。本日は三教科で終了、クラスによっては四教科のところもあるので、わずかに優越感を抱えて教室を出た。そのまま帰宅しようと思ったけれど、図書室を覗いて帰ることにした。確か辻のクラスも三教科で終わりだったはずだ。
 三階の渡り廊下を歩きながら、ふと中庭を見ると、辻が歩いていた。声をかけようとしたとき、職員室に向かう矢野が辻の近くに見えた。そして、あからさまに辻が踵を返したのだ。
 上から見ていた北沢にはよくわかった。矢野が、辻に気づいて足を止めたことも、避けられたと感づいたことも。
 北沢は駆け足で階段に向かった。



 辻は黙って歩く。久しぶりに北沢が隣にいた。側にいると安心するのに、どこか心苦しくて、何も話せなかった。
 北沢は珍しく自転車ではなくて、二人で歩いて駅に向かった。駅についても、時間があったので、噴水近くのベンチに座って、ハンバーガーで空腹を満たした。電車待ちをしている同じ制服の生徒があちこちで話しをしたり、携帯をいじっていた。
「蒸暑いな。梅雨明けっていつ頃だっけ」
「七月中旬くらいかな。今、台風きてるから、よけいに蒸せるね」
 辻は目を閉じた。汗が頬を流れていった。
「 ――― 矢野さんと何かあった?」
 北沢の静かな声は、耳に心地いい。その言葉の意味がどれだけ痛くても。
「どうして?」
「避けてるから」
 会話は心の表面を滑っていく。辻は目を閉じたまま、顔を上げた。首筋を涼しい風が通り過ぎて行く。
「何もないよ」
 そうだ、何もなかった。問題は、自分の内側にある。溢れそうな心。
 思い出したとたんに、涙が滲みそうになった。今は会えない、会っては駄目だとわかっている。避けているのは自分なのに、会いたくて仕方ないのも本当だった。
「私、なんで諦められないのかな」
 心で思っていたことが、つい口をついて出た。自分のつぶやいた言葉に、辻はハッとする。北沢の鋭い目が、すぐ側で辻を凝視していた。
「お前……そんなに辛いんだったら、何で俺に話さないんだ。苦しいのなら、頼れよ」
 少し怒った声で、けれど笑って言った。そして辻は、泣きそうな顔で北沢を見た。
「……矢野さんを好きだって、知ってた?」
「とっくに。わかるよ、そのくらい」
「諦められない私を、軽蔑する?」
「しない。趣味は疑うけどな」
 北沢がそう言うと、辻は子供のように頬を膨らませた。目は涙で潤んでいても、少しは元気になったようだ。
 木陰を涼しい風が通りすぎる。高見を渡る飛行機の音が低く響いていた。

「水は低きに流れるって、知ってる?」
 北沢の声に、辻は頷きで答えた。
「物事は、落ち着くべき場所に落ち着くんだよ。
 会いたきゃ会いに行け、泣くぐらいなら告白しろよ。好きになったモンはどうしようもないんだから、できる限りやってみるしかないだろう。必ずどこかにたどり着くよ。それが望んだ形でも、望まぬ形でも。
 俺はそう思う。何で我慢するんだ、言えばいいじゃないか。それで終わったりはしないよ。少なくとも、辻が矢野さんとの関わりを持ったままでいたいと願ってる限りは」
 辻はゆるく首を振った。
「矢野さんには、言わない。
 困らせたくないし、結婚ぶちこわす気もないよ。あの人が幸せだったら、それでいい」
 柔らかく微笑んだ辻は、凛として、でもどこか悲しくて。
 北沢は為す術がないことを痛感した。
 辻を守ると、鈴子に誓った。辻が幸せであるように。
 側にいて、この腕に包んで、誰からも傷つけられないようにしてしまおうか。そうしたら、ずっと守っていけるのに。
「泣くんだったら、ここで泣け」
 北沢は腕を伸ばして、辻を引き寄せた。ぎゅっと肩を抱いて、その頭に顎を乗せるようにする。二つに結った辻の髪が、柔らかく首筋をくすぐった。
「……いつも思うんだけど、北沢は、どうしてこんなに優しいの? 私、頼ってばかりだ」
 されるがまま、北沢の胸に顔を伏せて、辻が掠れた声で言った。
「甘えていいんだよ。辻に頼ってもらえると、俺は嬉しいんだから」
「あんまり優しくされると、一人で立てなくなっちゃうよ」
 辻の声が震えているのに気付いて、北沢は辻を抱く手を緩めて、二人の間に隙間をつくった。
 見上げてくる辻は、途方にくれたような表情で、目だけが大きく潤んでいた。こんな状態ですがられて、理性を保てる自分はすごいと、北沢は思った。
「心配しなくても、支えてやる。ちゃんと」
 辻が驚いて目を見開いた。
「今でも、辻に頼ってもらえることが、俺の誇りになってるんだから。
 ――― それぐらい、辻が好きだよ」
 しばらくの沈黙の後、
「好き、なの?」
 聞き返されて、北沢は大きく頷いた。そのまま、辻の後頭部に右手を回した。少しだけ、顔を上向かせる。
「え」
 辻の声に微笑みを返して、軽く開いたその唇に、そっと唇を押し当てた。辻の手が、強く北沢のシャツを握った。北沢は少しずつ唇を移動させた。下唇を挟んで、次に上唇、左頬と鼻の頭にもキスを残す。最後は額だった。
「……北沢」
 辻がそっと目を開けた。あまりにも顔の位置が近いので、焦って距離をとるのが、北沢からすれば可愛かった。
「 ――― 嫌だった?」
 辻から手を離して、北沢は辻を見下ろした。最初のまま、二人並んで腰掛ける。辻は右手の人差し指で自分の唇に触れた。直前のキスを思い出そうとするように。
「ううん。イヤじゃなかった。私、キスは初めてだったけど」
 不思議そうに唇を押さえる辻に、北沢は笑いがこみ上げてきた。
「辻さ、本当に俺とつきあってみる?」
「……でも、私は矢野さんが好きなんだよ?」
「だから、矢野さんを忘れる為に、俺を利用しろって言ってるんだ。俺は辻が笑ってくれると嬉しい」
 辻が見上げると、そこにはいつもよりも優しい眼差しがあった。
 さっきまで抱きしめられていた腕も胸も、とても力強くて驚いた。きっと北沢は、自分の側にいるとき、男として意識されないように注意していたのだろう。だから自分は、ずっと同じ位置にいるのだと思えた。お互いを親友だと、思うことができた。
(いつの間に、北沢はこんなに大人になってしまったんだろう。私を置いて)
「本当に?」
「ああ」
 今まで恋愛感情ではなかったけれど、北沢のことは大好きだった。こんな風に異性と意識して、告白もされて……『親友』が『恋人』になるのは、きっと時間の問題だろう。辻は、そう思った。
「でも、矢野さんを忘れるの、時間かかるかもしれない」
「そんなことないよ。自分で言うのも何だけど、俺、あの人よりはイイ男だと自負してる」
 辻は吹き出してしまった。確かに、友人として見ても、北沢は最高に「イイ男」だったので。いつだったか、真琴も言っていた。北沢は、そのうち何人も女泣かすよ、と。
「じゃあ、今から、私は北沢の彼女だね」
 辻が頬を染めて言った。
「あ、でも! さっきみたいに、急にキスとかしないでね。しばらくはプラトニックがいいな」
「わかった。安心して、愛の無いセックスはしないから」
 何気ない北沢の言葉で、辻はひとつのことに気付いた。
「北沢、ちゃんと女の人とつきあったことがあるんだね。知らなかった」
「あるよ。まあ、人に言うことでもないだろ」
「……その人とは、もうつきあってないの?」
「一年以上前に、別れた。ずっと好きだったけど、もう吹っ切れた」
「私の知ってる人?」
「全然知らない人。……気になる?」
「うん!」
 辻が力強く頷いた。話を続けようとした北沢だったけれど、ふと時計を見て声を上げた。
「電車の時間過ぎたな。
 ――― もう少し一緒にいようか? 恋人ですし」
「そうですね」
 辻のはにかんだ顔を見て、北沢も笑った。

 君が笑ってくれると嬉しい。
 側に居て、その笑顔を守れたら、それだけで幸せだから。


(ハピネス/END)03.06.29

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