Keep The Faith
第9話 ◆ 片思い
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 薄氷を踏むようなものだ、と言われた。
 何に対してか、誰に対してだったか、そんなことは忘れたけれど、私の内側を見透かされたような気がした。
 感情は気配で伝わる。
 私は、自分の視線や口調や体温から、少しずつ恋愛感情が滲んだのではないかと、怖くなった。
 薄氷を踏んでいるようなものだろうか。
 私のこの恋は、気付かれたら、その瞬間に終わる。
 決して幼くはないのに……。



 霧雨の降る日曜の午後、日崎は不機嫌な顔でコーヒーを啜っていた。時計は14時近くを指している。リビングのソファに腰を落ち着け、分厚い仕事の資料を捲っているけれど、内容は全く頭に入ってこなかった。
 静けさをやぶって、インターフォンの音が響く。
 日崎が弾かれたように立ち上がり、玄関に向かうと、鍵を開けて入ってきた辻が、ぎくりと肩を強張らせた。
「……ただいま」
 イタズラを見つかった子供みたいに、恐る恐る日崎を見上げる。日崎はコーヒーカップを手にしたまま、憮然として言った。
「この不良娘」
 辻は昨夜、日崎以外の男の部屋に泊まった。
「荷物置いたらリビングへおいで。ちゃんと話をしよう」
「とりあえず、シャワー浴びて着替えてからでいい? タバコの匂いがついちゃって」
 日崎が頷くのを確認して、辻は自室に荷物を置いてから、バスルームへ向かった。
 服を脱いだとき、タバコの匂いがした。矢野の移り香……タバコと、微かな香水の匂い。さっきまですぐ側にいた矢野のことを思い出すだけで、辻の胸は締め付けられるようだった。
 シャワーを浴びながら、辻は長い一日のことを思い出していた。



 ピザを食べ終わったあと、矢野の車で近くのショップに連れて行ってもらい、下着を買った。すぐに矢野の部屋に帰って、促されるままにシャワーを借りた。寝るときの服も、矢野が用意してくれた。辻は内心、トーコの着替えを出されたらどうしようかと思ったのだが、矢野のTシャツと短パンを渡されて、密かに嬉しかった。さすがにサイズは大きかったけれど、矢野が日頃着ている服を借りられただけで、はしゃいでしまいそうになった。
 一人暮らしの矢野の部屋は1DKで、縦に長い部屋の途中を折りたたみのパーティションで仕切って、寝室と生活スペースに分けていた。辻がバスルームから出て行くと、矢野が缶ビールを飲みながらCDを選んでいるところだった。
「髪乾かせよ。風邪ひくぞ」
「乾かしましたっ。ほら、サラサラ」
 辻はそう言って矢野の隣にしゃがみこんだ。矢野が辻の髪を指で梳く。
「まだ湿ってる。俺が出てくるまでに、ちゃんと乾かしておくこと」
「……矢野さん、和人さんみたい」
「お前といると、保護者モードになるんだよッ」
 苦笑して、矢野はバスルームへ消えた。

 辻はしばらくテーブルに出されたCDを眺めていたが、知っているジャズアルバムがあったので、プレイヤーにセットした。サックスの音色が部屋に満ちる。好きな曲なのに、何となく落ち着かなくて、ラグの上に寝転んだ。
 今まで何度かこの部屋に遊びに来たことはあったけれど、それもほとんどが日崎と一緒に、だった。一人で来て、しかも泊まるなんて初めてのこと。
(信じられない……)
 矢野の部屋でシャワーを借りて、矢野の服を着て、矢野がシャワーを浴びて出てくるのを待っている自分。状況の艶っぽさに、ついていけない。
 緊張感に、風呂上りということもあって、喉が渇いた。目の前には缶ビール。持ち上げてみると、まだ半分ほど残っている。
 辻はちらりとバスルームに視線を向けた。まだ矢野は出てきそうにない。ためらわずに、ビールに口をつけた。頭の片隅で、「間接キス?」などと考えるあたり、自分でも、どうかしていると思う辻だった。
 あまり飲んだことがなかったけれど、よく冷えたビールは美味しかった。くーっと、残りのほとんどを飲み干して、辻は再び、ころんと横になった。着ている服からも、フェイスタオルからも矢野の匂いがする。なんだか幸せで、辻は髪を束ねるのも忘れて、一人で、くふふと笑った。

 頭を撫でる優しい感覚に、辻がふと目を覚ますと、矢野のベッドの中にいた。あのまま眠ってしまったらしい。ゆっくりと瞬きをして、自分の居場所をようやく認識した。
 真っ暗な部屋の中、壁際の間接照明の明かりだけが、わずかに部屋の様子を照らし出す。
 ベッドサイドに腰掛けた矢野が、辻を優しく撫でていた。咥えたタバコの真っ赤な火だけが、鮮やかだった。
「……矢野さん?」
 かすれた声で辻がつぶやくと、矢野がかすかに笑った。逆光で、その表情は辻には見えなかった。
「悪い、起こした」
 低く囁く声は、いつもの矢野からは想像もできなかった。優しくて、温かくて、どこか悲しそうで。
「眠れないの?」
 答えは沈黙だった。辻は布団から右手を出して、そっと自分を撫でる矢野の手を捕まえた。
「大丈夫。手、握ってるから、ね……?」
 夢なのか現実なのか、曖昧なまま、辻はふわっと笑うと、再び目を閉じた。深い眠りに吸い込まれて。

 だから、辻は知らなかった。
 矢野がその後、寝息を立てる辻の額にそっと口付けたことを。



 朝、目覚めてからが最悪だった。
 ローソファに寝ていた矢野に起こされ、ビールを飲んだことを叱られた。それでも、せめてものお礼に、辻は遅めの朝食を作ろうと思ったのだ。
 そのとき、矢野の携帯電話が鳴った。
「あー、日崎かな。俺、昨日の夜中まで電源切ってたから」
 意地悪く笑った矢野だったが、携帯の画面を見た途端に、その顔が真顔になった。
「もしもし……昨日? ああ、ちょっと電源切ってた。
 ――― 今日は特に何もない……わかった、じゃあ、二時に」
 辻には、簡単に相手が予想できた。
「昼過ぎに、送ってやるよ」
「……電話、トーコさんから?」
「そう。ワガママだから、あの人」
 冗談めかした矢野の口調も、全く救いにならなかった。気まずい沈黙が流れたまま、辻は矢野の部屋を後にした。

 ――― 一体、何だったのだろう、昨夜の矢野は。
 辻はきつく目を閉じて、顔から泡を洗い流した。熱い滴が肌を打つたび、矢野の香りが消えていく。髪からも、体からも。
 寝ている自分の髪を撫でていた矢野……あれは、夢だったのだろうか?
 なんだか泣きたい気分で、辻はパイル地のバスローブを羽織って、バスルームを出た。



 辻のコーヒーを煎れていた日崎は、バスルームから出てきた彼女を見て驚いた。いつものように、濡れた髪を拭きながらソファに座っているけれど、強く唇を噛んだその顔には、今にも涙が伝いそうだった。帰宅したときとあまりにも雰囲気が違う。
「……辻。矢野さんのところで、何かあったのか? 何かされた?」
 日崎が眉を潜めて問い掛けても、首を横に振るばかりだった。
「辻」
 日崎が隣に座って手を握ると、大きく息を吸い込んで言葉を紡いだ。
「結婚が決まってる人なのに、それでも側に居たいなんて、潔くないよね」
 言ううちに、その目にふわりと涙が浮かんだ。
「……もう少ししたら、矢野さんとこうやってご飯食べたり、二人だけで話したりすることもなくなるんだ、って思ったら、たまらなくなったの。泊まれって言われて、驚いたし、ダメだってわかってたけど、最初で最後だからいいやって。そう、思って。
 私ね、矢野さんとトーコさんには、本当に幸せになってほしいの。結婚するって聞いたときから、そう思ってるよ。
 でも、側にいたいのも、本音。……矢野さんの側にいたい。諦めようって思ったけど、ダメだった」
 辻にしてみれば、たまらなかったのだろう。
 せめてもの思い出にと、矢野の部屋に泊まって……それでも、目を背けられないトーコの存在、目の前で交わされる恋人同士の会話。

 日崎が辻の気持ちに気付いたのは、今年の初めだった。雪がちらちらと降る二月。
『矢野さんとトーコさん、結婚決めたらしいよ』
 何気なく告げた日崎の言葉に、辻の顔が強張った。そう、と一言だけつぶやいて、たまりかねたように顔をゆがめた辻に、日崎はただ驚いた。
『辻……矢野さんが好きだったのか? いつから?』
『 ――― 秋に、再会したときから』
 静かに泣く辻を、抱きしめてやることしかできなかった。
 その数日後、矢野から「誰が好きなんだ?」と冗談で聞かれた辻が、日崎の名を告げたのは、ささやかな抵抗だったのだろう。
 その後、矢野から真剣に「辻はお前が好きらしい」と言われた日崎は、平然と答えていた。
『俺も、辻が好きです』と。
 それは日崎の報復だった。妹同然の辻を苦しめている矢野への、せめてもの報復。
 矢野は何も悪くないと、知っているからこその、嘘だった。


(片思い/END)
03.06.16

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