Keep The Faith
第8話 ◆ モノクロームの冬(4)
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 看護婦に呼ばれて真琴が病室に戻ると、さっきまで開かなかったというドアは、すんなりと開いた。開けた途端に、二人分の、押し殺した泣き声が耳に届いた。その光景で、真琴はすべてを察した。
 しばらくすると、北沢の腕の中、突然辻の体から力が抜けた。
「……辻?」
 くったりと胸にもたれかかってくる華奢な体。その呼吸の早さに驚いて、北沢は慌てて体を起こした。病室の入り口に立ったままだった真琴が足早に近づく。
「真咲?」
 真琴がその頬を触る。すぐに額に手を移動させ、看護婦を振り返った。
「また熱が上がってる」
 看護婦は、すばやくベッドサイドにあった体温計を、辻の脇に差し込んだ。寝かされた辻の目から、涙がこぼれて頬を滑っていった。
「39度超えてますね。一度先生に相談してきます」
 看護婦が病室を出て行った。
 これ以上ここにいても、辻を興奮させるだけだ。北沢はそう思い、椅子に置いていた荷物を肩に掛け、出て行こうとした。
「……北沢」
 まだ泣いたままの、辻の声に呼び止められて足を止めた。
 見ると、横たわった辻が、じっと北沢を見上げていた。熱のせいか、悲しさのせいか、まだ潤んだままの瞳で。
「ごめんね。顔も見たくないなんて、嘘だから。八つ当たりして、ごめん。
 ――― 私、ずっと淋しかったんだ。鈴と北沢が、どんどん仲良くなって、二人で会ってるの知って……嬉しかったのに、どこかで羨んでた。私は要らなくなるんじゃないかって。鈴を北沢に取られるんじゃないかって……嫉妬してた。
 毎日、会いに来てくれてありがとう」
「気にしてない。早く元気になって」
 北沢は優しい目で見つめ返すと、辻の頭を撫でた。辻はようやく、目を閉じて、すうっと吸い込まれるように眠りに落ちた。
「早く、元気になれよ……」
 辻の熱い額に手を置いて、北沢は囁いた。

 さっき立ち去った看護婦が来て、てきぱきと点滴を繋ぎはじめた。
 北沢は真琴に促されて、病室を後にした。「コーヒーでもどう」と屋上に誘われる。
 病院の屋上には、小さな庭があった。自販機で買った缶コーヒーを片手に、芝生の中のベンチに、並んで腰を下ろした。空は雲が薄く垂れ込めていて、今にも雪が降りそうだった。真琴が茜色の封筒を差し出した。
「鈴ちゃんからのカード。見ていいわ」
「……辻宛の?」
 真琴が頷くのを見て、北沢は封筒を受け取った。中に、二つ折りのカードが入っていた。開くと、ジョン・レノンの『Happy X'mas』が流れ出した。澄み渡ったオルゴールの音色が耳に優しい。
 右側には、繊細な天使の絵。左側に、見慣れた小さな文字が並んでいた。

『To.真咲

 いつも側にいてくれてありがとう
 一緒にいられて、すごく嬉しい
 手をつないだまま、ここまできたね
 これからも一緒にいられるといいね

 笑っていてね
 光の輪の中 星の下
 何よりも誰よりも あなたが一番大切だから
 今までも これからも
 ずっとあなたが幸せでありますように
 Marry X'mas & Happy New Year!

                   From.鈴』

 何度も何度も、北沢はその文面を目で追った。
「日崎さんの家にも、鈴ちゃん宛の真咲からのカードが届いたそうよ。二人で同時に出したのね、きっと」
 オルゴールの音が止んだ。真琴が北沢を見ると、彼は閉じたカードを手にしたまま、嗚咽を漏らしていた。乾いていた涙の跡を、新しい涙が伝う。
「 ――― 北沢」
 しゃくりあげながら、片手で顔を覆う少年の肩を自分に引き寄せ、真琴はそっと抱きしめた。
「君だって、ずっと泣きたかったよね。
 辛い役目をさせて、ごめんなさいね」
 北沢はその言葉を否定したかった。
 辻に鈴子の死を告げたことが辛いんじゃない。鈴子を失ったことは、とても悲しいけれど、今流れている涙は、そんな理由ではなかった。
 全部、わかってしまったから。

 誰よりも、辻を愛した鈴子。
 夏の日、「真咲のことが好きなの?」と聞いてきて、否定すると安堵した彼女。
『鈴を北沢に取られるんじゃないかって、嫉妬した』、そう語った辻。
 かけがえの無い親友同士だった二人は、相思相愛だった。
 北沢は、時々、鈴子から向けられていた、戸惑うような視線の理由がやっとわかった。
 どうして、私と辻の間に入ってきたの ――― きっと、そういう意味。あまりにも思い当たることがありすぎて、北沢はそう確信した。
 肩を震わせる北沢の背中を、真琴は優しく撫でた。
「友人が亡くなるのは、とても辛いことね。でも、あなたたちまで壊れてしまってはダメよ」
 温かい手のひらの感覚を背中に感じながら、北沢は手の甲で涙を拭った。
「……格好悪いなぁ、泣き顔見られた」
 そう言いながらも、北沢はひどく落ち着いていく自分を感じていた。そうして知った、どれだけ自分が心細かったのか。
 また明日、辻に会いにきます、と告げて、北沢は病院を後にした。

 北沢の足は、力強く自転車を漕いだ。学校近くにある高台の公園へと向かう。急な坂道を立ち乗りで登りきると、一月の寒い風の中でも汗が吹き出てきた。
 海が見える場所まで行って、芝生に寝転んだ。何にも遮られない視界に、高い空が広がる。
 胸の奥から突き上げてくる、ワケのわからない感情に、鼻の奥がツンとしたけれど、もう涙を流すことはなかった。
 鈴子はもういない。話し合うこともできない。
 今の自分にできることは、何か。
(彼女の願いを叶えることなら、できる)
 白い空から、ひらひらと雪が舞い始めた。



 二月の終わりに、辻はようやく退院した。
 真琴が医師から話を聞いている間、辻と北沢は玄関ロビーで時間をつぶした。一ヶ月半も学校を休んだ辻だが、担任から渡されたプリントをきちんとこなし、わからないところは、毎日来てくれた北沢や、週に一度は顔を出してくれた日崎和人に教わって、思ったより学業復帰に問題は無かった。右足のギブスも取れて、包帯で補強板を巻くだけでよくなっている。松葉杖で歩けるようになって、辻は大喜びした。
 手術の跡は、大きく傷になっていたけれど、これも一年後に骨を固定しているボルトを外したあと、外科手術で綺麗にする予定だった。
 他愛も無い話で笑っている二人のもとを、三人の人間が訪れた。
「 ――― 退院おめでとう」
 オレンジと白を基調にした、大きな花束が差し出された。その花の向こうに、日崎和人と、事故の夜、病院の待合室で抱き合っていた泣いていた男女がいた。
「矢野さん……トーコさんも。わざわざありがとう!」
 辻がふわっと笑って、花束を受け取った。キレーイ、とはしゃいだ声を上げる。その笑顔と対照的に、花束を渡した女は、唇を噛んで俯いた。
「辻ちゃん、ゴメンね、ずっとお見舞い来れなくて。
 私、会うのが怖くて……あの時、私たちより前を歩く鈴ちゃんと辻ちゃんを、呼び止めていたらって、そんなことばかり考えてしまって」
 この二人が日崎和人の友人で、事故の日、あの現場で一緒だったことを、北沢は最近知った。
「……あのね、トーコさん。
 悔やんで泣いても、鈴は喜ばないと思うんだ。確かに、もう会えないのは辛いけど、楽しい記憶はたくさん残ってるし、私は、鈴とずーっと一緒にいられてよかったって、そう思う。
 そうだよね、北沢」
「ああ、そうだよ」
 頷いた北沢に、辻はほっとしたように息をついた。

 緊張の糸が切れたのか、トーコと矢野も椅子に座って、辻と話を始めた。こうやって、少しずつ日常が戻ってくるのだ。
黙って辻を見ていると、日崎がおもむろに北沢の前に立った。小脇に抱えていた、小さな紙袋を北沢の膝に置いた。
「鈴子の部屋から出てきたんだ。北沢君宛だったから」
 袋の中には、北沢が気に入ってよく使っているスポーツブランドの、タオルとソックスが綺麗にラッピングされて入っていた。そして、小さなカードがひとつ。

『北沢勝 様

 Marry X'mas!
 北沢君に会ってから、いろいろ楽しい思い出が増えました。
 来年も、辻と三人でいろんなところへ行きたいね。
 北沢君を紹介してくれた真咲に感謝してます。
 最高の男友達だよ!

                            日崎鈴子、拝』

 きっと、書きながら悩んだのだろう。文末の「最高の男友達だよ!」が、一際小さな字になっていた。
 北沢は苦笑した。告白されると察した鈴子からの、返事。彼氏にはなれなかっただろうけど、「最高の男友達」という評価は、悪くなかった。
 続いて、日崎は辻にも、手のひらに乗るほどの小さな袋を渡した。
「何?」
 見上げる辻に、
「……鈴子の、灰。辻に送ってもらえないと、アイツ悲しむから」
 低い声で、告げた。
 辻がその遺灰を、夏に遊んだ海へ放ったと、北沢は後から聞いた。



 北沢が中学三年の初夏。
 セミの声が響く中を、辻と北沢は並んで歩いていた。辻の足は、普通に歩けるぐらいに回復していた。
「辻は高校、どこに行くんだ?」
「んー……実は、まだ決めてない」
 汗が北沢の頬を滑っていった。前髪を掻き揚げた拍子に、辻の項が視界に入る。
 辻は、あの事故から髪を切っていなかった。二つに分けて、器用にねじってまとめた髪は涼しそうで、白い襟足が北沢の心拍数を上げた。以前よりも丸みを帯びた体のラインや、伸ばしかけた髪が、嫌でも辻の女を意識させる。
「何?」
「いや、髪上げてると、涼しそうでいいな」
 見上げてくる瞳は、相変わらず大きく、くっきりしていて、最近特に可愛くなった。以前は少年のような雰囲気をまとっていたのに、華奢な体は女らしくて、守りたいと思わせる。
 知らないうちに北沢の身長は伸びていて、既に辻を見下ろして話すのが普通になっていた。
「学校行っても、皆すーごく気を使ってるの、わかるんだ。部活の後輩とかも、可哀想ーッ、て目で見てくるし、同じクラスの子たちも、事故のことに触れないようにしてるし。地元の高校進学したら、ウチの学校の子、多いんだ。イヤだなー、とか思って。
 ママは、シアトルに戻る? って言ってるけど」
 溜息をつく辻に、北沢はひとつの提案をした。
「俺と同じ高校行かないか?
 県外になるから、辻のこと知ってるヤツも少ない。辻の家から、駅ふたつ分しか離れてないし、学力レベルもまあまあ高いよ。
 おまけに、休日以外でも俺に会える。どう?」
 辻は、冗談みたいに明るく笑っていたけれど、実際翌年には、二人そろって同じ高校の門を潜っていた。その頃、真琴が仕事の関係で渡米した。辻家では、親子で何度も話し合いをした後、別居を選んだ。まだ15歳だった辻は、日崎和人と同居する形で、日本に残ることになった。

 そして、高校三年になった今日も、北沢は部活後、図書室に向かう。
「辻、帰ろう」
 長い黒髪を翻し、誰もが振り返るほど美しくなった辻の隣を歩く。



 北沢は、鈴子の心を知ったあのとき、彼女の願いを叶えようと、心に決めた。

『辻が幸せであるように』

 何があっても辻を裏切らない。
 一番の理解者でいられるように努力する。
 どんなことがあっても、味方でいる。
 側に居て、何があっても守る。

 そうして今までずっと、北沢は辻の側にいた。自他ともに認める親友になった。
 ――― 辻が笑っていられますように。
 いつの間にか、鈴子の願いを叶える為ではなく、ただ辻の幸福を願っていることを、彼は自覚していない。
 その深く慈しむような愛情を、恋愛感情と呼ぶことにも、彼はまだ、気付いていなかった。


(モノクロームの冬/END)
03.06.14

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