Keep The Faith
第7話 ◆ モノクロームの冬(3)
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 病院までの道程、北沢はただ窓の外を見ていた。途中、いつも三人で集まった図書館の脇を過ぎる。景色はいつもと変わらない。夜になったばかりの街なみを行く人たちは、急いでいたり、楽しそうだったり。
 自分は何の為にそこへ向かうのだろう―――現実は冷たく、自分を待ち受けているというのに。

 病院の玄関付近には、たくさんの報道陣がいた。北沢たちは、裏口へ車を停め、受付へ向かった。人影の少ない廊下に、靴音が反響する。次第に北沢の足は重くなっていった。
 受付まで行かなくても、鈴子と辻の居場所はわかった。廊下の途中、角を曲がったその奥から、悲しみの気配が空気を染めていたから。北沢は父親の後ろを歩きながら、廊下を進んだ。誰かが泣いている声が重なって聞こえた。怖くて、足がすくんだ。
 角を二つ曲がると、長い待合室があった。何人かの人間が、じっと何かを待っていた。
 彼らの正面には、二つの手術室があった。
 窓際で、静かに泣く女を、ただ抱きしめている男が目に入った。その二人をどこかで見た気がしたけれど、北沢は思い出せなかった。女を抱く男の、眼鏡の奥の瞳も、悲しみで揺れていた。
 待合室の一番奥の長椅子に、鈴子の兄が座っていた。
 目をきつく閉じて、壁にもたれかかっている。北沢は父親を追い越して、彼の前に立った。
「日崎、さん」
 掠れた小さな声で名前を呼ぶと、彼はゆっくりと瞼を持ち上げた。驚くほど無表情だった。
「……ニュースで見て、僕」
 それ以上は言葉にならなかった。
 一体何があったのか、鈴子は本当に……もう死んでしまったのか。
「鈴子は、さっき息を引き取った。辻は……この中にいる」
 そう言って、彼は視線を手術室の更に奥へ向けた。プレートには「脳神経外科検査室」とあった。
 北沢は、たまらず長い息を吐いて、崩れるように日崎の隣に腰を下ろした。父親が、廊下で誰かと話をしているのが見えた。事情を聞いているのかもしれない。
 沈黙だけが重くのしかかってきた。
 そんな中、カツカツという高い音が廊下に響いた。北沢が、ヒールが床を蹴る音だと気付いたのと、真っ青な顔色の辻真琴が待合室に駆け込んできたのが同時だった。
「和人君……真咲は? 何があったの!?」
 北沢は、今更ながら、そこに真琴の姿が無かったことに気がついた。
「真琴さん」
 日崎が立ち上がって彼女を迎えた。震えている彼女の腕を取り、自分が今まで座っていた場所に座らせ、その前にしゃがみこんだ。北沢はただ黙って、真琴と日崎を見ていた。
「辻は、今、検査中です。
 右足の膝から下で骨折が三箇所。肋骨も、右側二本にひびが入っています。かなり強く頭を打っていて、一度意識は戻ったんですが、すぐに意識不明になりました……脳内出血の可能性があるので、今、CTスキャンとMRI検査をしています。
 少し待っていて下さい。すぐに医師から説明がありますから」
 じっと日崎を見つめていた真琴の目から、ボロボロと涙がこぼれた。
「何があったの? どうして、あの子たちがそんな目に」
 そこまでつぶやいて、真琴は目を見開いた。
「 ――― 和人君、鈴ちゃんは、どうなったの。
 あなた、電話で手術中って……ユミさんは、どうしてここに居ないの……?」
 日崎は唇を強くかんでうつむいた。
「……母も……父も、下にいます。鈴子の側で、ずっと泣いてる」
 日崎の口から、低くうめき声が聞こえた。すべてを悟って、真琴は声を失った。日崎の手を握って、ただ強く、握り締めて。

 北沢は居たたまれなくなって、そっと席を立った。
 廊下で佇む父親の傍らまで戻り、ただ涙を流す二人を見ていた。
「……歩行者用の通路に、車が突っ込んだらしい」
 父親が小さな声で話し始めた。
「さっきの人、誰?」
「……警察だ。
 車の中に子供だけ残して、買い物に行った人がいたんだよ。寒いから、エンジンはかけっ放しにしてな。その子供が、好奇心で、見よう見真似で車を動かしたんだ。車は立体駐車所から伸びる坂道を、壁にぶつかりながら下って、歩道を歩く人たちをはねて、他の車に当たって、止まった。
 車に乗ってた子供も、重体でここに運び込まれてる」
 子供のイタズラ……あまりにも、やりきれない理由だった。北沢は黙ったまま、きつく目を閉じて座り込んだ。事実なのだ、なにもかも。けれど、現実味がない。鈴子も辻も、明日になれば、いつものように二人で笑いかけてくるのではないかと、そんなことを考えてしまう。
 明日の午後、鈴子と会うのだと。
「北沢君」
 日崎の声で名前を呼ばれて、北沢は慌てた。しゃがみこんで目線を同じにした日崎が囁く。
「僕は鈴子のところに行ってくる。警察にも、まだ話をしないといけないし。
 申し訳ないけれど、真琴さんの側に付いててあげて欲しいんだ」
 北沢は強く頷いた。日崎はそのまま、窓際で抱き合う男女の元へ歩いていく。そこでも、小さな声で何かを話していた。あまりにも周囲が静かなので、その声も、北沢の耳に届いた。
「矢野さん、トーコさんを連れて、一度帰った方がいいですよ。トーコさんも、そんなに泣かないで。事故だったんですから」
「辻の検査結果はまだなのか?」
 眼鏡の男が低い声で言った。
「まだです。結果が出たら、連絡しますから」
「わかった。
 ……日崎、無理するなよ。お前の親が、ショックで放心状態なのは、よくわかる。でも、ちゃんとお前も休め。眠れなくても、横になれ」
「わかりました」
 日崎の言葉が嘘だというのは、離れて見ていた北沢でもわかった。三人が揃って廊下を遠ざかるのを見送って、北沢は真琴の隣に座った。
 祈るように手を組んで、そこに額を押し付けている真琴。
「真琴さん」
「……北沢。来て、くれたの」
「……何も、できないけど」
 真琴は一瞬、その顔を歪めた。
「隣にいてくれるだけで、いいのよ。
 ――― 生きていてくれるだけで……いいの」
 北沢は、日崎の真似をして、真琴の手を握った。握り返したきた真琴の手は、やはりずっと震えていた。



 モノクロの風景は、冬の凍てついた大気に似合いすぎて、哀しいほど寂しさを誘う。
 事故の翌々日、クリスマスの日―――鈴子の葬儀の場で、北沢が辻に会うことはなかった。
 検査の結果、辻の脳に異常は見られず、彼女は右足骨折の手術を施され、二日経った今も、痛み止めと熱で意識ははっきりしていない。
 鈴子が死んだことは、彼女にはまだ知らされていなかった。

 北沢は、焼香を済ますと、逃げるようにその場を去った。昨夜、通夜で見た鈴子の死に顔は、あどけないまま、愛らしいままで、余計に北沢の胸をしめつけた。鈴子の両親が、涙の止まらない表情のまま、「この子と仲良くしてくれてありがとう」と深く礼を述べてきた。
「鈴子のことを、忘れないでやって」と。
(忘れるわけがない……!)
 歩きながら、黒いネクタイを解いた。タクシーで自宅に帰り、着替えてすぐに、自転車で病院へ向かった。
 辻はまだ、集中治療室に入っていた。真琴に会った瞬間、眉をひそめられた。
「北沢……今日は真咲に会わないで」
「まだ意識は、はっきりしないんですか?」
「意識はもう、はっきりしてるの。熱が高くて、ほとんど眠ったままだけれど。
 君……線香の香りがするわ。鈴ちゃんが死んだって、あの子が気付いてしまう」
 着替えてきたけれど、髪や肌に匂いがついてしまったのだろう。シャワーも浴びてくるべきだったな、と北沢は思った。
「……真琴さん、いつまで秘密にするつもりなんですか」
 北沢の問いに、真琴は答えなかった。

 事故から四日目、北沢は久しぶりに、辻と話すことができた。
 一般病棟に移された辻は、やはり動くことはできなかったけれど、ベッドの傾斜を変えることで、上半身を起こすことはできた。北沢の顔を見て、嬉しそうに笑った。
 辻の右足の踵には、孔が開けられ、そこからつながった紐の先には鉄の重りが下げられていた。牽引といって、骨を引っ張るのだという。辻を見舞うたび、その踵に巻かれた包帯に鮮血が染みていて、痛々しかった。
「……まだ痛むのか?」
「そりゃ痛いよ。もう熱はだいぶ下がったから、体は軽くなったけどね」
「災難だったな」
 他愛もない会話で毎日を過ごした。
 辻は、事故のショックで、事故前の三日間の記憶を無くしていた。
 『鈴子は、別の病院で治療中で、まだ動けない為会えない』ということになっていた。
 心に重い鉛を抱いたような気分で、それでも北沢は毎日辻に会いに行った。
辻の体は、動かせる状態ではなかったので、年末年始も病院に入ったままだった。北沢は、大晦日も元旦も辻と過ごした。祖母も両親も、そんな北沢を見ても何も言わなかった。もちろん、真琴も。
 異変は正月三が日を過ぎて、起こった。
 北沢がいつものように病室に行くと、明らかに辻の様子がおかしかった。辻は、真琴が用事で席をはずすのを待っていたように、北沢に話がある、と言い出した。
「どうかしたのか?」
 北沢の頭に浮かんだのは、鈴子の件だった。
 何らかの形で、辻は真実を知ってしまったのではないか、と。
「……私の足、元通りにはならないって、北沢、知ってた?」
 まっすぐ天井を見つめたまま、辻は言った。瞬きもせず、人形のように無表情なまま。
 辻の右足。骨折なのだ。歩けるようになるのは、当然だと思えた。北沢は、彼女の足が不自由になるとは、聞いていなかった。
「ちゃんと、歩けるようになるよ。ギブス除けたら、筋力落ちてるから、リハビリは必要だけど」
「先生も言ってた。歩けるし、走ることもできるでしょうって。
 ただ、陸上で、いままでのような記録を出すのは、もう無理なんだって。私、踏み切りが右足だから……もう高跳びは、できないってことよね」
「 ――― リハビリしても、元通りにはならないのか?」
「一年くらいは、今のまま、骨をボトルで固定しなきゃいけないらしいよ。必要以上の負荷は、かけてはいけないって」
 六月で、三年は部活引退だった。高跳びで県大会出場経験の多い辻にとっては、五月末からの総体が、中学最後の大会だったのだ。
「……辻」
「わかってるよ。あんな事故で、これぐらいの怪我で済んだんだから、贅沢言っちゃいけないよね。亡くなった人もいるって聞いたし、私より小さい子供も入院してるって知ってる。足切断したわけじゃないし、リハビリ次第でどうにかなるのかもしれない。
 ……でも、ツライ。全部無くしたみたい。
 変なの、和人さんも、一回顔出してくれただけ。矢野さんたちも来てくれないし」
 辻の目に涙が溢れて、そのまま流れた。
「あのね、元旦に、鈴からのカードが届いたの。メリークリスマス&ハッピーニューイヤー……って」
 ぎくり、と北沢の肩が揺れた。
事故の前に投函していたのだと、すぐにわかったけれど、それでも、一瞬止まった呼吸……強張った頬。
 辻の視線が、北沢の目を射る。
「北沢、正直に答えて。
 ――― 鈴は、もういないんでしょう?」
 覚悟を決めて。
「ああ、いない」
 北沢は答えた。

 見る間に辻の表情が歪む。
「……ッ」
 かみ締めた唇から漏れるうめきは、すぐに泣き声になった。
「なんで教えてくれなかったの……!
なんでよ、北沢ッ!!」
 北沢の腕を強くつかんで、辻は揺さぶった。直後、「痛っ」と叫んで手を離す。北沢も、彼女が肋骨を痛めていたのだと思い出した。
「辻、じっとして。暴れたらダメだ」
 それでも辻は、おさまらなかった。手元にあったMDウォークマンを北沢に投げる。無理に起き上がったせいで、固定されていた足の位置がずれた。胸の痛みと両方で、辻は大きく息をつきながら、それでも言葉を止めなかった。
「鈴だけだったの! あの子だけいれば……よかった。なのに!
 もう、来ないで、顔も見たくないよッ。北沢といたら、鈴のことばっかり思い出すもの……!」
 涙を流しながら、北沢を殺しそうな勢いで睨みつける。手当たり次第に物を投げて、痛みすら忘れたように喚いた。
 廊下をかけてくる看護婦の足音に気付いて、北沢は後ろ手にドアを押さえた。開けなさい、という声が聞こえたけれど、無視した。
 叫びたいだけ叫んだ辻は、北沢を睨んだまま嗚咽を漏らしていた。北沢は目を細めて、辻を見返す。
「俺も、辛い」
 小さく、一言だけつぶやくと、辻が顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
 北沢はドアから離れて、ベッドの側に跪いた。両手を伸ばして、顔を覆っていた辻の手をとり、自分の頬に押し付けた。
「鈴子はいなくなったけど、俺たちは生きていかなきゃいけないんだ」
 そう言葉にした瞬間、北沢の目からも、涙が溢れた。次から次へと。
 二人は、手をつないで、子供みたいに泣きじゃくりながら、お互いの肩に顔を埋めた。

 耐えられない喪失感を抱いて、生きていく。
 悲しみをみんなで共有して、愛した人を忘れぬように。
 窓の外、冬の空は高く遠く白く、冴えた空気はどこまでも冷ややかで、地上の悲しみや喜びを内包したまま、ごうごうと流れていった。


03.06.11

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