Keep The Faith
第2話 ◆ 春宵(2)
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 矢野は約束どおり、日崎の家で夕食をご馳走になった。時計の針は零時を少し回っていたが、男二人はほろ酔いのまま、日本酒をゆっくりと飲んでいた。
「ラヴェル?」
 流れていたピアノの曲調が変わったのに気付いて、矢野が問うと、日崎が頷いた。
「最近好きなんです」
 音楽大学の同期で、なおかつ専攻がピアノだったこともあって、二人でいるときはついクラシックばかり聞いてしまう。
「辻はもう寝たかな」
「多分」
 ちらりと隣の部屋に視線を向けて、日崎は小さなグラスを空けた。軽く後片付けをした後、辻は「先に寝る」と言って自室に入った。平日の夜、眠るにはちょうどいい時刻だった。
 手酌で日本酒を注ぎつつ、矢野は上目遣いで日崎を見た。すぐに日崎は視線に気付いた。
「何です?」
「……前から訊きたかったんだけど」
 矢野は少し黙ったあとで、声をひそめた。
「お前、もう辻としたの?」
「何言い出すんですかッ」
 つられて日崎までささやき声で会話してしまう。
「そんなにうろたえることないだろ。好きな女と一緒に暮らしてるのに、抱かない方が不自然だ。あんなに懐かれてんのに、まだ手ぇ出してないの?」
「……出してないですよ。そういう目で辻を見ないで下さい」
「お前の愛情表現って、歪んでるのな。いつまで妹扱いする気だよ」
 日崎には返す言葉が無い。言えることと、言えないことがある。それは、矢野に対しても。

「……歪みはひとつじゃないですから」

 日崎の小さな声に、矢野は首を傾げた。心地よく回ったアルコールのせいか、思考がまとまらない。
「いいんじゃないの、思ったようにすれば」
 所詮、恋愛なんて当事者二人の問題だ。矢野が口を出すことではない、が。
「でも、アイツは鈴ちゃんじゃないぞ」
「わかってます。代わりだなんて、思ってませんよ」
(……今は)
 口に出せない言葉はたくさんある。
 少し暑くなって、矢野は窓を開けた。冷たい夜風が肌を撫でるのが心地いい。
 振り返ると、日崎は辻の部屋を見ていた。その心中は、矢野にはわからなかった。



 翌朝、辻が起きていくと、リビングのソファでは毛布にくるまった矢野が眠っていた。バスルームからかすかに水音がするのは、日崎が使っているからだろう。
 辻は矢野の側に座って、しばらく寝顔を見ていた。少しだけヒゲが伸びている。寝癖でサイドの髪も跳ねている。軽く開いた唇から、すぅすぅと寝息が聞こえて、子供のように無防備だった。
 起きる気配が無いので、辻は、そっとその頬に触れてみた。
「……ん、トーコ……何時?」
 恋人の名前を呼んで、目も開けずに寝返りを打つ矢野。辻の眉間にゆっくりと縦皺が寄る。その手が、おもむろに矢野の鼻をつまんだ。
「ンッ!?」
 慌てて矢野が飛び起きる。辻は矢野が口を開く前に立ち上がった。
「さっさとシャワー浴びて、ひげ剃って!
 昨日と同じスーツで学校行く気ですか、先生」
 睨まれた矢野は呆然とその後姿を見送った。瞬きしながら時計を見ると、今更自宅に帰って着替えるヒマはなさそうだった。

 起き上がってバスルームに向うと、洗面所で椅子に座った辻の髪を、上半身裸のままの日崎が梳いていた。
 あまりにも甘い光景に、矢野は朝から虚脱感に襲われる。
「お前らね……もうちょっと俺に気ぃ使えよ」
「何を今更」
 辻が冷たい声で言い放った。会話を無視して、日崎がその肩を叩く。
「はい、オッケー。着替えておいで、朝食作っておくから」
「ありがとッ」
 辻は綺麗に梳かれた髪をなびかせて、矢野の傍らをすり抜けていった。
「あいつ、外見は女らしくなっても、中身はガキのまんまだな」
 矢野はバスルームに入りつつ溜息をついた。大学のピアノ室に遊びにきていた子供は、もう少女ではない。……そして、自分も。
「日崎、悪い。服貸して」
「いいですよ」
 キッチンから香ってくるコーヒーの匂いに食欲を刺激される。口では「気を使え」なんて言ってしまう矢野だが、この家の雰囲気は好きだった。ただ、日崎と辻の関係には疑問符が残る。二人とも「つきあってる」と言うけれど、矢野にはそう見えなかった。
(なんか隠してるよな、絶対)
 熱いシャワーで眠気を覚ますと、ますます強くそう思った。



 矢野は時々、自分が透明人間にでもなった気がする。
 生徒たちは、歩きながら話しているとき、近くにいる教師の存在など忘れているのか、結構キワドイ会話をしていたりするのだ。
 駐車場から職員室に向かう途中で、何人かの生徒が「おはようございまーす」と挨拶しながら矢野を追い抜いていった。
「さっき見たー? 辻さん」
「見た! 公園のとこで車から降りてたよねー。黒のインプレッサ」
「運転してたの、お兄さんかなぁ。彼氏だったりして」
「北沢に聞いてみる?」
「それって悪趣味!」
 聞こえてきた会話に、矢野は表情には出さなかったが、腹が立った。
 家を出るとき、「言い訳できないから」と、矢野が送るという申し出を拒否しておいて――もちろん矢野だって冗談で言ったのだが――結局、日崎に送ってもらって噂されている。そんなことを噂している生徒の低俗さにもムカついた。
(まぁなー、この年代に恋愛すんなって方が無理だけどさ)
 矢野が職員室に入ると、ひとつ年下の英語教師が待ち構えていた。淡いイエローのスーツに、花柄のシフォンスカーフ。スカートの丈が短いせいか、彼女が受け持つ男子生徒の英語成績は上がる傾向にあるらしい。顔が童顔なので余計だろう。
「おはようございます、矢野先生」
 二月、バレンタインチョコと一緒にマフラーを貰って、彼女の好意に気付いた矢野だが、三月の慌しさに紛れて明確に返事をしていなかった。
「大野先生、今朝も早いですね」
 矢野はにこりと笑っておいて、腕時計を見るようにさりげなく左手を目線まで上げた。
 その薬指に、細く銀色に輝くものがあった。
「……先生、指輪……」
「ああ、外し忘れてた。
 仕事中は、着けないようにしてるんです、生徒にからかわれますしね」
 苦笑しながら、カバンのサイドポケットに指輪を滑り込ませる。途方にくれて弱い笑顔を浮かべる彼女の肩をポンとたたいて、「職員朝礼始まりますよ」と告げ、矢野は自分のデスクに向った。基本的に音楽準備室に常駐している矢野だが、職員室にも机はある。
 眼鏡を外して、ふーっ、と息を吐く。
 我ながら、ひどい振り方をする、と思った。


 
 放課後、北沢のクラスに辻が顔を出した。目線だけで北沢を呼び出し、廊下でわずかに言葉を交わすと、去っていった。机に戻った北沢の後ろから、遠山が顔を出す。
「……浮気発覚?」
「何バカ言ってんだ」
 何故か嬉しそうな遠山の額を指で弾いて、北沢は鞄と大きなボストンバッグを肩にかつぎあげた。遠山は額を抑えてしゃがみこんだ。
「なんだよ、朝の男は気にならないのか? 彼女、弁解に来たんだろ」
「……今朝、辻を送ってきた人なら、俺も知ってる。さっき来たのは、今日の部活の打ち合わせ。新入生の見学多そうだから、手伝い頼んだんだ」
「何かすんの?」
「着物でお茶点てるんだよ。辻、和装似合いそうだろ?」
「マジで!? お前、宣伝薄すぎ、写真部とかソレ知ってんのか」
「なんで? そうたいしたもんじゃないよ、俺と辻が着物で茶を点てるだけだし」
「俺は辻さんの着物姿見たい! 普段でも時代劇の姫みたく凛としてんのに、着物なんてハマり過ぎじゃん」
「……コスプレじゃないんだが」
 絶対見に行く! と力説する遠山を見て、北沢は少し不安になった。人選を誤ったかもしれない。
(かと言って、他に自分で着付けできるヤツなんか知らないしな)
 なるようになるだろう、と楽観して、北沢は茶道室に向かった。それよりも、さっき廊下で辻がぽつりと口にした言葉の方が気になった。

『北沢は、会いたい人にやっと会える、その時になって、躊躇することってある?』
『ん? 小説か何かの話?』
『……そう』
『あるよ』
 そう答えると、辻はホッとしたように息をはいて、はにかんだ。
『会うは別れの始めなり、って言うだろ』
 北沢が何気なくいうと、辻は「そっか」と一人で納得して、じゃあ後でね、と言い残して去っていった。

 いつもいつも、朝、その笑顔を見るたびに思う。
 今日も会えた。
 そして、また夕刻が近くなると、切なくなる。
 いつも側にいられたらいいのに。

 そんな北沢の気持ちを、誰も知らない。


(春宵/END)
  03.05.02

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