Keep The Faith
第1話 ◆ 春宵(1)
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 会いたいと願う気持ちは日増しに強くなるのに、
 いざ会える日がくると、怖くなるのは、なぜでしょう。
 わたしたちに、「いつか」は無いのに。



 桜は散り際が一番綺麗だ。
 桜の根元で横になって、その大きく広がった枝を見上げながら、辻真咲は吐息した。頬を撫でる風が冷たくなってきた。太陽はとっくに水平線に沈んで、空は橙から藍色へと少しずつ色を変えていた。
 高台にある公園は、隠れた桜の名所として地元では知られているが、春休みも最終日の夕刻に、盛りを過ぎて散るばかりの桜を見に来る人間は少なかった。際限なく降る白い花弁が、辻の上に降り注ぐ。
彼女は目を閉じて深呼吸した。このまま埋もれてしまえたらいいのに。

 しばらくすると、かさり、と耳元で音がした。
 辻が目を開けると、ぼやけた視界に、しゃがみこんで自分を覗き込む親しい顔を見つけた。
 日崎和人、辻の同居人だ。口を開く前に、日崎が手を伸ばしてくる。
「こんなトコで寝るなよ、危ない。桜まみれじゃないか」
 長い指が辻の唇や頬に触れて、くっついていた桜の花びらを剥がした。そのまま両手で頬を包まれる。温かさが心地よくて、辻は再び目を閉じた。
「冷え切ってる。もう帰ろう、なんか、あったかいモノ作ってやるから」
 優しい声に、辻は頷いて上半身を起こした。背中の半ばまである髪に、芝生と桜が絡まっているのが、我ながら子供のようだった。
「和人さん、どうして私がここにいるってわかったの?」
 立ち上がりながら問うと、日崎は答えずに笑って、辻の手を取って歩き出した。歩きながら、さり気なく辻の髪や背中についた枯葉や桜を除く。
「……黙って出てきたから、怒ってるの?」
 沈黙に耐えられずに辻がつぶやくと、違うよ、と軽い返事が返ってきた。
「桜が咲いてから、お前毎日夕方、ここに来てるだろ? ただ、あんまり帰りが遅いから、迎えに来ただけ。
 明日から学校も始まるのに、何をそんなに悩んでるんだ? 楽しみにしてたじゃないか、会えるの」
 主語を避けた会話は、余計に辻を落ち込ませた。
「昨日までは、すごく楽しみだったよ。早く会いたくて。
 でも、明日確実に会えるんだって思ったら、どうでもよくなったの……会えないときは、すっごく会いたいのに、いざ会えるとなったら、会いたくなくなることって、ない?」
「天邪鬼なだけだろ?」
「そうかも」
 二人は手をつないだまま、坂道を下った。歩いて十分ほどの、二人の家への帰路は、気持ちのいい春の宵闇に少しずつ包まれていった。



「辻! 久しぶり」
 始業式が終わった途端に、体育館出口で辻に声を掛けてきたのは、中学からの友人である北沢勝だった。190センチ近い長身は人ごみの中でも目立った。
「おはよう、北沢。もうクラス分けは見た?」
「いや、まだ。でも、辻と同じクラスにはなれないからな、進路違うし」
「そうだね、残念」
 ふわっと辻が笑うだけで、北沢は幸せな気分になった。辻は人見知りが激しいけれど、親しい人間の前では驚くほど表情豊かだ。偶然それを見た級友たちが騒然となるくらいに。
 人波に逆らわず、二人はそのまま体育館横の掲示板に移動した。高校三年になるまでに、ある程度進路別にクラス編成が組まれる為、クラス分けを見ても二年からの繰り上げに近いメンバーだった。
「北沢は一組か。私は七組だから、教棟も違うね。あんまり会えないだろうな」
 辻が小さく溜息をつくのをみて、北沢は慌てた。
 そういう発言をするから―――。
「いいじゃん、会えなくても。いままで通り放課後待ち合わせれば」
「そうそう、今年の夏には北沢も茶道部引退だしー、そしたらいくらでも時間は出来るよ? 心配しないでいいよ、辻さん」
 北沢の後ろから突如現れたのは、昨年も北沢と同じクラスだった鈴木空と、遠山隆之だ。辻と北沢はかなり仲のよい友人だが、周囲からは付き合っていると公認されている。そして、二人ともあえて誤解を解こうともしなかった。
「お前らね……まあいいや、今年もヨロシクな。三年連続同じクラスで嬉しいよ」
 諦め気味の北沢の挨拶に、鈴木空が反応した。
「違うよ、今年はあたし三組なの。進路変更したからね。でも、北沢とは友達付き合い続けたいんで、よろしく!」
 改めて掲示板を見上げれば、確かに『鈴木空』は三組だった。
「遠山はやっぱり一組か」
 何気なく北沢がつぶやくと、
「……文句あんの?」
 と、遠山本人が不快そうな声を上げた。
「ないよ。あ、担任発表あったよな。一組の担任誰?」
「担任は榊。副担任は、矢野」
 遠山が掲示板を見上げて読み上げると、辻と北沢が揃って反応した。
「ん? 辻さん、ヤノッチ嫌い?」
 鈴木空が首をかしげると、辻は珍しく慌てて首を振った。
「そんなことないよッ。
 ただ、矢野先生って、産休代理でしょう? 副担任するって思ってなかったから」
「ああ、産休に入ってる近藤先生、教師辞めるらしいよ。春休み中に生まれたの、三つ子なの。だから、ヤノッチ正式採用になったんじゃないかな」
「……よく知ってるな、空」
 北沢の声は何故か暗い。
「幽霊部員だけど合唱部だもん。元顧問が出産したんで、お祝い行ってきました!
 本人情報だから、間違いないよ。合唱部の顧問も、ヤノッチになるんだって。今までは臨時顧問だったけど」
 まだ公になっていない情報を握っているためか、そう語る顔はかなり嬉しそうだった。女は噂話が好きだね、と遠山と北沢はアイコンタクトを交わしたが、辻はそのとき違う相手とアイコンタクトを交わしていた。

 通路を横切る職員たちの中に、その相手はいた。
 噂の主である音楽教諭は、眼鏡越しに辻に視線を向け、一瞬だけ微笑んだ。辻も矢野も、すぐに視線を逸らしたので、北沢以外に気付いた人間はいなかっただろうが。
「教室に帰ろうか。HRはじまっちゃう」
 辻のさりげない一言で、その場は解散になった。
 北沢はいつものように辻と図書室で待ち合わせることを約束して別れたけれど、さっきの光景が目に焼きついていた。



 四階の廊下に立つと、夕焼けが綺麗だった。
 始業式当日からグラウンドを走り回る運動部員たちは、まるで一枚の写真のようにその景色に溶け込んでいて、辻はしばらく立ち止まってそれ見ていた。どこか遠くからざわめきも聞こえる。部活見学の新入生だろうか。
 そうして佇んでいると、背後からピアノの音が流れてきた。
 ビートルズの「I Want To Hold Your Hand」。
 辻はゆっくりと音楽室の扉を開ける。
「……矢野さん、本当にビートルズ好きだね」
 合唱部の部活はとっくに終わっていて、音楽室にはひとり矢野だけがいた。ピアノを弾きながら、辻を見て優しく笑った。
「リクエストある?」
「……I Need You」
 辻はピアノの側の椅子に腰掛けて、目を閉じた。空間に音が溢れる。
 ピアノの音が心に染み込んでゆく。耳に残る、澄んだ余韻。

 矢野が曲を弾き終わると、辻はパチパチと拍手をした。屈託のない笑顔は、まるで子供だ。
「矢野さんのアレンジって好き」
「おだてても何も出ねーよ。で、今日は、何の用だ?」

 矢野健―――縁なしの眼鏡が似合う、音楽教師である。女子生徒から「並」の評価を与えられているこの教師が、実はとてもいい男であることを、辻は知っている。女の扱いが上手いことも知っている。秋に結婚することだって知っているのだ。
「和人さんが、晩御飯一緒に食べようって。今日の夜、空いてる?」
「……空いてる。店は決めてるのか?」
「外じゃなくて、ウチで。今日、カニ届くの。もうシーズンも終わりだから、みんなでカニ鍋しようよ」
「了解。七時頃に行くよ」
「はい、お待ちしてます。じゃあね」
 辻が立ち上がった拍子に、長い髪がさらさらと肩を滑って胸の方へ流れた。ふとうつむいた視線と相まって、夕暮れの教室に憂いのある雰囲気が漂う。
 一瞬表情を失った辻は、矢野から見ても、魅惑的だった。
「……お前、髪伸びたな」
「うん……あれから、切ってないから、ね」
 辻はかすかに笑うと、ひらひらと手を振りながら教室を出て行った。
 矢野は、しばらく辻が消えた廊下を見ていた。

 ――――『矢野ちゃーん!』
 元気いっぱいに駆け寄ってきた少女。その隣に居たのは。

 止めよう。過去を振り払うように矢野は強く目を閉じた。
 十七時を告げるチャイムが校舎に響いた。予定より早かったけれど、矢野は片付けを始めた。辻の少し寂しそうな笑顔が、脳裏から消えない。
「……いつになったら、離れられるんだろうな」
 小さなつぶやきが、誰もいない教室に溶けた。

03.04.13

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