【side:H】
「沢渡、カンジ変わったね。俺、あれならつきあってもいいわ」
「まあ、それなりに可愛くなったよな」
体育祭も終わって、10月初旬。文化祭のライブの練習に、僕と安藤 ―― 同じクラスの友人で、ギターを弾いてる ―― と、井上の三人は、近所の楽器屋の二階にあるスタジオに集まっていた。
休憩中の会話に、思わず呆れてしまう。
「井上も安藤も、よくそんなこと言えるな。この前まで、地味とか暗いとか、ボロカス言ってたくせに」
飲み干したコーラの缶を弄びながら、井上が僕を見る。
「だって、どう考えても可愛くなかったじゃないか。
真っ黒な髪ひっつめて、キツい眼鏡かけてさ。一言からからったら、10倍になって返ってくるような女だぞ。それにつきあえる日崎の方が不思議だよ、俺は」
「中身が独特で、一緒に居て楽しいからだよ。他にあんなタイプいないし」
「まあ、お前にとっちゃ、貴重だよなー。三国志を一緒に熱く語れる女」
……半分当たってるから、反論できない。
確かに、沢渡と話すのは楽しい。歴史の話だけじゃなく、いろんな分野の知識が豊富だから、何の話題でも盛り上がるし。
「そういえば、ザキ、この前2組の女に告られたらしいな。どうだった?」
――― 安藤、なんで知ってるんだよ……誰にも話してないぞ、僕は。
「聞くだけ無駄だって、安藤。こいつ、来る者拒まず去る者追わずだから」
「……断ったよ」
ぽつりとつぶやくと、二人とも好奇心に満ちた目で僕を見た。何でこんなこと話さなきゃならないんだか。
「相手がいくら僕を好きでも、義務で好きにはなれないって、わかったから」
僕はポカリの缶を握りつぶして、傍らの袋に入れると、ピアノへ戻った。安藤と井上は、顔を見合わせてなんだか嫌な笑顔を浮かべている。どうせまた、よくないことを考えてるに違いない。
「ザキも大人になったよな」
井上が、わざとらしく頷きながら、ピアノの脇に立った。
「そろそろ白状しろよ、沢渡のこと好きなんだろ?」
は? 何を言い出すんだ、いきなり。
「先週、図書館デートしてたって目撃証言もあるんだよ。ザキ、俺らの間で隠し事するなんて、水臭いぞ?」
何だ、その慈しむような偽善者ぶった笑顔は! 気色悪い。
「あのな……図書館で沢渡と会ってたのは、僕の妹だ。僕は、ただの付き添いで行っただけ、沢渡とは何でもないよ」
「……つまんねぇー! 18の夏は、一回きりだったんだぞ、ザキ! お前、このまま女っ気なしで卒業する気かよ」
「別にいいだろ。大学入ってからでいいよ、彼女作るのは。何か最近、興味ないし」
「うわ……信じらんね、枯れてる」
安藤と井上は、まだぶつぶつと何か言っている。小声だけど、しっかり聞こえてるよ。まだ沢渡と僕の関係に固執してるな。
実際、沢渡は変わった。もちろん、首席キープは今まで通りだけど、夏休みの終わりぐらいだったかな、眼鏡をコンタクトに替えて、長かった前髪を切って、いつも一まとめにしていた髪も肩ぐらいの長さで揃えて ――― 一緒に歩くと、少しくせのある髪が軽く揺れるのがよくわかった。何より、冬の朝みたいな、ピリッとした雰囲気がなくなって、よく笑うようになった。
そのせいか、以前から比べて、やたらと男友達の口から沢渡の名前が出るようになった。ちょっと外見が可愛くなったら、すぐこれだ。全く、露骨だよな。沢渡は、中身のほうがずっと綺麗なのに。
夏休みが明けてからも、二回ぐらい鈴子と遊んでくれたらしい。沢渡からは何も言ってこなかったけど、鈴子が僕に教えてくれた。だから、先週の休みは鈴子と一緒に図書館に行ってみたんだ。予想通り沢渡が閲覧室で勉強していて、鈴子と三人で昼ごはんを一緒に食べた。
7限目の補習がない日は、図書室か教室で一緒に勉強をしている。沢渡は特に苦手科目はないけれど、数学だけは僕のほうが得意だから、僕は数学を教えて、換わりに文系科目を教わっている。二人だけじゃない、井上と合田さんに、希望者が加わって、多いときは10人くらいになったりもする。
おまけに、沢渡は文化祭実行委員までやってる。三年は、名前だけで実質動くのは二年なんだけど、下級生が大変そうだからって、こっそり手伝ってるんだ。意外にお人よし。
そうだ、文化祭と言えば。
「井上。ステージの使用時間、実行委員から最終許可下りてるのか?」
「――― そういえば、聞いてない。申請出して、そのまま」
……大丈夫なのか、それで。文化祭まで10日切ってるぞ。
「明日、確認取っておくよ」
溜息まじりに言うと、井上が「悪い」と片手で僕を拝むようにして、隣に腰掛けてきた。安藤がギターを抱える。僕が鍵盤に指を走らせると、安藤が自然に音を重ねてくる。
「渋いな。“男が女を愛する時”?」
「これ、本番で歌う?」
「“プリティ・ウーマン”ぐらいの方がウケる」
会話を止めて、井上が途中から歌い始める。一年の頃から、三人でよく遊んでたから、レパートリーは多い。
こうやって集まって演奏するのも、文化祭で終わり。あとは、受験に向かって走るだけ。そう考えると、少しだけ寂しかった。
翌日の放課後、七限目の補習が終わってすぐに、閉まる間際の図書室で沢渡を捕まえた。隣のクラスは自習って聞いてたから、絶対ここだと思ったんだ。ビンゴ。
「沢渡、5分だけ時間いい?」
辞書をカバンに入れながら沢渡が頷くのを見て、向かいの椅子に腰を下ろした。周囲の生徒が続々と出て行くのを横目に、「文化祭のことだけど」と話始める。
そのとき、おずおずと司書の先生が僕たちへ声を掛けてきた。
「ごめんねー、日崎君。今日会議あるから、すぐ閉めなきゃいけないんだ」
時計を見ると、17時15分。職員会議は30分から。
「僕が閉めておきましょうか? 18時までに鍵を返しておけばいいんですよね」
実を言うと、何度か図書室の戸締りをしたことがあった。本当はいけないんだけど、三年も委員長やってると、それなりに先生とのパイプも太くなるんだよな。ささやかな特権のひとつだ。
お願いね、と言って先生は出て行った。夕闇が迫る図書室で、沢渡と二人。
「文化祭の件なんだけど、体育館の使用予定って、すぐにわかるかな」
「わかるよ」
少し笑って、沢渡は閉じたばかりのカバンから、A4のクリアファイルを取り出した。そこから引っ張り出されたコピー用紙に、主な会場のタイムテーブルが印刷されていた。
『体育館ステージ ――― 13:30〜14:30 アコースティックライブ』
よかった、ちゃんと予定入ってる。
「井上が、ライブの最終許可、確認とってなかったんだ。生徒会本部に聞くより、沢渡に聞いた方が早いと思って。ごめんな、帰り際に」
「ううん、別にいいよ。ついでに了解とりたいんだけど、前後の準備と片付け、各15分で大丈夫かな」
「十分。僕らのクラスの男子が裏方やるから。5分でもいける」
ほっとした顔で頷いて、沢渡は予定表にペンで書き込みを入れ始めた。顔の横から落ちてくる髪を耳にかける、たったそれだけの動作でどきっとする。井上たちが騒ぐのも無理ない。
「沢渡、ライブ見に来る?」
「もちろん。絶対行くから」
顔を上げて、沢渡はにっこり笑った。心底嬉しそうで、見ているこっちまで心が軽くなる。
「……沢渡、本当に変わったな。可愛くなった。何かあったの?」
冗談半分で聞くと、見る間に耳まで赤くなった。わかりやすい。
「 ――― 好きな人が、できた」
ああ、やっぱりな。なんとなく思ってたけど、本人から直接聞くと、結構複雑だ。一番仲のいい女友達だから、仕方ないか。
沢渡につられるように、机の上に広げられた予定表に目をやった。内容なんか、見てもいないけれど。
「沢渡さ」
「……何?」
小さな声は少し緊張していて、硬かった。いつか、病院から電話をかけてきたときと同じ。気丈に見えて、意外に女の子らしいんだよな。
「沢渡は、いい女だよ。もっと自信持っていい。
キツく見えるけど、面倒見いいし、実はかなり優しいよな。沢渡のそういう内面をわかってくれる男が、絶対いるよ。そういうヤツが、沢渡の相手だといいけど」
沢渡の返事はなくて、照れているんだと思った。あんまり沈黙が続くので、笑いながら顔を上げようとしたとき、目の前のコピー用紙に、ぱたっと水滴が落ちた。丸く染みが広がる。
驚いて彼女を見ると ――― その頬を、静かに涙が伝っていた。
【side:S】
日崎君に『可愛くなった』なんて言われるとは思ってなくて。
全部話したくなった。気持ちも全部。私が変われたのは、あなたのおかげなんだって。
でも、その後の日崎君の言葉は、刃物みたいに心に突き刺さった。
『沢渡のそういう内面をわかってくれる男が、絶対いるよ。そういうヤツが、沢渡の相手だといいけど』
それは、日崎君以外の誰かっていう意味。
――― 彼は私を好きにならない。
涙は後から後から溢れてきた。彼が驚いて私をじっと見つめるけど、何も言えない。口を開いたら、泣き声しか出てこない。
……いくら努力したって、ダメなんだ。端から私なんか、彼の恋愛対象じゃなかった。
彼の側で、彼の恋愛をずっと見てきた私には、いきなり告白したって上手くいかないってわかってた。だから、彼の隣にいられるように、少しずつ一緒にいる時間を増やして、勉強会しようって誘って、今までより仲良くなれるように、美弥に相談しながら毎日必死だった。
側にいても不自然じゃなくなって、一緒にいる時間も増えた。彼も前より心を開いてくれてる気がして、正直言って、かなり期待してた。日崎君も、私のことが好きなのかな、って。ただ、自惚れていただけ。
いくらラブストーリーを読んだって、恋の和歌を諳んじたって、何もわかりはしない。今になって気付いた。だって、本を書いた人は、私でも日崎君でもないんだから。いくら調べても、もう正解は出てこない。最後通告は出されてしまった。
彼が私を好きになるまで、待ってるつもりだったのに。
「沢渡……?」
少し困った顔で日崎君が私の方へ手を伸ばしてくる。私はせり上がってくる嗚咽を飲み込んで、「触らないで」と言った。びくっ、と空中で彼の手が止まる。
「日崎君は」
今更言ってもみじめなだけなのに、感情が暴走する。
「日崎君は……私をそんな風に評価してくれて、わかってくれてるのに、好きになってはくれないんだね」
最後の方は泣き声で言葉にならなかったけれど、私はそのままカバンを掴んで、図書室から駆けだしていた。せめて、追いかけてきてよ! そう思うのに、日崎君が追ってくる気配はない。
馬鹿みたいだ、私。格好悪い。泣きながら階段を下りているのに、冷静に教室で美弥が待ってることを思い出していた。文化祭の予定表も、図書室に忘れてきた。いいや、明日もう一枚もらおう。
ポケットからハンカチを出して、軽く押さえるようにして涙を拭いた。なんとか涙は止まった。深呼吸して教室へ続く廊下を歩くと、教室から美弥と井上の話声がした。なんとなく、教室より手前で足を止めた。
見なくてもわかる。いつもみたいに、窓際の机に座って、背中を丸くしてじっと美弥を見てる井上と、窓にも垂れて、井上を見上げる美弥。
井上のどこがいいのかわからないけど、美弥が彼を心底好きなんだって知ってる。井上も、美弥のことはすごく大切にしてる。ああ、いいな。私もいつか、あんな風に誰かに好きになってもらえるんだろうか。
止まっていた涙がまた溢れ出して、今度は泣き声を押し殺すことができなかった。ひっく、としゃくりあげると、教室から美弥が飛び出してきた。
「茜っ、どうしたの!?」
「……美弥ぁー」
それ以上は言葉にならなくて、美弥に抱きついて泣いた。涙でぼやけた視界に、呆然と立っている井上が見えた。こんな参ってる姿は見られたくなかったけれど、とりあえず思う存分泣きたかった。
しばらく美弥に髪を撫でられてじっとしていると、自然に涙は収まった。
「大丈夫?」
美弥に心配そうに問われて、首を横に振った。だいぶ落ち着いたけど、一人になりたくない。
「じゃあ、今日はもう帰ろう?」
今度は頷く。美弥はもう一度私の頭をぎゅーっと抱きしめてくれて、井上と小声で何か話した後、カバンを取りに教室へ戻る。瞬きをしていると、いつの間にか、井上が側に来ていた。なまじ体が大きいから、近づかれると威圧感がある。
「沢渡、諦めるなよ?」
低く囁かれた言葉。一体何を?
私は井上に何も言わず、その言葉の意味を考えることも放棄して、美弥と一緒に歩いて帰った。図書室であったことを話すと、美弥は日崎君の鈍さに呆れていた。
「聞きしに勝る鈍感っぷりだね……でも茜は、日崎君の言った通り、すごい可愛くなったよ? 彼以外にも、男はたくさんいるんだから、もう恋は懲り懲りなんて思わないでね」
慰めようとしてくれているのがわかったから、曖昧な笑顔を返した。
茜には言ってないけど、彼に振られたことで、はっきりしたことがある。
私は、恋に憧れてた。でも、今はわかる。私は恋がしたかったんじゃない ――― 彼が欲しかったんだって。
「……達也に聞いたんだけど、日崎君、この間告白されたんだって。初めて断ったみたい」
驚いて、美弥を振り返った。美弥は、あったかくて優しい目で私を見つめていた。
日崎君は、少しずつでも変わってるのかな。私が「いい加減な恋愛はやめろ」って言ったから? 少しは、私の言葉が届いてる?
井上が『諦めるな』って言ったのも、そのせいなのかな。明日から嫌いになるなんてできないし、一度玉砕したからって、急に気持ちがなくなったりしない。彼の前で微笑む自信はないけど、せめて逃げずに……明日も会いたい。
03.08.07