あの夏の花火
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


川面に映る閃光に、懐かしさを覚えて顔を上げた。
風が運ぶ火薬の匂い。流れていく白煙。



 それは、私が十七歳の頃の出来事だった。

 いつもの夏祭りの夜、屋台の間を抜けているうちに、友達とはぐれて途方に暮れていた。白地に紫桔梗を染め抜いた浴衣は、綺麗だけれど歩きにくく、慣れない下駄にも苦戦して、友を捜す私は疲れて神社の側の石に腰を下ろした。
 賑やかな人波は、そこから置いて行かれた私を心細くさせた。
「どうしたん、一人か」
 突然声をかけられて驚いた。向けた視線の先には、同級の男の子が立っていた。水を流したような薄い青地に、紺縞の浴衣を着ている。学校で見る制服ではない姿に胸が高鳴った。素足に草履、腰下で締めた帯は男らしさを感じさせた。
「友達とはぐれて……」
 言いよどむ私に、
「もうそろそろ、打ち上げ花火始まるで。一人で見てもつまらんし、見える場所まで行こうや」
 彼はそう言って手を差し伸べてくれた。
 その頃の私は男の人とつきあったこともなく、かなり赤くなって、その手を取ったように思う。しかし、彼は恥ずかしがる私を嫌がるでもなく、人混みを割って、堤防の上、花火が一番よく見える場所まで連れていってくれた。
「浴衣姿」
 え、と私は聞き返した。彼は屈託なく笑った。
「見慣れてないから、なんか不思議な感じするな」
「……うん。学校で会うのと、印象違うねぇ」
 背伸びして引いた口紅を意識した。ほつれた髪を揺らして、涼しい風が首筋を撫でていく。人が増えるにつれて、私は肩が触れそうなほど、彼に近づいた。
「足、大丈夫なん。下駄だと疲れるやろ」
「ああ、大丈夫」
 言われるまで気づかなかった。鼻緒でこすれた親指は痛かったけれど、私はそんなこと忘れていた。彼の横顔ばかり見ていた。
「夏休み、どっか行った?」
「三日前まで、おばあちゃんちに行っとったよ。庭で縁台出して星見てた。風流やろ」
 それはええなあ。彼がそう言うか言わないかのうちに、どんっ、という音と歓声が上がった。
「始まった!」

 基本の一尺玉に、蝶々や枝垂れ柳、これでもか、と打ち上げられる音が、腹の底に響いた。花火の下の暗闇は、瞬く間にたなびく煙に包まれる。
 首が痛くなるのも構わず、私はずっと花火を見上げていた。知らずに「すごいなぁ」と口に出していた。
 白、赤、青、緑。花が咲いて、散った先がまた開く。幾重にも彩られた闇夜は、昼間とは違う世界のようだ。人々の熱気に酔わされるように、私はその世界にただ陶然とした。
「ええなぁ。ワクワクするな」
 彼を見上げて、無言で頷いた。顔がゆるむのがわかる。男の子と二人で花火を見るのは初めてで、それがこんなに楽しいとは。花火を見るあの祭り特有の期待感と、彼が隣りに居る緊張感の相乗効果なのだろうか。私はひどく楽しかった。
「そういえば、そっちも一人で来たん? 連れは?」
「連れは、どっか行った。でも、俺はお前と見る方がよかったから、居なくなった連れに感謝してるよ」
「……それは、どーも」
 まっすぐな目を見返すことができずに、うちわで顔を隠した。彼はさりげに肩を揺らして、笑っていた。
 見透かされているのだ、私の動揺は。反撃しようと試みたが、とてもできそうもなかったので、私は思ったことをそのまま口にした。
「男の人の浴衣って、ドキッとするなぁ。いつもの三割増しくらい男前に見える」
「それはお袋に感謝やな。この浴衣着て行けって、無理矢理、着せられた。でも、女も同じや。別人みたいに見える」
「それは、誉め言葉なん」
「当然」
 普通なら絶対口にしないような言葉が、自然に出てくる。これも浴衣のせいだろうか。魔法にかかった気分だ。
「ほら。仕掛け花火の準備してる、向こう側」
 彼の指が川面を指し示す。そっちを見る顔は、本当にすぐ近くにあって、私は息を飲んで緊張を悟られまいとした。しかし、努力は空しいものだった。
「……どうした?」
 至近距離でのぞき込まれ、私はますます固くなった。狼狽える私を目を丸くして見ていた彼の視線が、次の瞬間、私を素通りして遠くに投げられた。
「幸哉ッ!」
 花火の音が止んでいたせいか、彼の名を呼ぶ声はまっすぐに人波を裂いた。彼が、有無を言わさず私の手を掴む。
「逃げろっ」
 事態が飲み込めないまま、さらわれるように彼に付いて走った。下駄は走りにくく、浴衣の裾を気にして早くは走れない。
「ねえっ、あれ誰っ?」
「産みの親っ」
 人混みを抜けた。花火会場を少し離れた上流にかかる橋まで逃げて、ようやく彼は私の手を離した。
「悪い、綺麗なカッコしてるときに走らせて」
「……足、痛い」
 鼻緒でこすれた指の間は、皮が剥けて真っ赤になっていた。
「悪いッ。うわっ、これは痛いよな、どっか座れるところ……あっちに行こう」
 言われるままに手を引かれて、橋桁に寄りかかって息をついた。
「ちょっと待ってな」
 私が何か言うより早く、彼はまた走って行ってしまった。浴衣の裾をひるがえして、急いで駆けていく背中は、なぜか遠い。彼は戻るだろうか。
 案じていると、しばらくして彼は帰ってきた。どこから調達したのか、小さなイスを抱えて。
「これに座って。ジュースどっちがいい」
 差し出された黄色と青のジュース。私は青いジュースを黙って受け取った。甘くて味の濃いジュースは、飲んだ後、舌が青色になる。
「ああ、こっからでも花火見えるな。よかった」
 何も言わず、私は彼を見上げる。ジュースの中の氷が、じゃらじゃらと音を立てた。彼はしばらく薄い笑顔を浮かべていたが、ふうっとため息をついて、私に向き直った。
「さっきの、母親なんや。俺産んでから、他の男と逃げたヒト。憎んじゃいないが、会いたくはない。この浴衣着せてくれた人は、親父の後妻なんだけど、すげぇいい人で、俺は母親はこの人だけだと思ってる。思っていたい。
 ……でも、今更会いたがってんだよ、あの女」
 目を伏せた彼は、何故か笑顔を浮かべているように見えた。どうしようもない時、人は笑うしかなくなるというけど……。
「会ってあげたら」
「会いたくない」
 また、歓声が上がった。仕掛け花火は見逃したけど、二部の打ち上げ花火は、再び賑やかに空を彩った。
「……綺麗やな、ここの花火は」
 悲しい顔だった。欄干に置かれた彼の手に、そっと手を重ねた。
 彼は無言で手の空を上向けて、私の手を握り返した。

 枝垂れ柳の赤い花が、幾重にも重なって、黒い川面に吸い込まれるように流れ落ちていった。ジュッ、という音が聞こえそうなほど近くに感じた。綺麗な花火も終わりに近づく。宴の終わりになればなるほど、華々しく賑やかだった。
 最後に乱舞する花火の明かりの中で、彼は背後からゆるく私を抱きしめた。耳元で囁かれた言葉は、喧しい音にかき消されず、私の耳に届く。
「もう、来年は見えんわ、この花火」
「……何で」
 明日はこの街には居ない。
 彼はそう言った。
 私は唇を噛みしめて、彼の腕に手を添えた。彼の腕にわずかに力がこもった。
「もう話せんの。もう少し、話したいわ」
 返事はなく、泣いているのかと思うような、震えた吐息が耳をかすめた。辛くて、私もうつむいた。
「もっと早く話しとくべきやった、損したな」
「今からでは、遅いん?」
「……遅いなぁ」
 きつく瞼を閉じて、彼にもたれ掛かる。私の肩に顔を埋めるようにして、彼は動かなかった。遠くで花火の音が響く。もう終わる。
 地表まで燃え尽きずに落ちてきた花弁は、ゆらめく水面に儚く消えた。



 数年ぶりに帰ってきた故郷の景色は、怖いほどリアルに過去の情景を思い出させる。
 あの後、彼の実の母親が金の無心に連日来ていただの、借金の取り立てがすごかっただの、今の母親がその状況にすっかり参って体を悪くしていただの、幾つも噂が飛び交ったが、そんなことはどうでもよかった。彼は言ったとおり、翌日には一家揃ってここを去り、引っ越し先はわからなかった。

 姪の手を引いて、思い出深い堤防沿いを歩いた。日が暮れる前だというのに、既に場所取り用の青いシートがあちこちに置かれていた。酒宴の始まっている箇所さえある。
「花火、まだ?」
「まだよ」
 四歳になったばかりの姪のカナは、ひらひらと帯を泳がせながら、おぼつかない足取りで傍らを歩く。
 ゆるいカーブをかいた、欄干付きの橋が見えた。ああ、変わっていない。十一年前のあの時と同じ。

『カナも、お姉ちゃんみたいな浴衣がええのッ』と、駄々をこねたお姫様は、白い浴衣を着ていた。私は桔梗、カナは赤い金魚の模様だ。
 賑やかな露店が珍しいのだろう、きょろきょろとして落ち着かない子供の世話役は、結構大変だった。姉夫婦は後から合流する予定なのだ。しかし、早めに来てもらわないと、迷子にでもなったら責任が持てない。今ですらこの人出なのに、暗くなったらどうなるか。
 ……などと思っていたら、私が迷子になってしまった。
 花火が始まる前の人波は記憶よりもずっとすごくて、ここら一帯の夏の風物詩と化した花火祭りは、規模も大きくなっていたのだ。姉夫婦と合流したのに、地元の友人と談笑している間にはぐれてしまった。
 まあ、子供じゃあるまいし、歩いて家に帰ればいいわ。カナは姉たちと一緒だし。
「すいません、ジュース下さい」
 喉の乾きを癒そうと、屋台のおじさんに声を掛ける。
「どれにしましょっ」
 威勢のいいかけ声に、笑いながら青い炭酸水を選ぶ。
 ゆっくり歩きながら、私の足は橋へと向かっていた。
 思い出に浸るくらい許されるだろう。心の奥に火が灯るような、切ない記憶を辿って見上げるのも悪くない。
「わあっ、始まったあっ」
 はしゃいだ声があちこちで上がる。打ち上げる場所に近い川岸で見ていると、腹に力を入れていないと、響く砲声にびくりとなるけれど、ここまで離れるとそんなこともない。三尺玉ともなれば話しは別だけど。

 柳の連弾だ。赤や金の火がサラサラと音を立てそうな流れとなって落ちてくる。真下で見上げれば、どれだけの大きさになるだろう。
 隣の人と肩が当たった。「すみません」と謝る声が同調する。誰か知らないが、この人混みに割り込んで前に出ようとしているらしい。押されて私も欄干に手を置いた。
「すんませんッ」
 人をかき分け、一人の男が顔を出す。見る間に近づいてきて、私の隣りに収まった。荒い息を整えて、汗だくの顔で大きく息を吐いた。
「連れとはぐれてしもたんやけどッ」
 花火に負けない声量。笑いかけられ、私は息を止めて彼を凝視した。
「……もう忘れた?」
 ぶんぶんと、首を横に振る。似ているけど、けれど、彼だという確信は? あるわけがない。記憶から抜け出たような錯覚。眼前の男はTシャツにチノパンというラフな格好なのに。
「今からじゃ、遅いか」
 真摯な眼差しに酔いそうになりながら、私は彼の耳に顔を近づけ、目を閉じて囁いた。
「遅くない。おかえり」
 桔梗模様より鮮やかに、空に大輪の花が咲き乱れる。
「しかし、よく見つけたね、この人の中」
「正直、あの場所で、白地に桔梗の浴衣着て、青いジュース持っててくれたからだよ。見かけた途端に時間が戻った気がしたわ。記憶よりずっと色っぽいけどな」
 言われて私は、うちわで顔を隠してしまった。
 耳まで赤くなった自分も、それを見抜いて大笑いしている彼も恨めしい。見ていろ、いつか逆に狼狽えさせてやる。
 決心したとき、金色の光が周囲を包んだ。
 仕掛け花火だ。
「ああ、やっぱりここの花火が一等好きやな」
 目を細める彼を見上げて、手を繋いだ。一緒に見られる日が来るなんて、想像もしていなかったのに。
 また来年も、この花火を一緒に見ような、と、再会したばかりなのに彼は言った。

 再来年も、そのまた次も、十年後もずっと、一緒に見られたら、祭りの後も、寂しさに襲われることはなくなるだろう。
 人々の歓声の中、闇夜を幾筋もの光が貫く。
 今年の夏の記憶も、特別なものになりそうだった。



2003.03.24

HOME

inserted by FC2 system