少年ロマンス
第19話 ☆ SAYONARA(3)

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 結婚後も、それまでと同じように郊外の家で二人暮らしだった。
『家族』にはなっても『恋愛関係』ではなく、聖は以前と変わらず数人の恋人とつきあっていた。外泊も多い。別段気にしてはいなかったけれど、結婚して三ヶ月後 ――― クリスマス前に、聖は遠慮がちに話し掛けてきた。
「千代は、クリスマスどうする?」
 別に予定はなかった。一人で本でも読んでいるか、普通にスケッチでもするか。
「お互いに、恋愛は自由なんだから、好きな人と過ごしていいよ。誰か、いるだろ?」
 わかるよ、と聖はつぶやいた。最近すごく綺麗になったから、恋をしているのだろう、なんて言う。そこまでわかるのなら、気付け。
「聖」
 アタシの声に、聖は首を傾げた。
「何?」
 鳶色の瞳。蛍光灯の光でも、きらきらしている細い金髪。見とれる人間なんて腐るほどいる。好きになってしまう人間だって。
「だから、聖 ――― 好きな人」
 指差して淡々と告げると、聖は笑顔のまま固まった。明らかに動揺してぎくしゃくとした動きで部屋を出て行き、彼はそのまま一週間帰らなかった。

 聖と出会った頃は、甲斐以外の誰かに惹かれる自分なんてあり得なかった。こんな短期間に心変わりした自分に呆れたけれど、それは自然なことに思えた。聖が誰を好きでもいい。どうせ彼は女を愛せない。応えてくれる可能性はゼロだ。
 だから、クリスマスを過ぎたその日、久しぶりに会った聖がいきなりアタシを抱きしめたときは、何が起こったのかわからなかった。
「悩んだんだよ、僕はどうなったんだろうと思って。
 今まで女性に対してこんな気持ちになったことはなかったのに ――― 千代は、特別みたいだ」
 抱く腕の強さと、艶めいた聖の声が、嘘じゃないと語っていた。
 そして、アタシと聖は、ごく一般的な「夫婦」になった。
 記念に真っ赤なカプチーノを買って、よくドライブに行った。甘い雰囲気にもキスにも二人で絵を描くことにも慣れて、二人展覧会を開いたりもした。それを記念して出した画集は、よくも悪くも思い入れが深すぎて、もう開くこともない。

 その頃、アタシは聖の本質を忘れていた。
 彼が「ただ一人を愛する」ことなんて、できやしないと知っていたのに、まるでその時間が永遠に続くかのような錯覚をして、幸せに浸った。
 現実は四ヵ月後に本性を見せた。聖が春のイタリアに行きたいと言いだしたとき、アタシは一緒に行くものだと思っていた。
「一人で行きたいんだ。僕はいろんなものを見て、学びに行くんであって、千代が隣にいると集中できないから。嫌だろ、ほっらかしにされるの」
 一ヶ月で戻るよ、と言って手を振って別れたのに、三ヶ月経っても聖は戻らなかった。
 いつものことだ、と彼の両親は呆れつつ、それでもアタシを気遣って、よく家に呼んでくれた。何となく彼の母親は苦手だったけれど、拒否すれば聖が困るかもしれないと思って、招きに応じていた。
 その何度目かの会食を終えて、自宅に帰ろうとしたアタシを、義母が呼び止めた。
「ごめんなさいね、まだ結婚して間もないって言うのに、聖があんな風で。
 言いにくいとは思うのだけれど、最近、あなた体調が良くないでしょう? もしかしたら……と思って。もう病院には行ったの?」
 何を言っているのか、最初わからなかった。聖がいなくなって、アタシは少しおかしかった。眠れないし、何を食べてもおいしくない。一人が寂しいと、こんなに強く思うなんて、自分でも意外だった。
 聖が戻ってくれば治るのだ。病院なんて行ってなかった。
「妊娠してるのなら、体に気をつけなければ駄目よ」
 そんなわけない、と思ったけれど、それから会うたびに病院へ行けと言われて、さすがに根負けした。何でもないとわかれば、この人も黙るだろう。義父の知人が経営している総合病院へ検査に行った。

 数日後に知らされた検査結果は、予想もしてないものだった。
 卵巣が機能していない。不妊。アタシは一生 ――― 子供ができない。
 
 子供が欲しいなんて思ったことはなかったのに、ものすごくショックだった。感情が整理できないまま涙を零した。生理不順なんて気にしてもいなかったのに、その時になって後悔した。もっと早く病院に行って調べてもらっていたら、どうにかなったのかもしれないと。
 頼んでもいないのに付き添いにきた義母に慰められて、そのとき初めて「おかあさん」と呼んだ。あたたかかった。
 一人でいるのが嫌で、その日は聖の実家に泊まった。どうせ来客用の部屋は余っていたのだ。眠れなくて、夜中に受話器をとった。聖の居場所は、知っていた。薄情な聖でも、連絡先が変わるたびに教えてくれたから。
 時差なんか考えなかった。フランスへの国際通話番号を押した。長いコール音の後、知らない男がフランス語をしゃべった。構わずに日本語で「聖は」と告げると、相手は一気に不機嫌さを滲ませて「今出かけてる」と言った。
 しゃべり方でわかる。日本人だ。アタシが誰か気付いている ――― 『恋人の妻』からの電話だと。

 そのまま荒々しく受話器を置いた。
 側に居て欲しい。抱きしめて欲しい。あの結婚式の夜みたいに、この感情をまるごと受け止めて欲しいのに! ……他の恋人と海外で蜜月生活か、あの男。
 世間一般の常識なんて通用しない。複数の人間を同時に愛せる聖。アタシにもそうしていいよと笑う聖。でも、アタシはアンタだけでいい。通じない願いが空しかった。
 もう涙も出なくて、溜息をついた。ここにいる意味がどこにあるんだろう。一人でも寂しくてもいいから、あの白い家に帰ろう。そう思って身支度をして深夜の廊下を歩いた。
 寝室が並ぶ廊下。シンとした暗闇の中、かすかに話し声が聞こえた。細い途切れがちの声の中に、自分の名があって、足を止めた。足音を殺してドアに耳を当てる。
「――― 子供が産めないって、泣くのよ。あの愛想のない女が、子供みたいに。
 別に問題ないわよね? 聖は正人さんと同じよ、他にいくらでも女はいるみたいだし、千代さんが産まなくたって、認知して引き取ればいい話じゃない。それが嫌だっていうなら、あなたの子供が大きくなってから養子ということにして、里中家に引き取ればいいのよ」
 正人、は、聖の父親の名前。お義母さんの声だった。電話の相手は、実の娘なのだろう。
 面の皮一枚下で、ニヤリと笑っていたのか。偽者の母性で聖もアタシも手なづけたつもりで。
「そうすれば、里中家の後継者に聖の血は入らな」
 それ以上聞きたくなかった。力いっぱいドアを蹴った。バカンと大きな音がして、ドアが軋む。鍵は掛かっていなかった。開けたドアの向こうに、ひきつった義母の顔があった。
 そのとき、アタシは生まれて初めて、殺意を抱いた。
 



 あとは冷めたものだ。里中家を出て、聖と暮らしていた家も出て、説得に来た聖の父親には「もう二度とあの家には行きません」ときっぱり告げた。聖にはそれ以降連絡しなかった。
 自分の両親や親族からは、さんざん別居の理由を聞かれたけれど、頑として話さなかった。それでもどこからか話は伝わるもので、「千代は子供が産めないから追い返されたのだ」といつしか皆知っていた。うちの本家は、古いだけが自慢の田舎の旧家で、未だに何代目当主就任式、などという格式ばったことをしている家柄。なので、アタシの存在は非常に不名誉なものとして扱われた。まったく馬鹿らしい。
 教職について、生活していく基盤もできた。里中家からは、毎月生活費を払うと連絡が来たが、それならとカプチーノをもらった。
 ささやかな聖への嫌がらせだった。あまり物事に執着しない聖が、とても気に入っていた車。短すぎた結婚生活の、一番綺麗な思い出。

 新しい生活を一人で始めた頃、試しに吸いはじめたタバコは、手放せなくなった。
 聖と最後に会ってから三年後、居場所のわからない聖の了解を得られないまま、離婚届を出した。今の高校に赴任して、住所も変わった。それでも、淡々と日々を送りながら、アタシずっと ――― 聖がいつか会いに来ると、確信していた。
「千代は特別」。その聖の言葉だけは、嘘じゃないと思ったから。

 赴任して二年後の夏、唯人から告白された。あまりの純粋さと一生懸命さに、少し心が動いた。
『僕が卒業したら―――』
 その条件を聞いたとき、ふと思いついた。この子が卒業するまで、あと二年半。聖と最後に会ってから、四年が経過していた。あと二年半も経てば、さすがにこの気持ちも消えるだろう。
『先のことなんて、わからないからねぇ』
 唯人に言いながら、アタシは自分の中で、ひとつの賭けをした。
 唯人が卒業するのが早いか、聖が会いに来るのが早いか。卒業式より前に、聖が来なければ……そのときは、綺麗さっぱり聖を忘れよう。唯人の言うとおりにしよう、って。

 聖から手紙がきたのは、文化祭でウェデングドレスを着た頃だった。会いたいと書かれていたのに、返事をしなかった。連絡もしなかった。本当に聖がアタシを求めているのなら、会いに来い。探しに来い。行動で示せ。
 そして、聖は現れた。季節は秋の初め。唯人はまだ卒業していない。アタシの気持ちは決まっていた。

 今日、聖はこの町にいる。TOGOで打ち合わせがあると言っていたから。
 カードケースから、聖の名刺を取り出した。携帯の番号を押す。
「明日、会いに来て。ちゃんと話をするから」
 わかった、と言う聖の声は優しく笑っていた。
 声の余韻を耳に残したまま通話を切って、埃をかぶったアルバムを取り出した。五年前のアタシと聖。二人で笑わずに写っている写真は、金と黒。光の加減で金色に輝く聖の瞳。細められた闇色は、アタシの目。挑発的な二人の瞳が、世界全てを威嚇していた。
 綺麗な聖、自由な聖。アタシはあなたに焦がれて、ここに留まったままだ。
 ――― いつまでも、こうして。


05.05.18

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