少年ロマンス
第17話 ☆ SAYONARA(1)

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 あの幸福な日々を もう忘れてしまった
 あなたの側にいる意味
 体温も言葉も あまりに遠く霞んで
 いつか 望むことさえも忘れて



 ダイニングキッチンの床を覆うブルーシートを踏むと、ぺちぺちと湿った音がした。足裏が冷たい。裸足のまま歩いて、カーテンを閉める。窓の外は、もうすっかり夜だ。
「スリッパくらい出して欲しいな」
「嫌」
 あがり込んできた聖は、アタシの冷たい態度にもめげず、嬉しそうな笑顔を浮かべて部屋を見渡した。ブルーシートの上に出しっぱなしのパネルは、昨夜、水張りしてそのままだった。
「……やっぱり、絵は続けてるんだ」
 聖の問いには答えず、やかんを火にかけた。どうせすぐには帰らないに決まってる。
 聖は、無造作に床に置かれたままの画材を手にとっていた。
「千代、このメーカーじゃないと嫌だって、いつも言ってたな」
 そうやって、過去を思い出させるのはやめて欲しい。
 無視を決め込んだアタシに飽きたのか、聖は奥に続くドアを開けた。所詮広めの1DK。壁際にソファ。シンプルな机と本棚。専門書と画集。パソコン。クローゼット。テレビは見ないので置いていない。
「千代、まだソファで寝てるだろ。なんでベッド置かないんだ?」
「……置いたって、どうせベッドでは寝ないもの。いちいち昔のことを引き合いに出さないでくれる?」
「そうカリカリしないで」
 誰のせいだ、誰の。
 ポットに熱湯を注ぐ。柔らかく湯気が頬を撫でていった。
 聖のペースに巻き込まれるな。そう自分に言い聞かせた。四年も会っていなかったのに、この人は目の前に存在するだけでアタシの気持ちを乱す。違う、四年も会っていなかったから、なのか。
 紅茶を大き目のマグカップふたつに注いで、テーブルの上に置いた。
 椅子に腰掛けて、壁にもたれて立つ聖を睨みつけた。腕組みして、じっとこちらを見つめる姿は、嫌になるほど様になる。四年間で更に色気が増したような気がするのは、気のせいだろうか。
「怖いカオだ」
 楽しんでいるくせに、そんなことを言う。

「 ――― アンタね、何いきなり学校に来てんの。アタシの平穏な生活を掻き回しに来たわけ?」
 生徒に囲まれて、ロバートです、と挨拶をする、その姿を見たときのアタシの気持ちを、こいつにも味合わせてやりたい。初対面のフリをして、学校を案内して。そのままなぜか美術部の部活にまで参加した聖。村上先生と盛り上がって話して、生徒から「ロバート、日本語ペラペラじゃん」って突っ込まれるし! こっちが冷や汗ものだった。
 結局、下手な場所で話をするわけにもいかないから、自分の家に連れてきた。聖は「ホテルにおいで」と言ったけれど、そんな罠に飛び込むような真似ができるわけない。
「だって、千代がいつまで経っても連絡してこないから。
 自宅の場所は知らないし、学校に会いに行くしかないじゃないか」
「……どうせ全部調べて来たんでしょう、白々しい」
「いや、神に誓って知らない。父さんは千代の味方だからね、教えてくれなかった。僕が千代に会うこと自体反対してたし」
 その言葉に、嘘は無いようだった。聖の父親には、いろいろと世話になったので、今でも年賀状のやりとりだけの繋がりを保っていた。確かに、いくら聖に甘いあの人でも、それは教えないだろう。
「じゃあ、どうしてアタシがこの町にいるって知ったの?」
「弁護士に聞いた。離婚の慰謝料の件で、直接話したいって言って」
 生々しい話になりそうだ、と思った。別に金なんていらない。アタシが欲しいのは、もっと別のもの。
「住所はあえて聞かなかったんだ。どうせ近くに行けば、千代がどこにいるかわかるから。実際、ここに来てすぐ会えたしね」
 偶然を運命にすりかえて、聖は天使のような無邪気な笑みを浮かべた。アタシは表情を崩さなかった。彼の皮膚の下で、悪魔が微笑んでいるのを知っている。
「 ――― でも、職場に来るのは、反則だ」
「わかってるだろ? あれは、仕返し。
 帰国したら、愛する妻と愛車が消えてた。一度会いたいと、わざわざ父を経由して穏便に連絡したのに、千代は一年も僕を無視した。再会したのに、連絡を寄越さない。そもそも、僕に何も話さずに離婚届を出した。そういうの、公文書偽造って言うんだよ、知ってる?
 ……いくら温厚な僕でも、怒るよ」
 温厚が聞いて呆れる。
「一ヶ月だけ旅行に行ってくるって言って、そのまま三年もほったらかしにしたのはアンタでしょ!? ……律儀に待ってると、本気で思ってたの。
 第一、結婚するときに決めたじゃない。どちらかが嫌になったときは、すっぱり別れるって」
「そのときと、一年後じゃ、僕らの関係が違ってたじゃないか。せめて電話で話すくらい ―――」
「電話なら、一度だけした。聖がフランスにいたときに。
 ――― アンタの恋人が出たから、そのまま切った」
 聖は気まずそうに視線を逸らせた。この男なりに、罪悪感は感じているらしい。
 だからと言って、許したりはしない。
「悪かったと思ってる。だから、殴りにおいでって言ったじゃないか。それぐらい悪いことしたと思ってるよ」
 それに、と全く反省の無い態度で、聖は言葉を続けた。
「僕のしたことと、あの人がやったこと考えたら、カプチーノ一台じゃ、全然償えないデショ」
 『あの人』が言ったこと、やったこと。それは確かにアタシに衝撃を与えたけれど、それは切欠でしかない。

 ――― 本当に償うべきは、アンタがしたことなんだって、まだわからない?

「……で、金の話をしにきたわけ」
「いや、払う気ないから。慰謝料なんて。
 僕は千代と別れたつもりも、別れるつもりもないんだってば。また一緒に暮らそう。そうすれば、慰謝料の必要性は消えるだろ?」
 悪い冗談にしか聞こえないその軽い言葉は、数年前の聖のプロポーズを思い出させた。


05.04.23

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