少年ロマンス
第16話 ☆ Secret Garden(3)

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


 九月も終わりのその日、約束通り里中さんは店にやってきた。
 今は使っていない一階の厨房に机を置いて、店長(要するに母さん)と写真や書類を見ながら、最終的なイメージや予算を決定したようだった。店舗デザインの段階で、僕も一緒に話に加わったけど、里中さんのセンスにはちょっと驚いた。言葉を具体的なイメージに置き換えるのが、すごく上手い。それが仕事といえばそれまでなんだろうけど、ラフ画も味があって、個人的に、仕事抜きで描いた絵も見てみたいと思った。
 佐々木先生と大学で知り合ったらしいし、絵も描いてたんだろうな。今も描いてるんだろうか。気になって聞いてみた。

「いや、今は描いてない。興味がこっちに移ってしまって」
 里中さんはテーブルの上のスケッチブックを、トントンと指で叩いた。さっき見せてもらった、いままで手がけた建物のラフスケッチ。昔の絵は持ってないんですか、と何気に尋ねたら、肘をついてしばらく考え込んでいた。
「アトリエはここから遠いし、あまり作品を手元に残すタイプじゃないんだ。以前、一冊だけ画集を出したけど―――ああ、千代が持ってると思うよ。彼女に借りるといい」
 そういえば、君、美術部なんだって?」
「はい。もう引退してますけど、去年まで部長でした」
 里中さんは、スケッチブックを鞄に片付け、コーヒーを一口飲んだ。
「この前、学校に行ったときに、君の絵を見たよ。いい絵だった。
 あと……僕と千代のこと、学校で黙っていてくれてありがとう。彼女は、過去を恥だと思うような人じゃないけど、面白半分に噂されると、気分はよくないだろうから」
 あなたに礼を言われる筋合いはない、と言えないのが悔しい。
 黙っていると、彼はにこやかに僕を見上げた。鳶色の落ち着いた瞳。僕はその目に、ただの高校生男子として映っているに違いない。その声が「千代」と呼ぶたびに、僕の中にわずかずつ嫉妬が溜まっていくことも知らずに。
「千代は、ちゃんと教職続けてるんだね。どんな先生?」
「……慕われてます。絵に関しては、ものすごく厳しいけど」
「はは、画材の取り扱いとか、昔からすごくうるさかったよ。適当に片してたら怒るんだ、自分の画材でもないのに」
 懐かしそうに語る里中さんを見ていたら、なんだか妙に苛ついて、唇を噛んだ。

 昔の話、僕が会う前の先生。里中さんは、わざとなのかと思うほど、先生と自分の関係をちらつかせる。だから、それは過去なんだってば。自分に言い聞かせても、波立つ心は静まらなかった。
 ――― でも、四年前に離婚しているのなら、どうして今頃この人は先生に会いに来たんだろう。
 僕に聞く権利なんてないのに、思いついたまま問い掛けていた。
「初めてこの店に来たとき、佐々木先生に『見つけた』って言ってましたよね。探しに来たってことですか?」
「そうだよ。いろいろ事情があって、僕が知らないうちに、僕らは別れたことになっていた。去年帰国して、千代に連絡をとった。僕の父が、彼女の居場所を知っていたからね。でも、一年経っても彼女は僕の電話も手紙も無視し続けた。
 理由はすぐにわかったよ。僕を待っていたんだ。だから、会いに来た。父はなかなか頑固で、住所までは教えてくれなくて、自分の足で探してみようと思ったんだ。初日に会えたのは、嬉しい偶然だったよ」
 ――― 先生は、待つような人じゃない。
 その僕の考えを読んだみたいに、里中さんは冷たい眼差しで僕を見た。優越感がわずかに覗く笑みは、それまで対峙していた彼と、ぞっとするほど雰囲気が違って、僕は首筋に鳥肌がたつような気がした。
「君は、ずいぶん千代になついているね。
 残念だけど、君が知ってる『佐々木先生』と、僕が知ってる『千代』は、全く違う。人間は相対する人物によって、違う面を見せる。本人が意識していなくても、それは当然のことなんだよ。
 僕の知ってる千代は、何年でも僕を待つ。そういう女だから、僕は彼女と結婚したんだ」
 息を呑む僕を残して、里中さんはにこやかに挨拶をして、店を出て行った。

 ガラス越しに立ち去っていく背中が見えた。広い肩幅、秋の陽光に透ける金色の髪、そこにいるだけで人目を惹く、華やかな存在感。僕の知らない先生を、知っている人。
 視界から消えるまで、目が離せなかった。あの人が居るだけで、僕の不安はどんどん増殖する。次に会うのは、店の改築が始まってからだ。しばらく会わなくて済む、その事実にホッとした。
 ――― 僕は、里中さんが怖い。
 僕が知っている先生は、確かに本物なのに……あの人が語る言葉は、その輪郭をぶれさせた。



 翌日の放課後、久しぶりに図書館で勉強をしてから、美術室に行った。部活が終わるくらいに顔を出せば、後輩の邪魔にもならないからいいよね。

「失礼しまーす」
 勢い込んでドアを開くと、村上先生が一人で戸締りをしていた。あ、もう終わってたのか。
「佐々木先生は……いらっしゃらないんですか?」
「ああ、東郷君。久しぶりだねぇ。
 佐々木先生なら、今日は用事があるからと早めに帰ったよ。何か用?」
「西洋美術辞典を貸していただけないかと思って」
「準備室の棚にあると思うよ、四段目かな。佐々木先生には明日言っておくから、持って帰りなさい。十日以内に返すこと」
「ありがとうございます!」
 村上先生は奥の窓を閉めながら、優しい目で頷いてくれた。
 美術室から直接準備室に入る。壁面の書棚は参考資料や画集、美術書がびっしりと並んでいた。四段目、探していた本の背表紙が見えた。結構高い位置に置いてるな。踏み台を持ってくるのも面倒で、爪先立ちで腕を伸ばした。もうちょい……よし、取れた。
 背表紙を掴んで引き出すと、その両側にあった本も一緒に落ちてきた。
「うわ!」
 バシバシと床にぶつかる本。あ、でも三冊だけだ、よかった。
 しゃがんで拾おうとしたとき、一番下の棚に目が向いた。きちんと並べられた本、その上に横置きされた薄い画集。こんな風に座って覗き込まないと、まず気づかないだろう。まるで、隠しているような ――― 。

 薄く埃が積もった本を、手に取った。右手で埃を払う。
表紙を見て、違和感を覚えた。違う、違和感というよりは ――― 既視感。この絵、どこかで。
 裏表紙も、表紙のようなデザインだった。表には「SASA」、裏には「SEI」のタイトル。セイ ――― 聖、ひじり。
 ざっと捲っていくと、真ん中にある見開きが著者紹介だった。背中合わせに座って、つないだ手の写真。切り取られたポートレートは、匂いたつほど艶やかで、それだけで写真の中の二人の親密さが伝わってきた。佐々木千代、里中聖。二人の指はしっかりと繋がっていた。
 その写真だけじゃない。二人で描いた作品で埋めつくされたページは、僕の想像をどんどん広げた。先生独特のあの色使いや、不安定な空間。里中さんの、自由で思い切りのいい筆運び。繊細に絡まった感性。 
 二人の軌跡が、ここに形として残っている。

 勘違いじゃない。嫌いだと態度で示しても、先生は確かに、こんなに深く里中さんを思っていた。いまも、その絆は切れていない。二人は再会してしまったのだから。
 じゃあ、僕は何だ。僕と先生の間にある、この不確かなつながりは、何?

 結局何も借りずに美術準備室を出た。追い立てられるように、自転車で先生の家に向った。
 もう日が暮れて、闇がせまってくる中、全力でペダルを漕いだ。
 十月の夜風は秋らしく、しだいに空気を冷やしていく。ついこの前まで「涼しいね」と言っていたのに、夜から冬に近づいていく。正面から吹き付けてくる風は強くて、天気予報で台風が来ていると言っていたのを思い出した。今年何個目の台風なのか、もうわからない。空が荒れる気配よりも、ざわざわと心が荒れて波立った。
 この予感を、消して。
 何でもいい、その場しのぎの嘘でもいいから ――― あの人より僕が大事だと、言って欲しい。



 マンションの201号室。息を切らせて見上げた部屋には、明かりがついていた。カーテンがちゃんと閉まっていない。暗闇に沈む景色の中、光に照らされた部屋は、イヤになるほどはっきり見えた。
 窓際で、先生が背中を向けている。近づく影を僕は知っている。抱き寄せた腕の持ち主を、知っている。
 瞬きもできずに見つめる先で、里中さんは先生にそっと口付けた。先生の手が彼の背中に回るところを見てしまった。抵抗もせずに、自然に重なる影を。
 僕の望みを、子供の夢だとあざ笑うような、そんな光景だった。
 気がついたら、もときた道を走っていた。何も見なかった。僕はここに来なかった。そう思いたいのに、ついさっき見た二人の姿が頭から離れない。

 好きな人には、休みの日でも偶然会えるよねと、女子が教室で騒いでたとき、圭一が「そんなの確率論だろ」と笑っていた。僕も、女の子はロマンチストだな、と一緒に笑っていたけれど、こんなシーンを偶然目撃する確率って、どれくらい低いんだろう。
 全然笑えない。
 秘密はいつだって魅惑的で残酷だ。

 夜風が目に当たって涙が滲んだ。わき腹が痛くなるくらい、必死に自転車を漕いだ。
 逃げろ。あの部屋から少しでも遠くに行って ――― 何も知らない昨日に戻れたらいいのに。
 急な坂道を立ち漕ぎで上ろうとしたら、途中で失速して倒れた。がちゃん、と自転車が派手な音を立てる。その近くにしゃがみこんだ。怪我はない。どこも痛くない。なのに、なんで涙が止まらないんだ?
 酸欠寸前の体は悲鳴をあげて、そのまま何度も咳き込んだ。荒い自分の息が、泣き声に変わるのを抑えられなかった。一瞬見上げた空に、弓月が滲む。

『 ――― 僕が卒業したら、彼女になってくれますか?』

 信じていた約束も、涙と一緒に風に舞って、消えた。


(Secret garden/END)
05.04.13

NEXT : BACK : INDEX : HOME  

Copyright © 2003-2005 Akemi Hoshina. All rights reserved.


inserted by FC2 system