少年ロマンス 第16話 ☆ Secret Garden(3) ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
翌日の放課後、久しぶりに図書館で勉強をしてから、美術室に行った。部活が終わるくらいに顔を出せば、後輩の邪魔にもならないからいいよね。 「失礼しまーす」 勢い込んでドアを開くと、村上先生が一人で戸締りをしていた。あ、もう終わってたのか。 「佐々木先生は……いらっしゃらないんですか?」 「ああ、東郷君。久しぶりだねぇ。 佐々木先生なら、今日は用事があるからと早めに帰ったよ。何か用?」 「西洋美術辞典を貸していただけないかと思って」 「準備室の棚にあると思うよ、四段目かな。佐々木先生には明日言っておくから、持って帰りなさい。十日以内に返すこと」 「ありがとうございます!」 村上先生は奥の窓を閉めながら、優しい目で頷いてくれた。 美術室から直接準備室に入る。壁面の書棚は参考資料や画集、美術書がびっしりと並んでいた。四段目、探していた本の背表紙が見えた。結構高い位置に置いてるな。踏み台を持ってくるのも面倒で、爪先立ちで腕を伸ばした。もうちょい……よし、取れた。 背表紙を掴んで引き出すと、その両側にあった本も一緒に落ちてきた。 「うわ!」 バシバシと床にぶつかる本。あ、でも三冊だけだ、よかった。 しゃがんで拾おうとしたとき、一番下の棚に目が向いた。きちんと並べられた本、その上に横置きされた薄い画集。こんな風に座って覗き込まないと、まず気づかないだろう。まるで、隠しているような ――― 。 薄く埃が積もった本を、手に取った。右手で埃を払う。 表紙を見て、違和感を覚えた。違う、違和感というよりは ――― 既視感。この絵、どこかで。 裏表紙も、表紙のようなデザインだった。表には「SASA」、裏には「SEI」のタイトル。セイ ――― 聖、ひじり。 ざっと捲っていくと、真ん中にある見開きが著者紹介だった。背中合わせに座って、つないだ手の写真。切り取られたポートレートは、匂いたつほど艶やかで、それだけで写真の中の二人の親密さが伝わってきた。佐々木千代、里中聖。二人の指はしっかりと繋がっていた。 その写真だけじゃない。二人で描いた作品で埋めつくされたページは、僕の想像をどんどん広げた。先生独特のあの色使いや、不安定な空間。里中さんの、自由で思い切りのいい筆運び。繊細に絡まった感性。 二人の軌跡が、ここに形として残っている。 勘違いじゃない。嫌いだと態度で示しても、先生は確かに、こんなに深く里中さんを思っていた。いまも、その絆は切れていない。二人は再会してしまったのだから。 じゃあ、僕は何だ。僕と先生の間にある、この不確かなつながりは、何? 結局何も借りずに美術準備室を出た。追い立てられるように、自転車で先生の家に向った。 もう日が暮れて、闇がせまってくる中、全力でペダルを漕いだ。 十月の夜風は秋らしく、しだいに空気を冷やしていく。ついこの前まで「涼しいね」と言っていたのに、夜から冬に近づいていく。正面から吹き付けてくる風は強くて、天気予報で台風が来ていると言っていたのを思い出した。今年何個目の台風なのか、もうわからない。空が荒れる気配よりも、ざわざわと心が荒れて波立った。 この予感を、消して。 何でもいい、その場しのぎの嘘でもいいから ――― あの人より僕が大事だと、言って欲しい。 マンションの201号室。息を切らせて見上げた部屋には、明かりがついていた。カーテンがちゃんと閉まっていない。暗闇に沈む景色の中、光に照らされた部屋は、イヤになるほどはっきり見えた。 窓際で、先生が背中を向けている。近づく影を僕は知っている。抱き寄せた腕の持ち主を、知っている。 瞬きもできずに見つめる先で、里中さんは先生にそっと口付けた。先生の手が彼の背中に回るところを見てしまった。抵抗もせずに、自然に重なる影を。 僕の望みを、子供の夢だとあざ笑うような、そんな光景だった。 気がついたら、もときた道を走っていた。何も見なかった。僕はここに来なかった。そう思いたいのに、ついさっき見た二人の姿が頭から離れない。 好きな人には、休みの日でも偶然会えるよねと、女子が教室で騒いでたとき、圭一が「そんなの確率論だろ」と笑っていた。僕も、女の子はロマンチストだな、と一緒に笑っていたけれど、こんなシーンを偶然目撃する確率って、どれくらい低いんだろう。 全然笑えない。 秘密はいつだって魅惑的で残酷だ。 夜風が目に当たって涙が滲んだ。わき腹が痛くなるくらい、必死に自転車を漕いだ。 逃げろ。あの部屋から少しでも遠くに行って ――― 何も知らない昨日に戻れたらいいのに。 急な坂道を立ち漕ぎで上ろうとしたら、途中で失速して倒れた。がちゃん、と自転車が派手な音を立てる。その近くにしゃがみこんだ。怪我はない。どこも痛くない。なのに、なんで涙が止まらないんだ? 酸欠寸前の体は悲鳴をあげて、そのまま何度も咳き込んだ。荒い自分の息が、泣き声に変わるのを抑えられなかった。一瞬見上げた空に、弓月が滲む。 『 ――― 僕が卒業したら、彼女になってくれますか?』 信じていた約束も、涙と一緒に風に舞って、消えた。 (Secret garden/END) 05.04.13 |