少年ロマンス
第14話 ☆ Secret Garden(1)

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 腕の中にあなたを抱いた 記憶は甘く刻まれて
 続く未来は希望に満ちて 疑うことさえ忘れた
 夏の終わりに現れたのは ひとりの麗人
 あらゆるものを魅了する 僕を覆い尽くす影



 いまとなっては夢に思える。

  「しゃんとしろ、コラ」
 兄さんの声に慌てて表情を引き締めた。土曜夕刻の「TOGO」店内。ピークを過ぎてちょっと空いたカフェの、窓際のテーブルに腰掛けているのは佐々木千代先生。向かいには書道の服部先生がいた。
 控えめな赤いピアスとか、右足首のアンクレットとか、真っ白なサブリナパンツにピアスと同じ色のミュール。濃いブラウンのサマーセーターは袖だけレースみたいな透かし編みで、素肌が垣間見えた。私服の先生は学校で会うより華やかでスタイリッシュ。つい、ぼーっと見とれてしまう。
 あの人が腕の中にいたんだよなぁ、と思い出すだけで、頭に血が上りそうになった。

 先生が帰国した日。
 先生の部屋で寄りそっていた僕たちを止めたのは、突然鳴り響いた携帯の着メロだった。
『この忙しいのに、ドコ行ってるの!? とっくにバイトの時間でしょうがっ』
 母さんからの怒りに満ちた呼び出しで、一瞬にして甘い雰囲気は消えた。
 先生は怒られてる僕を見て笑うし、フォローするにも時間は無くて、僕は「いいから、さっさと帰りな」と手を振る先生に歯痒さすら覚えながら、礼儀正しくお辞儀して帰るしかなかった。
 そして、そこから僕らの関係は全然変わってない。相変わらず学校では遠くから眺めるだけ。キスもしてない。はっきり言って、その後一ヶ月が経過しようとしているのに、二人きりになったことがない! 何か劇的な変化があったと感じたのは、僕の気のせいだったんでしょうか。
 あ、ひとつだけ変わったのは、先生が週に一度くらいの頻度で、店に来るようになったこと。一人だったり、今日みたいに服部先生と一緒だったり。大抵、土曜の夕方、学校帰り。僕がバイトでホールにいる時間に来るから、僕はそのテーブルの担当に熱意を燃やしていたりする。時々さっきみたいに先生に見惚れて、兄さんに叱られるけど。
 っと、そうだ。お客様への連絡事項があったんだ。忘れるとこだった。
 レジのところに置いてあるチラシを一枚手にとって、先生たちのテーブルに向かった。

「カフェ休業のお知らせ?」
 先生二人がテーブルに乗せた紙を覗き込んでつぶやく。
「ええ、十月中旬から一ヶ月間、カフェは休みます。最近、駐車場もホールも、手狭になってきたんで、思い切って改築することにしたんです。厨房はもう二階に新しく作ってるんで、ケーキのテイクアウトは今まで通りできます。是非ご自宅でウチのケーキをお楽しみ下さい」
「おー、東郷クン、営業トーク上手になったね」
 服部先生に褒められて、ちょっと気取って礼をした。
「その調子で英語も頑張って」
 佐々木先生の意地悪な台詞にグッと言葉が詰まる。僕なりに頑張ってるつもりだけど、なかなか点数に反映されない。言っとくけど、バイトに時間取られてるせいじゃないよ。週十時間も働いてないし。
 反論しようと口篭もっていると、後ろから兄さんが顔を出した。あ、またちょっと暇だからって厨房から出てきて!
「いつもご来店ありがとうございます。実は、ウチのパティシエの体調がよくなくて、それもあって急に改築って話になったんですよ」
「え、パティシエって、東郷のお姉さんでしょう。大丈夫なんですか?」
 佐々木先生の問いに、兄さんの顔が急にとろけそうな笑顔に変わった。あーもう、絶対、誰彼構わず話したくて出てきたに違いない。
「大丈夫なんですよ、全然。いや……子供がね、できたから。いま 悪阻つわり がひどくて厨房に立てないんです」

 そうなんだ。あの日、先生の家から帰って来た僕を迎えたのは、電話とは大違いのにこやかな母さんだった。僕より一足早く家についた姉さんが、「妊娠だって」と報告していたからだ。吐きまくってる姉さんにケーキが作れるわけもなく、今、厨房で働いてるのは、兄さんと以前この店で働いてたおばさんが二人。結構忙しい。
「そうなんですか。おめでとうございます」
 佐々木先生がいつもの艶のある声で言った。。
「おめでとうございますー。じゃあ、東郷も叔父さんになるんだ」
 確かに服部先生の言う通りなんだけど、やっぱり不思議な感じだ。姉さんのお腹の中に赤ちゃんがいるなんて。
「ありがとうございます。それで、ちょっと人手が足りないせいもあって、カフェだけお休みってことになったんです」
 兄さんの説明を阻もうと、僕はじろりと睨んでみた。でしゃばり過ぎだってば、本当に。それでもまだ兄さんはしゃべり足りないみたいで、べらべらと出産予定日だとか、父親になる喜びだとかを語りはじめた。常連さんみんなに語るつもりか、この人は。
 僕は、拳で兄さんの背中を叩くと、そのシャツをぐいと引っ張った。
「じゃあ、ごゆっくり」
 笑顔で先生たちに礼をして、厨房に戻る。

「先生たちは、ここにお茶しに来てるんだよ、兄さんの話を聞きにきてるわけじゃないの!」
「そうよ、恥ずかしいから止めて、本当に」
 二階へと続く階段の途中に、不機嫌な顔の姉さんが座っていた。相変わらずしんどそう。母親になるって大変だ。
「里中さんから電話あった。もう少しで着くって」
 里中。リフォーム後のデザインを頼んでいる、建築デザイナーの名前だった。最近、インテリア雑誌なんかにも名前が載ってる新鋭デザイナーらしい。手がけた店の写真を見た母さんが駄目元で連絡したら、一度会いましょうという話になった。今日、初めての顔合わせで、そのまま話がまとまればこの人に任せることになる。こっちに来る用事もあるからと、すぐにウチに来てくれるんだから、いい人っぽい。
「わかった。香織、上で休んでていいよ、伝言ありがと」
 兄さんはそう言って、子供にするみたいに姉さんの頭を撫でた。不機嫌だったその表情が、ちょっと笑う。あー、さりげなく愛情確認してるんですね。できれば二人きりのときにしてほしいな、そういう顔は。
 側で見てるのが馬鹿らしくなって、僕は再びホールに戻って、片隅に佇んでいた。今日は天気が悪いせいか、お客さんが少ない。窓の外は、今にも雨が降りそうに薄暗かった。

 佐々木先生が煙草に火をつけるのを、何気なく見ていた。服部先生の言葉に相槌を打って、細く煙を吐く。右手の指に挟んだ煙草の赤い火が、ガラスに映っていた。先生の仕草が、いちいち様になると感じるのは、僕が好意を抱いてるからだろうか。唇から煙草を離す、その横顔に見とれるのも。
 服部先生が席を立った。化粧室か。一人残された先生が、頬杖をついて目を伏せる。その表情が、一瞬翳ったのを、僕は見逃さなかった。すぐにいつものように煙草を咥えたけど ――― 何だ、今の。痛みを堪えているような、そんな感じ。
 疑問に思って先生をじっと見詰めていると、カランとドアが開く音が響いた。反射的に入り口を向いて、いらっしゃいませ、と言っていた。

 挨拶をした後、僕は思わずその人を凝視してしまった。
「こんにちは、 里中聖 さとなかひじりです。お約束していたのですが、オーナーの東郷和代さんはおられますか」
 流暢な日本語にものすごい違和感。だって、銀色に近い金髪はゆるく波打って額にかかり、顔立ちも完璧ヨーロッパ系。目の色はよく見えないけど、こげ茶っていうか、鳶色。ルネッサンス期の天使画を見てるみたいだ。正直、見惚れる。
 これで建築デザイナーって、謎だ。スタイルもいいし、モデルで食べていけると思うんですが。ジャケットの上からでもわかる肩幅の広さや胸板に、自分の華奢な体が悔しくなる。
「はじめまして、オーナーは私です。いらっしゃいませ」
 さすがに母さんは動揺もせず、空いているテーブルに里中さんを案内した。
 厨房の小窓から見てた兄さんも、彼の風貌に驚いていた。姉さんに至っては、いつの間にか母さんが移動したことで店員不在になったレジから、うっとりした視線を向けてるし。
 先生も見惚れてたりして―――と、そちらに目を向けると。
「千代」
 里中さんが、突然先生の名前を呼んだ。
 椅子に座ったまま、先生は顔を背けている。ガラスに映った横顔は、氷みたいな冷たい拒絶を示して、背中までぴりっと緊張が走っているようだった。
 今。千代、って。
 里中さんは、見開いていた目を優しく細めて、先生の座るテーブルに手を置いた。
「まさか初日に見つかるとは思わなかった」
 にこやかな天使と見まごう美貌の男と対照的に、佐々木先生はその存在を無視するように、全く動かなかった。顔さえ向けない。凍てついた空気に、周囲の人間は固まってしまっていた。もちろん、僕も。感情を押し殺して、それでも滲む動揺を感じた。

「何も言うことはないのかな。
 ――― それとも、もう夫の声も忘れた?」

 溜息と一緒にこぼれた里中さんの言葉は衝撃的で、僕は一瞬呼吸を止めた。
 降り始めた雨の音が、何かを追い立てるように響きはじめた。


05.03.26

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