逆転ロマンス
4■春なんかこなければいい。




 文化祭が終わると、一気に部員の気が抜けた。唯人も肩の力が抜けて、あれほど慌しかった日々が嘘のようだ。
 期末テスト前で、部活動は禁止。唯人は久しぶりに、ケーキ屋を営む実家で、のんびりと週末を過ごしていた。大学の頃から一人暮らしをしている。就職してからの方が、実家は近くなった。いつまでも怠けて寝ていると、仕事を手伝えと言われるので、着替えて庭に出た。犬の散歩ついでに、川原に遊びに行こうと思いつつ。
「ココ!」
 呼ぶと、庭のすみから茶色い影が駆けてきて、唯人に飛びついた。キャウ! という甲高い声を上げて尻尾を思い切り振る。ミニチュアダックスフンドのココは、家族になって五年になる。
 リードをつけて、車道に出た。店の表を歩いていくと、常連客がココを見つけて手を振ってきた。愛想よく笑顔を返して、唯人はココの頭を撫でた。フリスビーを忘れたことに気づいたが、川原に行けばそんなものなくても走り回るだろう。
 歩道を歩いていると、ジーンズのポケットで携帯が震えた。見覚えのない番号。しばらく迷ったあと、耳に当てた。
「もしもし」
『――先生? その犬の名前、何て言うの?』
 囁く声が信じられなくて、ぐるりとあたりを見回した。
「佐々木? どこから」
 立ち止まってしまった唯人を見上げて、ココはリードを引っ張った。キュウ、と鳴くけれど、唯人は一箇所を見つめてココのことなど見向きもしなかった。今出てきたばかりの店の前で、私服の佐々木が大きく手を振っていた。

 テーブルを挟んで、佐々木がミルフィーユを食べている。唯人はさっきから、彼女の唇の端についたカスタードクリームを、指でとってやりたいと思いながら眺めていた。自分の親の前で「東郷先生」と呼ばれて、なんだか照れた。教え子にミルフィーユをごちそうすると見せかけて、ただ見惚れている。
 私服を見たのは初めてだった。キャミソールの上に、薄手のニット。ブルーグレーのデニム地のミニスカートに、ロングブーツ。ダウンジャケットを脱ぐと思いのほか薄着で、唯人は寒くないだろうかと心配になった。ココはテーブルの下で、不機嫌に座り込んでいる。
「なんで実家まで知ってるの」
「生徒の間では、結構知られてますよー。東郷先生、人気者だから。実家のケーキ屋さんに行きたい、って言ってた子がいたから、場所聞いちゃった」
 文化祭が終わってから、三年で最後まで部活に来ていた千代も引退していた。寂しいとは、口が裂けても言えない立場で、それでも気持ちは正直だった。会いたかった。
「うまい?」
「うん、おいしいです」
 にこりと笑われれば、それだけで嬉しくなる。頬杖をついて、顔がニヤけないように注意して、彼女が食べ終わるまで眺めていた。
「それでね、先生にお願いがあるんだけど」
 うん? と唯人はできる限り普通の表情をしたつもりで、先を促した。
 傍から見れば嬉しがっていることが明白なのに、それで自分の気持ちが隠せていると信じている。千代はそういう唯人の嘘のつけなさが可愛くて、これで23歳なんて嘘だ、と内心思っていた。
「タクシーで来たら、帰りの交通費なくなっちゃった。送ってもらえませんか?」
 唯人がノーと言えるわけがなかった。

 車に乗った途端、唯人は二人きりだということを強く意識した。ただの部員、と心の中で繰り返して、ゆっくりアクセルを踏み込む。
「冬になっちゃいましたね」
 助手席で、千代が窓の外を眺めてぽつりとつぶやいた。学校の近くを通る。寂しげな桜並木。
「あ、先生は知らないのか、ここの桜。今年の春は開花が早かったから、先生がきたときには散ってたもんね。綺麗なんですよ。散り始めると、桜の花びらが白い絨毯みたいになるの」
 唯人は右手だけでハンドルを握った。左手の甲を自分の唇に当てる。千代から表情を隠したくて。
「別に見たくない。むしろ……春なんて、来なければいいと思ってるよ」
 
 桜が咲く頃には、もう君はここにいないから。

 千代は静かに唯人の横顔を見上げた。何も言えなくて、黙り込んでしまう。
 優しさの下で、時々不意に男を感じさせる唯人。どきりとして、自分が何をしたいのかわからなくなる。
「先生、時間ある?」
「まあ、特に用事もないけど」
 それじゃあ、と千代は無邪気さを装って、海を見に行きたいとお願いした。
 どこだってよかった。まだ側にいたいとは、口に出せないから。



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