逆転ロマンス
2■夏風




 新任の教師というのは、得てして生徒からなめられやすいものだが、東郷唯人先生も例に漏れず。
「唯ちゃーん! デッサンモデルしてあげようか。ヌードでもいいよん」
「……間に合ってます」
 バカにされるというよりは、可愛がられていた。
 美術部の構成員は女子六割、男子四割。唯人も話には聞いていたが、かなりレベルが高い。特に部長の千代の絵は独特で、異彩を放っていた。どこか冷めた雰囲気を纏う彼女からは想像できないほど、迫力がある。
 緊張と忙しさで一学期は瞬く間に過ぎていった。
 八月。夏休みの美術室は、窓を開け放しても暑い。唯人もTシャツに汗を滲ませて、ケント紙の水張りをしていた。その頬を流れる汗が、ぱたりと机の上に落ちる。

「東郷先生、休憩しましょう。麦茶飲みますか?」
「あるの?」
 千代に言われて、唯人はTシャツの肩で汗を拭った。自分の体が汗臭いのが気になる。
「作ってきたんですよ。保健室の冷蔵庫に入れさせてもらってたんです」
 プラスチックのコップに注がれた麦茶を一気に飲み干した。冷たさが心地いい。
 窓の外からはひっきりなしにセミの声。盆が近いせいか、部員は休みが多かった。一年の二人はジュースを買いに出て行ったきり、二十分経っても戻ってこない。グラウンド近くの自販機のところで、運動部と話しているのだと予想がついた。自宅で作品を作る生徒もいるくらいなので、別にいいかと唯人は特に怒る気もない。基本的には自主性に任せている。
 二人きりの、がらんとした美術室を、からからの夏風が渡っていく。椅子に座って麦茶を飲む千代を見ていた。両手はアクリル絵の具で汚れている。乾くまで放っておくから、水で洗ってもとれないのだろう。
「佐々木さんは、受験生なのに、一番部活に熱心だね。志望校は決まってるの?」
 千代はおかしそうに笑った。
「そうか、東郷先生は知らないんだっけ」
 うつむいた千代は、ふと真顔になった。赤や青に染まった自分の爪を見る。指と手の平で直接絵の具を塗るから、爪の間まで色が入ってしまっていた。
「私、卒業後は留学するんです。ヨーロッパに、絵の勉強に行くの。たくさん賞を獲ったところで、どうでもいいと思ってたけど、少しは得するものですね」
「へぇ……すごいな、その年齢で海外に行く決心するのは」
 唯人は素直に感嘆すると、汗をかいたペットボトルを掴んだ。二杯目を注いで、口に運ぶ。
「―――先生は、全部捨てて全く知らない場所に行きたいって思ったことなんか、ないんだろうね」
 ないな、と軽く答えて、唯人は入道雲を眺めた。千代の切れ長の目が自嘲気味に歪んだことも知らずに。

 昼になったので、軽く用具を片付けて美術室を出た。唯人はその足で、同じ階にある保健室に向かった。麦茶の残りを冷やしておいてもらうために。
「失礼します」
「あ、東郷先生。こんにちは、今日も暑いですね」
 ノースリーブのワンピースの上から白衣を羽織って、辻真咲は鮮やかな笑顔を浮かべた。校内の男子全てを虜にしている保険医は、唯人にとっては優しいお姉さんのような存在だった。
冷房の効いた保健室はまさに天国で、唯人は思わずエアコンの真下で冷風を浴びた。
「冷蔵庫に麦茶いれさせてください」
「どうぞ。今日は、部活に来てる子も少ないでしょう?」
「盆前ですから。家族で旅行に行ってる子もいるみたいで、羨ましい限りです」
 ハンドタオルで汗を拭って、唯人はふと先ほどの千代の言葉を思い出した。
「そういえば、ウチの部長の佐々木、卒業後は留学決まってるそうですね。本人に聞いたんですが、みんな知ってることなんですか?」
 ああ、と辻は困ったように右手の人差し指で顎を撫でた。
「―――まあ、ほとんど知ってるでしょうね。留学って言っていいのか、悩むところですけど」
 どういうことだ? と首を傾げた唯人に、辻は迷いながらも教えてくれた。
「いずれ東郷先生の耳にも入ることだから言いますけど、あの子のこと誤解しないで下さいね。
 佐々木さん、高校一年のときに、かけおちしようとしたんです……結局すぐに連れ戻されたんですけど。相手は今イタリアにいます。卒業したら、すぐに追いかけるつもりなんですよ、彼女」

 なんて情熱的なんだ、と唯人は半分あきれた。あとの半分は、相手の男がうらやましかった。
 学校近くのコンビニで冷やし中華を買って帰る途中、急にしゃがんでしまいたくなった。思った以上にショックを受けている自分の、隠れた気持ちに気づいたのは、校門から出てくる千代を見つけたとき。
(この40度近い気温のなか、駆け寄って抱きしめたくなるなんて、正気の沙汰じゃない)
 横断歩道を挟んで、『東郷先生』と呼びかけられて、心臓が跳ね上がる。勘弁して欲しい。死んでしまうじゃないか。
 八月晴天。弱々しく手を振る東郷先生の心のうちは、涙雨。


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