逆転ロマンス
1■はじめまして



 四月になったばかりの土曜日。春休みだというのに、それでも校内は活気に満ちていた。運動部の声、補習に出てきた生徒が午後になると駆け出していく。そのうちの一人とぶつかりそうになりながら、彼は校舎内に足を踏み入れた。
 灰色のコンクリートの床をゆっくりと進む。さきほど見たばかりの校舎内の見取り図を頭に思い浮かべていた。目指すのは、第三教棟の一階、東側。きょろきょろとあたりを見回して進むと、目当ての教室はドアが開け放しになっていた。
(あれ? 鍵はここにあるのに)
 首を傾げつつ、中をのぞいた。小春日和とはいえ、まだ建物の中は寒い。
「誰かいる?」
 我ながら間抜けな問いを口にすると、教室の奥から物音がした。びく、と彼の足が止まる。雑然とした置物の間から、ひょこりと少女の顔がのぞいたからだ。少女はそのまま、獲物を観察するサバンナの肉食獣のように、じっと動かずに彼を見据えた。冷静に。
「―――あの、僕は」
 別にやましいこともないのに、彼はわたわたと気をつけの姿勢になった。背筋を伸ばして、それから、やっぱり自分がこんな風に挙動不審になる必要はないよな、と我に返って、くしゃりと頭をかいた。
「今年から、ここで美術を教えることになった東郷といいます。君は?」
「新任の先生? 転校生かと思った」
 少女は、年齢に不釣合いな、淡々とした話し方をした。硬質な声が、空の教室に響く。童顔を自覚している彼は、ぐっと言葉に詰まった。
「ちょうどよかった。備品の整理、一人じゃ大変だったの。手伝ってもらえます?」
 少女は腕まくりした細い腕で、ぐいと彼の手をひっぱった。
(いや、だから、君は誰なのかわからないんだけど)
 近くで見ると、少女は思いのほか整った顔立ちをしていた。切れ長の細い目は艶やかだ。そこに立っているだけなら人目を惹く外見なのだろうが、なにやら纏う空気が鋭い。近づきすぎるとまずいぞと、彼の本能が警鐘を鳴らした。
 それでも、どうしてか目が離れなくて。

「名前は?」
「……先生、ナンパ?」
「どういう解釈を……そうじゃなくて、どうして一人で片付けしてるの。美術部の子?」
 うろたえる新任教師を、面白そうに眺めて、少女はえりあしで切りそろえた髪を耳にかけた。黒髪。いまどき珍しい、絵に描いたようなおかっぱ頭。それが逆にこの子の年齢を錯覚させる。
「美術部の部長で、佐々木千代です。よろしく、東郷先生」
 あ、こちらこそ、と挨拶をして、彼はそのまま備品の片付けを手伝った。
 途中で、電話をかけてきますと出て行った千代は、なかなか帰ってこなかった。片付けを押し付けて帰ってしまったのだと、新米の先生が気づいたのは、一時間ほど経過した夕刻のこと。


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