少年ロマンス
第8話 ☆ SWEET REVENGE(2)

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 自転車を止めて、三階建てのマンションを見上げると、建物の向うに少し欠けた月が見えた。手の中に握り締めていたメモを開いて、教えられた部屋番号をまた確かめる。家を出てから何度も見たから、もう覚えているのに。

 あの後、佐々木先生の三月以降の予定が気になって上の空だった僕は、先生たちが会計を済ませて出て行っても不安が消えなかった。だから、遅番のバイトと交代して、自分の部屋に帰ってはじめて先生にキャンディを渡し忘れたことに気付いたんだ。
 明日、学校で渡せばいいと思っていた。夕食を食べて、レンタルしてきたDVDを見ていたけど、映画の内容なんて全く頭に入らなかった。
 佐々木先生は、確かウチの学校に来て三年目だったはず。異動になってもおかしくはない。僕が卒業する前に先生がいなくなるなんて、考えたことも無かった。可能性はゼロじゃなかったのに。
 ――― 先生と過ごせる期間が、あとわずかだとしたら。

 僕は携帯に手を伸ばすと、迷わず佐々木先生に電話していた。
 届けたいものがあるから、今から行ってもいいですか。そう言うと、先生は少しの沈黙の後、住所を教えてくれた。
 そして、僕は今、先生の住むマンションを見上げている。早春の、まだ肌寒い風を頬に感じながら。



 ドアには、201、と書かれたプレート。佐々木先生の名前は出ていなかった。ドキドキしながらインターフォンを押して、ドアが開くのを待つ。
 低く鍵を開ける音が響いて、あっさりと佐々木先生が姿を現した。
「こんばんは」
 とりあえず笑顔で挨拶してみたのはいいけれど言葉が続かない僕を見て、先生はおかしそうに笑う。
「……とりあえず、入れば? 寒いし」
 素直に言葉に甘えることにした。

 入ってすぐにダイニングキッチンがあったけれど、そこは料理の為には使われていなかった。僕は思いがけない光景に不安も忘れて、バカみたいに突っ立っていた。
 玄関を入った途端、先生の姿に違和感を覚えたんだ。先生が腰に巻いている黒いエプロンの汚れは、どうしたって料理でつく色じゃなかったから。茜、群青、青みがかった白……絵の具だった。
 床には汚れ防止のブルーシートが敷かれていて、その上に大きな白いパネル。その上には、力強い色彩が踊っている。いつもマニキュアで綺麗に彩られている先生の爪は、今は落としきれなかったアクリル絵の具が固まってこびりついていた。
「家でも描いてるんですね」
「ここがアタシのアトリエだから。誰にも邪魔されず、好きなだけ集中できる」
 ブルーシートの上には、所狭しと紙パレットが広げられていた。そうだ、この人、基本的に筆では彩色しないんだった。最初は筆やナイフでも、いつの間にか指に絵の具つけて思い切りよく描いちゃうんだ。そのくせ、出来上がった作品は柔らかくて暖かい印象なんだから。
「いつも不思議なんですけど、先生って下書きしないですよね。どうやってイメージ通りにしてるんですか?」
「下書き、昔はしてたよ。でも、いくら丁寧に下書きしても、彩色してるうちに違う絵になっちゃうんだな、なぜか。そのとき描きたいように色を選ぶし、主線にこだわらないから」
 だから型にはまらないモノが出来るのかもしれない。僕は、そういう描き方は出来ないだろう。僕の色彩は淡い。先生とはスタイルが違う。
「……今日、ありがとうございました。ウチの店に来てくれて」
「服部先生に感謝しなきゃね。コーヒーもおいしかったし、ウェイターの唯人も見えたし」
 先生はからかうような視線で僕を見たけれど、すぐに真顔になった。僕があまりにも思いつめた顔をしていたせいだと思う。不安が溢れてどうしようもなかった。店で会ったときと一緒だ。
 先生の前で心を隠せるほど、僕は大人になりきれない。
「……何、泣きそうな顔してるの」
「佐々木先生、四月で異動になるんですか?」
「耳が早いな。もう知ってるんだ」
 思い切って問い掛けたのに、先生は飄々としている。やっぱり聞き間違いなんかじゃなかった。

 ――― 僕と離れて、平気ですか?

 訊くまでもない。だって、僕にはそのことを教えてくれなかったんだから。
 約束は卒業してからのこと。それだって、告白する権利が出来るというだけだ。先生が僕を相手にしてくれるかどうか、未だにわからない。
 僕に向かって、夢中にさせてみなさいよ、と笑ったあのときの先生の笑顔を、僕はこんなにはっきり覚えてるのに。
「……先生とした約束、もう無効ですね」
 先生から目をそらせて、描きかけのパネルをじっと見た。朧な色彩は重なって、集まって、何かを形作ろうとして止まっていた。手にしたままの先生へのプレゼントは、ここへ来るための言い訳を果たして、なんだか重かった。
 長い沈黙の後で、佐々木先生は突然僕の肩を叩いた。振り向くと、先生の指が頬を突いた。昔よくやったイタズラ。唖然としている僕とは対照的に、先生の顔には余裕の笑みが浮かんでいる。心なしか、嬉しそうに。
「ばぁか。何か勘違いしてるでしょう。
 異動って言っても、他校に移るわけじゃないよ。四月から新設の学科できるの、知ってるでしょう?」
 言われて頷いた。コンピュータプログラミングと、デザインに特化した学科が一クラスできるのは、半年前から生徒にも知らされていたから。その為に、図書室の隣にコンピュータ室が出来たんだ。大幅な改装が終わって、リンゴのマークがついたパソコン40台とグラフィク・デザイン用の大型プリンタが搬入されたのは、つい最近のこと。
「そのクラスの担任は、もちろん村上先生なんだけど、アタシも二年の副担することになってね。他言して欲しくはないんだけど。
 デザイン科はほぼ毎日美術の授業がある。アタシも村上先生と一緒に指導しなきゃならないから、CGの勉強もやってるし、四月以降しばらくは馬鹿みたいに忙しいと思う」
 ちなみに、と先生は付け足した。
「もし学校変わることになったら、唯人には言うよ。内示が出た段階で、君には言う」

 その言葉を……どう受け止めればいいのか、迷った。
 僕だけが先生を想ってるんじゃないと、まだ自惚れていいんだろうか。そうであるといい。今は明らかにならなくても、あと一年側にいられれば、その先は動き出すから。
 僕はすっきりとした気分で、先生にずっと持っていた小さな紙袋を差し出した。
「これを渡したくて来たんです。ホワイトデーだから」
 先生は袋のリボンを外して、中に入っていたキャンディの缶を取り出した。缶に描かれたイラストをしげしげと眺める。
「ロックウェルみたいな絵だね。食べ終わったら、インテリアに使うよ、ありがとう」
 よかった、喜んでもらえた。実は内心、お返しなんていらないと言われるかな、と思ってたんだ。
 目的を全部果たして、僕は満足して先生に笑いかけた。先生の家に押しかけたこと自体、ルール違反だし、もう帰ろう。
「夜遅くに、すいませんでした。また明日」
 軽く頭を下げた瞬間、先生の声が僕の耳元で聞こえた。
「唯人」
 足元を見ていた。視界に、近づいた先生のつま先。スリッパなんか履いてない。素足にペディキュア、真珠みたいに輝く十の爪には淡い花が咲いていた。近すぎる声に頭がくらくらした。
「約束を覚えてる?」
 忘れたことなんて無い。顔を上げて、正面から先生の目を見た。
「覚えてます。先生こそ忘れないで下さいね ――― 卒業式終わったら、すぐに会いに行きますから」
 意外なことに、先生はふっと目線を下げた。かすかに笑う。
「二年半も待つなんて、馬鹿みたいなことを言うと思ってたのに、あっという間に一年半だ。どうしようか?」
 僕は知ってる。みんなキツいとか冷たいとか思ってる先生が、実はこっそり可愛い面を持ってること。時々垣間見えるそういうところに、すごく心が苦しくなる。抱きしめたくなる。だから、こんな風に至近距離で学校では絶対見せない柔らかい表情を見せられると ――― いくら気の長い僕でも、限界。
 考えるより先に手が動いて、先生の頬に触れていた。指が髪に潜って耳を掠める。
 先生は何も言わなかった。驚く様子もない。さあどうするのと、問うような視線。バレンタインの美術室を思い出す。いつだって僕を試すんだから、歯痒くなる。そして、そんな余裕に更に惹かれるのも本音。
 手の平から伝わる体温に心臓を高鳴らせ、そのままキスしたい衝動を意地で押さえて、僕は半歩先生に近づくと、その額に軽く唇を押し当てた。

 離れると先生は、今何が起こったのかわからないというように瞬きしていた。ああ、本当、見たこと無いから、こんな先生。いくら本人が否定しようと、可愛いものは可愛いんだ! 
「ちゃんとしたキスは、来年のホワイトデーにさせてもらいます」
 なんだか僕の方が余裕で、調子にのってそう言うと、容赦なく先生のデコピンを食らった。
「生意気なことを」
 あからさまに不機嫌になって、先生は棚のシガレットケースを取ると、いつものラッキーストライクを一本咥えた。その仕草が照れ隠しに見えて、僕は先生に悟られない程度に気を良くする。結局、その五分後に先生の家を出るまで、僕はずっと笑っていたし、先生はずっと不機嫌だった。



 マンションの階段を下りて自転車に跨るとき、梅の香りがした。来るときは全然気付かなかったのに。
 夜の肌寒い風も火照った頬には心地よくて、僕は叫び出したいくらい嬉しい気分で力いっぱいペダルを踏み込み、満開の梅が遠くにぼんやりと白く浮かぶのを見つめながら、一年後の春に思いを馳せた。


(SWEET REVENGE/END)
04.03.15

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