少年ロマンス
番外編/星の川をわたろう




 貴方に会うまで忘れていたわ。
 あの七夕月の夜、初めてキスを交わしたこと。



 佐々木千代は、カプチーノの軽快なエンジン音を楽しみながら、夏木立の影を縫って走った。
 橋にさしかかったとき、ふと川辺に視線を向けた。サングラス越しに、見覚えのある人影が視界をかすめた。向こうもこっちを見つめていた。走り抜けるはずの道を、わき道に逸れた。ゆるやかな下り坂は、河川敷の駐車場に続いている。予想していた車が停まっていた。ワインレッドのサーフ。その隣に車を停める。
 千代が運転席を下りる間も、彼は視線を逸らさなかった。
「……イイ女になったなぁ、千代」
 まぶしそうに見上げてくる、優しい目。
 千代はサングラスを外して、彼を見た。心のどこかでほんの少しだけ、駆けよって抱きつきたい衝動に駆られたけれど、無視してあえてゆっくりと階段を降りた。水面に両足を浸した彼と、階段二段分の幅を隔てて、対峙した。
「甲斐は、おっさんになったね。何、そのお腹」
 ほっとけ、とほがらかに笑った顔は記憶のままで、愛しさを覚えた。それは懐かしさと繋がった感情で、明らかに過去のもの。
 五年ぶりに会った従兄弟の佐々木甲斐は、二歳になったばかりの愛娘を腕に抱いて、複雑な笑みを千代に向けた。

 橋から車で五分もかからないところに、目的の場所はあった。長い白塀が続いて、真ん中に時代がかった門がある。両開きの扉は開け放たれて、広い庭の飛び石が見えた。
 三人は連れ立って、庭を歩いた。
「本当に、久しぶりだな」
 会話の間に、ピコピコと靴が鳴る音がした。甲斐の娘は、飛び石の間に落ちたら死にそうな勢いで、一生懸命父親の手にしがみついていた。見ているだけで怖い、危なっかしい足取りを、千代は興味深く見ていた。
「本当は今年も来たくなかったんだけどね……本家は嫌いだ」
「俺も、苦手だ」
 馬鹿みたいに広いこの家は、千代の父の生家だ。昔は華族だったか士族だったか知らないが、正直言って、本家の気位の高さには虫唾が走った。
「……もう誰も、あの話はしないよ」
「別に、気にしてない」
 清々しい空気を肺に満たしながら、千代の表情は硬かった。親類の陰口に傷つくほどヤワじゃない。逆に、もう聞き飽きた。そろそろ新しいバリエーションを考えて欲しいくらいだ。
「明日、法事が終わったらすぐ帰るから」
「 ―― そうか」
 甲斐の声に潜んだ寂しさに、気付かないフリをした。



 千代も昔は、本家に行くのが楽しみだった。夏休み、二週間はいつもここで過ごしていた。親類が多かったので、年の近い子供が何人かいた。中でも楽しみだったのは、六つ年上の従兄弟である甲斐に会えること。
 甲斐は、無口で何を考えているのかわからない青年だった。だが、千代には優しかった。絵を描いたり、散歩に行ったり、一人遊びが好きな子供だった千代が、唯一懐いた相手だった。当たり前だ、幼い頃から、千代は彼が好きだったのだから。

「千代」
 彼女が離れの二階の座敷でうとうとしていると、彼が起こしに来た。記憶より低い声だった。三十三歳の甲斐は、落ち着いた男の色気さえ備えていた。
「もう晩飯だよ」
 遠くから人の声が響いていた。古い木造建築の家は、人の気配を伝えやすい。皆、母屋に集まっているのだろう。離れには、二人の他に誰もいない。蒸し暑い初夏の夕暮れ。甲斐は千代の側に膝をついて、そっと彼女の髪を撫でた。
「……今更?」
 千代は薄く目を開いて、甲斐を見つめた。
「そうだな……今更、か」
 皮の厚い、大きな手の平が睫をかすめて額に触れた。汗をかいていた。
「甲斐」
 目を閉じても、何も起こらない。もう、私たちは大人になったのだ。衝動に任せて抱き合うには理性を得てしまったし、相手の気持ちに気付かないほど子供ではない。
「……千代の側にいると、壊れそうになるな」
 だからずっと、会わなかったのに。もう何もかも、戻りはしないから。



 千代が十四歳のときのこと。
 夜中に本家を抜け出す彼に気付いたのは、月の明るい夜更けだった。
 大学一年の甲斐は、サンダルをひっかけて、十六夜月に照らされた小道を迷い無く歩いていった。後ろに千代が付いてきていることなど、気付きもせずに。
 岩と石がゴロゴロしている川原に辿りつくと、そのまま足を投げ出してポケットをさぐった。くたびれた煙草を取り出して、一本口にくわえた。ポッとライターの明かりが灯る。
「甲斐」
 千代の声に、甲斐はぎくりと肩をこわばらせた。
「月夜の散歩なんて風流だと思ったのに、隠れてタバコ吸いに来ただけ?」
「……付いてきたのか」
 ノースリーブのワンピースを纏った千代は、ためらいなく甲斐の隣に腰を下ろした。まだ子供だ、と自分に言い聞かせる彼の冷静さをあざ笑うように、月明かりに照らされた千代の横顔は大人びて、女を感じさせた。細い切れ長の瞳はミステリアスで、気持ちを隠そうともしない。
 親戚の大人たちの前では、「従兄弟のお兄ちゃんに甘える少女」を演じていても、ときおり甲斐を見つめる視線は、まぎれもなく女のものだった。甲斐の本能は、それを感じていた。
 気のせいだと視線を逸らす甲斐を、逃がさないと見つめる千代。夜の川原で、二人肩を並べて、何も喋らなかった。何が引きがねになるかわからない。
 川の中に漬けた足が、かすかに触れた。水の中で、足を重ねる。冷えきっていた肌は、次第に互いの体温を伝え合い、熱を帯びた。その熱は水をすり抜けて、確実に二人を近づけ、痺れるような心地よさを教えた。
 半そでのTシャツから伸びる、甲斐のよく焼けた腕に、千代の指が触れた。
「……っ、なんで来たんだ」
 見上げてくる千代の小さな唇に、甲斐は自分の唇を押し当てた。触れればなお感じる、幼い体の線。孵る直前のさなぎのように、女になりきれず、さりとて子供では無く。
 千代はただ彼の肩にしがみついていた。熱い舌が唇をこじ開けて入って来たとき、驚いて歯を立てた。口の中に広がった血の味は、彼の舌によって更に深く口内に残った。
「甲斐……」
 唇を重ねたまま、吐息を零す拍子に名前を呼ぶと、魔法が解けたように彼の体は勢いよく千代から離れた。

 さらさらと、せせらぎは響いていた。
 黒い川面には、星と月が映って、月光を隠す雲がふわふわと漂うなか、千代は赤く染まった唇を薄く開いたまま、駆けていく甲斐の背中を見つめていた。

 もう一度、ここへ来て。待っているから。今しかないから。
 早く、はやく、戻ってきて ―― もう一度、強く抱いてよ。

 願いは叶う事は無く、千代はしばらくして一人部屋に戻った。翌日、甲斐は朝早くに本家を発ち、それから七年間、千代の前に姿を現すことはなかった。
 再会したとき、千代は二十一、甲斐は二十七。羽織袴姿の彼の隣で、千代の知らない女が、花嫁姿で微笑んでいた。



 七夕を過ぎて、更に日が長くなっていた。
 夕食後、本家の庭では、子供たちが花火を手に歓声を上げていた。千代は愛用のシガレットケース片手に、からりと下駄を鳴らして門の外に出た。馴れ合いの会話は嫌いだし、あえて親族と親しくなろうとは思わない。
 あの夜、彼の後ろをついて歩いた道は、舗装済みの道路になっていた。川原は整地され、無機質なコンクリートの階段へと姿を変えた。風情も艶もない。
 渡る風の涼しさだけが、昔のままだった。

 下駄の音に振り返ると、甲斐が立っていた。広い肩幅。カラコロと、下駄が鳴る。
「……本当に、今更だね。遅いにも程がある」
 肩に触れる長さの千代の髪が、さぁ、と風に靡いた。左手の指に煙草を挟んだまま、千代は髪を押さえた。甲斐が隣に並んで、風を遮った。
 
「 ―― お前は、怖くなかったのか?」
 薄い闇の中で、甲斐の表情はぼやけていた。闇が、本心を語ることを助けた。
「……何を怖がるの。怖くなんか、なかった。年が離れていても、血が近くても、互いが惹かれていれば、それだけで平気だったよ」
「俺は、怖かった。千代の……迷いの無さも」
 だから逃げたの、と問うのは簡単だった。だが、それで過去が変わるわけではない。二人ともあの頃には戻れないし、千代は戻りたいとも思わなかった。目の前にいる男に、未練はない。
「いいの。もう、昔のことだから。
 ―― 今の甲斐に出来るのは、アタシのタバコに火をつけることぐらいだね」
 甲斐は苦笑を浮かべて、千代の差し出したジッポーを手にした。
 千代は、無言のまま、口に咥えた煙草を近づける。伏せた睫も、その下の艶めいた眼差しも、揺れる明かりに浮かび上がって、炎が消えると同時に薄闇に溶けた。
「甲斐、いいパパみたいね」
 彼は、子供が出来たと同時に煙草をやめていた。妻は臨月で、実家に帰っている。
「……大事な人は、いないのか?」
 気遣う声に、千代は薄い笑みを浮かべた。くっきりとルージュを引いた唇から、細く煙を吐き出す。立ち昇る紫煙は、天の川に吸い込まれるように消えた。
「 ―― どうかな。すごく可愛くて、まっすぐ好きだって言ってくれる人は、いるけど」
 思い出すだけで、微笑みをくれる人。

 見上げれば、空を横切る天の川。川面に映る、星の群れ。
 かつて渡ることのできなかった、恋の川。

 君は渡ってくれるだろうか。年の差も、立場も、距離も、そんなのはどうでもいいこと。ただ、お互いが想い合っていれば、それでいい。
 まだ先はわからなくて、愛することを信じられなくて、怖くなるけれど。

 ―― 君は、渡ってくれるだろうか。
 何もかも飛び越えて、私のもとへ。


(星の川をわたろう/END)
本編二章、花火デートの頃の、千代の話。
04.09.29

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