少年ロマンス
番外編/触りたいけど、今は




 側にいられるその日まで
 毎日がカウントダウン



 第一希望の大学の合格発表の日。
 僕は白い息を吐きながら、学校から続く坂を下っていた。担任と美術の先生に、結果報告に行った帰り道。手の中の携帯電話で、さっき読んだばかりのメールをもう一度開く。

『合格おめでとう。
 ちゃんとしたお祝いは卒業後にして、とりあえず、ご褒美に映画でも見に行きますか?』

 送信者欄には、『千代』の二文字。さっき会ったばかりなのに、なぜか実際に交わした会話よりも、このメールの方が嬉しい。マフラーに埋めた口元が、つい笑ってしまう。やばい。思い出し笑いなんかしてたら、帰って姉さんに何を言われるか。
 浅く雪が積もった歩道を踏みしめて帰ると、店のカウンター席に、見知った顔が並んでいた。
「唯ちゃん、合格おめでとーう!」
 三年間腐れ縁で親友になってしまった紺野圭一と、その他三名の声に迎えられる。パン! とクラッカーの音が響いて、思わず声をあげてしまった。いきなり鳴らすなよ、びっくりするから!
「帰ってくるの遅いよ、お前。俺ら、ネットで合格発表見て、すぐ飛んできたのに」
「学校に報告行ってたんだよ。待たせてすいませんでした!」
 特に約束もしてなかったのに、こっちが悪いような気分になる。マフラーとコートを脱いで、僕も圭一の隣に座った。みんなケーキセットを食べている。僕が帰ってくるまで、母さんと話していたらしい。平日の昼間、主婦層で埋まった店内は話し声があふれていて、僕たちも遠慮なく声高に話せた。
「先生たち、いた?」
「休み時間狙ってた行ったから、村上先生も佐々木先生もいたよ」
「あれ、まだ千代ちゃんのこと諦めてないの? 卒業後なんて、会う機会もないよー?」
 女子の一人に言われて、曖昧に笑ってごまかしてしまった。諦めるも何も、卒業して初めてスタートラインに立てるのに。そんなことないよ、と先生からのメールを見せたくなる。やらないけど。
「そういえば、2組の小鷹さん知ってる? バスケ部の。就職組だったけど、内定蹴ったんだって。四月に結婚するらしいよ」
「 ――― それって」
「妊娠二ヶ月。リアルだよね!」
 知ってる子だった。文化祭のとき、ネイルアートで蝶を描いてあげたら、すごく喜んでた。僕より背が高くて、スタイルのいい女の子だ。同じ年の子が結婚して、子供もできる。もう、それが不思議じゃない年齢なのか。
 まだまだ、あの人には追いつけないのに。
 


 合格発表の翌日、僕は先生とコンビニで待ち合わせた。去年の夏、美術館に行くときに待ち合わせた、あのコンビニだ。夜八時の空は、真夜中と変わらない。星座の位置が違うだけだ。真っ暗で、白い息がはっきり見える。
「待たせてゴメン」
 駐車場にすべりこんできたカプチーノの助手席に座ると、寒さにこわばっていた肩から力が抜けた。あったかい。
「体冷えてるね。中で待ってればよかったのに」
 ちょい、と軽く頬を撫でられて、首筋がゾワッとした。びくつく僕を見て、先生が楽しそうに笑う。その反応に、ちょっとムッとした。これでも少しは背も伸びたし、それなりに男扱いされるようになったんだ。まだ誕生日がきてないから、17歳だけど。
 赤くなった耳を隠すように帽子を深くかぶって、僕はほんの少し唇を噛んだ。



 映画館の後ろから三列目のど真ん中で、僕は沈んだ気持ちでうなだれていた。手の中の紙コップから、甘いココアの香りが届く。隣で先生は肩を震わせていた。
「そう落ち込まないの。いいじゃない、若く見られて」
 言う声が笑いをこらえて上擦っている。あー、いいですよ。気が済むまで笑ってください。

 先生が見たいと言った映画は、公開終了間近のクライム・ムービー。レイトショーだからか、館内はほぼ貸切。前のほうに数人座っているけれど、僕らの前後の列はガラガラだった。
 一度映画館に入ってから、パンフレットを買いにホールに出た。先生は飲み物を買ってくると言って離れていた。そのとき、背広姿のおじさんがおもむろに僕に近づいてきて、こう言ったのだ。
「こんな時間まで遊んでちゃいかんだろ。学校名と氏名を言いなさい。どこの中学だ」
 死角になっていた男の腕に、腕章が見えた。補導員。
 先生が僕を身内だと言い、保護者同伴なら、と補導員もにこやかに去っていった。それにしたって、中学生って……!! 僕のプライドはズタズタだ。どうせ童顔だよ、一人じゃ映画も見えませんよ!

 映画館の明かりが消えて、近日公開の予告編が始まると、ようやく先生は笑うのを止めた。ふてくされてスクリーンを睨みつけることしかできない。手の中で、脱いだ帽子を弄んでいると、先生の手が伸びてきて、あっさりと奪われた。
「 ――― いや、笑ってゴメンね。あまりにも面白かったから」
 フォローになってません。
 言い返そうとして横を見たら、まっすぐコッチを見ている先生の顔がびっくりするぐらい近くにあった。じんわりと嬉しさが滲んでるような、そんな笑顔。スクリーンからの光に照らされて、顔の右側しか見えない。明るいところで、正面から見たかった。その表情をさせたのが、僕なんだと思うと、頬が熱くなる。
 肘掛けに置いてた手に、軽く先生の指先が触れる。冷たい。女の人の手って、どうしてこんなに気温と連動するんだろう。
 携帯電話をお切りください、と新作映画の主人公が訴えていた。暗がりでそっと細い指先を握った。少しずつ先生の手が温かくなっていく。僕の体温に同調していく。先生は何も動じずに、涼しい顔でスクリーンを見つめていた。
 握った手と、触れるか触れないかの肩。そっと隣を見ると、長い睫が見えた。

 今はまだ、抱きしめることもできない。
 ずっと願っていた日は、来週。卒業式が終わるまで、僕が許されるのはここまで。



 エンドロールになると、ほとんどの客が席を立った。時間は夜の11時。早く帰る人が多いのも頷けた。
 そんな中、先生は立ち上がるそぶりも見せない。穏やかな曲が流れる映画館には、僕と先生の二人だけが残された。
 知っている曲なのか、先生の唇は流れる曲を小さく口ずさんでいる。左手は僕と繋いだまま、右手は頬杖をついて。二時間近く緊張してた僕は、肩がばきばきになっていた。
「唯人」
「はい?」
「 ――― 卒業したら、って君はずっと言ってたけど、卒業式の後はどうするつもりなの。
 最初から、アタシに誘わせるつもり?」
 至近距離で、切れ長の目が容赦なく僕を責めた。どこか楽しんでいる声に、慌てて首を振る。
「先生の都合、聞いてなかったけど ――― 会いに行きたいです。都合悪い、ですか?」
「……じゃあ、夜おいで。卒業祝いしてあげるから」
 ぽすん、と僕の肩に頭を預けて、先生は小さな声でつぶやいた。目を見開いた僕の心臓が馬鹿みたいに鳴ってるのに、先生は構わずに目を閉じる。肩を抱きたい。ぎゅってしたい。触れた部分から体温が上がっていく。
 はい、と答えて、熱くなった手の平でもう一度先生の手を強く握ると、耳元で密かな笑い声が聞こえた。

 高校三年、如月も終わりの寒い夜。
 それは、僕が彼女の返事を聞く四日前の出来事。


(触りたいけど、今は/END)
05.11.25

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