少年ロマンス
番外編/蛍に出会った頃




 橋の上からふわりふわりと揺れる光を見つめていた。
 隣の人の手をぎゅっと握って、あれは何、とつぶやいた幼い日。
 ―――蛍だよ。下手に捕まえると死んでしまうから、そっと見ててごらん。
 彼の言葉に頷いて、ただ、見とれた。
 ほのかな光が美しいのは、手に入れることができないからだと、子供心に理解していた。


 夕暮れ時にはあれほど飛び回っていた虫たちも、空気が夜の温度になると、どこかへ姿を消してしまう。代わりに草むらあたりをふわふわと舞う光があった。残光を引くように近くを通り過ぎて、また草むらの中へと姿を消す。
 まだ夏の初めとあって、虫の声はしない。川原の一部が歩きやすい歩道になっていた。こんなもの、いつできたのだろう。アタシがここに住んでいた頃、ここは転ぶと痛い砂利道だった。
 おもちゃのようなビーチサンダルの底で、コンクリートを擦った。さりっと、乾いた音がする。下駄だとうるさすぎるという理由で、離れにころがっていたサンダルを引っ掛けてきたのだけれど、やはり風情に欠ける。
 月明かりは影が落ちるほどだった。満月に近い月の下で、酔い覚ましの散歩というのも贅沢だ。山間の小さな町は、いまだ時代にとりのこされたように静かで、草の匂いも土の匂いも、鮮やかに記憶を揺り動かす。
 それに捕まりたくなくて、川面に目をやった。闇色の水面が月のあかりを受けてきらきらしていた。時折、水音がする。どこかで魚が跳ねているに違いない。
 昼間、あれほど子供や唯人のにぎやかな声で溢れていたこの場所も、日が暮れると静かなものだった。
 遊歩道から川へと続く階段の、一番下に腰をおろした。ポケットからタバコを取り出して、一本咥える。ジッポーを手の平で転がしながら煙を吐き出すと、半日前のことを思い出した。

 今日の昼過ぎ、唯人と二人で実家へ帰ってきたアタシは、挨拶もそこそこに、川に連れてこられたのだ。従兄弟の甲斐と、名前も知らない近所の若い夫婦と、子供数人プラス、アタシと唯人で、歩いてすぐそこの川原に向かった。
 一時間もすると、アタシは暑さにうんざりしていた。裸足で水面を蹴ると、水滴の向こうに日差しが乱反射する。唯人は子供たちに混じって川の中で遊んでいた。水着でビーチボールを追いかけている小学生の中にいても、唯人は違和感がない。体こそ子供に比べれば大きいけれど、結局は一緒になって本気で遊んでいた。親戚のお兄ちゃんみたいな感じになってるな。さっきまでめだか捕りしてたし。まったく、どこにそんな体力があるんだか。
「千代はビールでいいか? コーラ?」
 上流から歩いてきた甲斐が言う。手には白いビニール袋。アイスクリームと飲み物のラベルが透けて見えた。
「……ビールで。どうせアルコールなんて、汗で全部出て行くよ」
 暑い。口に出さずにうなだれると、頬に冷たい感触。ひんやりとした缶ビールを受け取って、半分くらい一気に飲んだ。隣に腰を下ろして、甲斐も同じようにビールを空けた。
「千代の彼氏は、子供に大人気だな」
「まったくだよ。親に会わせろってうるさいから、せっかくこんな田舎まで連れてきてあげたのに、アタシのことは、ほったらかしだもの。あれで婚約者ですって胸張るんだから、笑えるでしょう」
 汗で張り付いた髪を指でのけた。屈んで指先を水に浸ける。流れる水はまだ冷たい。それでも子供たちは、キャーキャーいいながら入ってしまう。
「はは、確かにな。
 ―――でも、いい子じゃないか。誰の前でも素直で、千代のことをちゃんと大事にしてる」
 そう言われると、何も言えなかった。甲斐の言葉は穏やかで、アタシを見る視線はあまりに穏やか過ぎる。
 ……今日、はじめて故郷に唯人を連れてきた。これまで盆だろうと正月だろとうと、実家に寄り付かなかったアタシが、だ。気まぐれだと、自分でも思う。本家の連中と顔を合わすことを考えれば気持ちは沈んだけれど―――アタシの周囲にいる数少ない優しいひとたちを、安心させたかったのだ。
 産みの親も育ての親も、滅多に帰ってこない娘のことを心配しているのはわかっていた。噂好きの親戚の言うことなど気にするなと、さりげなく言ってくれたこともある。誰より、戸籍上は従兄弟、実際は兄である甲斐は、いつもアタシのことを心配してくれていた。たぶん、そこにはわずかな罪悪感も含まれているのだろうけれど。
「……安心した?」
 意地悪に問い掛けると、甲斐はまったく裏のない笑顔を見せて、
「うん、安心した」
 と、頷いた。そのまま立ち上がって、子供たちに「ジュース冷えてるぞー!」と声をかける。
 川から上がってきた唯人は、びしょびしょだった。上は全部脱いでたけど、下はコットンパンツのままだったから。 
「千代も泳げばよかったのに」
 はずむ声でそう言った唯人の、肌の表面を流れる水滴を見て、アタシはその一滴になりたいと、密かに思ってしまった。

 子供の頃は、思い通りにならないことばかりで。大人になればどうにかできると思っていたのに、そんなのは幻想だった。好きな人のことは、全部わかるようになるとも、思っていた。自分の全部は知られたくないせに。
 月灯りの下でコンクリートに寝そべると、まだほんのり太陽の熱が残っていた。そのとき、地面を伝わって人の足音がした。寝たままそちらに顔を向けると、草の間からスニーカーのつま先が見えた。
「わっ、どこで寝てんの。危ないよ、千代」
「ちょっと一人になりたくて」
 下から見上げたら、唯人が驚いて目を見開いていた。肩越しに月が綺麗だ。
「……来たら、邪魔だった?」
「うん、邪魔」
 見る間に悲しそうに眦を下げるから、つい吹きだしてしまいそうになる。いちいち冗談を間に受けるんだから。本当、いつまで経っても騙しがいのある男だ。
「嘘だよ。捜しに来たの?」
「うん。それと甲斐さんから、夜になると、ここで蛍が見えるって教えてもらったから」
 唯人が、同じように隣に寝転んでこっちを見た。きょろきょろとあたりを見回している。
「……月が明るいから、見つけにくいんだよ。もう少し待ってみな。あの大きな雲が、流れてくるから」
 月に近づく雲を指差すと、唯人は束の間空を見上げて、体を起こした。座った姿勢で、アタシの指先に手を伸ばしてくる。
「なに、手なんか握らないでよ。暑いから」
「こんなに涼しいのに」
「ダメ。いちゃつく気分じゃない」
 笑いながら軽く拒むと、唯人はちょっとだけ眉をひそめて、前を見た。拗ねたのかと思いきや、唯人の右手の小指だけが、アタシの左手の小指に絡まってきた。まるで指きりのように。これじゃあ、暑いという言い訳も使えない。
 川風が草を撫でる音と、空を渡る風の音しか聞こえなかった。静けさのなか、五分も経たないうちに、ふっと周囲が暗くなる。月が雲の陰に隠れたのだ。
「……あ、光ってる……うわ!」
 あたりが闇に包まれた途端、唯人が声をあげた。背後の草むらから、対岸の林の縁から、たくさんの光が踊るように舞っていた。
「―――初めて見た。こんなに明るく光るんですね、蛍って」
「見たことなかったの?」
「だって、ウチの近くに、蛍が棲めるような川は、もうないでしょう。テレビでしか知らなくて。
 あ、触っても熱くないんだ」
「当たり前でしょう」
 唯人の小指がすりるとほどけて、宙を舞う蛍を追い始める。
 アタシもうんと小さな頃、ああやって蛍を捕まえようとした。そのとき、甲斐に止められたのだ。

 ―――蛍だよ。下手に捕まえると死んでしまうから、そっと見ててごらん

 唯人は一匹の蛍をつかまえて、両手をそっと開いた。手のひらから、ゆらゆらとひとつ明かりが浮かんで、アタシの上を通り過ぎていった。これまでアタシが手に入れた幸福は、みんなこんな風に逃げていったのだ。甲斐といい、聖といい、つかの間だけ側にいて、すぐに離れていってしまう……。
 唯人の背中に手を伸ばしかけて、止めた。雲間からわずかに落ちてくる月光では、唯人がはっきり見えない。すぐそこにいるのに。
 たまらなく不安になって、コンクリートの上でぎゅっと拳を握った。
「―――月が出たら、帰りましょうか」
 さっきと同じように隣に横たわった唯人は、明るい声で言う。アタシの手を包み込んで、固く握り締めた指をほぐして、また小指だけを絡めた。暗闇の中、手探りで繋いだ小指は糸のよう。別々の人間なのに、そこから合わさっていく。するすると不安が溶けていく。
「はいはい。心配させてごめんね」
「……あのね、本当に心配したんですよ。こんな夜中に、一人で出歩いて。しかも、千代の家族の中に僕一人置いて出て行くなんて、ちょっとひどいと思う」
 ふっと雲が切れて、辺りが明るくなった。昼間のような明るさの中で、体を横向きにして、こっちをじっと見ている唯人がいた。唇をとがらせている。
 最初は小指だけだったのに、ぎゅっと手を握られた。見つめ返している間に、もう片方の唯人の腕が背中に回って、アタシの体をいとも簡単に引き寄せる。
「だから、暑いんだってば」
「心配かけた罰です! 結婚早めようかな、もう……」
 耳元でため息と一緒につぶやかれた声に、笑ってしまった。また怒られそうで、先に「ごめん」と口にする。それだけでは機嫌を直しそうにないので、こちらからも手を伸ばした。首に腕を回して抱きつく。

 唯人はきっと、つかまえたって逃げもしない。もし逃げるそぶりを見せたら殺してもいいよと、それくら言うだろう。アタシは唯人の喉になにげに指を添わせて、ひそやかに笑みをこぼした。
 アタシは唯人ほど真っ白じゃないから、結婚は永遠の約束ではないと、知ってる。神様に嘘の誓いをした女ですから。それでも、一生側にいてと求められるのは嬉しいものだ。
 約束は絶対ではない。いつだって好きなときに、どこにでも行けばいいよ。飛んでいきたいなら、邪魔はしない。ただ、アタシはもう離れないから。同じ過ちは繰り返さない。欲しいときは自分から迷わず手を伸ばす―――唯人の側にいたいから。
 そんなアタシの決意を、蛍と月だけが知っていた。



(蛍に出会った頃/END) お題提供/ribbon様 

ロマンスの二人の、これも少し先のお話。『モノ書きさんに10個以上でお題』に格納している「星の川をわたろう」と、対になっています。
07.07.04


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