少年ロマンス
第25話 ☆ Romance(2)

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 ベッドの側に膝をついて、じっと見つめた。
 顔と両手ぐらいしか見えないけど、パッと見てわかるような傷はなかった。病院に行かずに、ひとりで寝ているくらいだから、ひどい怪我ではなかったんだろう。ホッとして、ベッドに顎を載せた。先生はぴくりとも動かず、静かに眠っている。いつもどこか斜に構えて、悠然としている人だとは思えなかった。守ってあげたくなる。
 あの日、無理矢理先生にキスしてから、僕はずっと近づかないようにしてきた。忘れようとしたって、忘れられるものじゃない。側にいれば苦しいだけだ。会わなければいつか諦められると、そう思っていたけれど。
 こうして久しぶりに顔を見れば、こみあげてくる気持ちはますます強くなっている。
「先生」
 呼びかけて、迷った末、そっと額に触れてみた。熱はないみたいだ。
 目が覚めて僕を見たら、どう思うんだろう。怖がられるのかな。僕がまだ好きだと言ったら、困るだろうか。里中さんより僕を選んで ――― そう言ってしまえたら。
 頬におちる髪に触れたら、かすかに睫が震えたのが見えた。驚いて体を離したけど、まだ目は閉じられたまま。首を傾げる僕の目の前で、先生の閉じたままの眦に、ふわ、と涙が浮かんだ。重力に従って、耳のほうに落ちていく。一筋だけ伝った、見ているだけで苦しくなるような泣き方。
 息を詰めて、先生の頬に触れたとき。
「 ――― ゆい」
 囁くような小さな声がした。先生の唇が動いて、僕の名前を刻む。
「はい」
 寝言に返事しちゃいけないんだったっけ? と頭の片隅で思ったけど、考えるより早く、答えていた。
 先生の瞼が動く。同時にその声が、もう一度僕を呼んだ。今度はしっかり「唯人」と。
 至近距離で、先生が瞬きをした。まだ不安が消えない瞳を揺らせて、僕を見る。見つめ合った時間はわずかだったと思う。でも、僕はそのとき、全部わかった気がした。
 先生がそっと微笑んでくれたから、僕も嬉しくなって笑った。
「なんだ……ちゃんと居るじゃない」
 先生の腕が伸びて、僕の背中に回った。きゅ、とブレザーの裾を掴んで、また安心したように目を閉じる。胸に押し当てられた頬が、布越しにも温かい。たまらなく胸が苦しい。力いっぱい抱きしめたいのを我慢して、両腕で先生の頭を抱えて髪を撫でたら、なんだか泣きたくなった。
 
 僕はどうして気づかなかったんだろう ――― 先生の気持ちに。
 そうしたら、ここまでこの人を寂しがらせることはなかったのに。夢で僕を探させることも、なかったのに。
 僕にしがみついた不自然な姿勢のまま、先生は穏やかに眠る。脱力して、僕に身を委ねて、まるで眠り姫のように。
 起きるまで、このまま側にいたいな。
 そう思った僕の耳に、いきなり人の話し声が聞こえてた。
「うん、佐々木先生が具合悪くてさ……送ってから帰るわ。ちょっとだけ遅くなる」
 漏れ聞こえる声は、どう考えても、ドア一枚隔てた廊下からだ。電話中と思われる声の主は、聞き間違えるはずのない、音楽教師の矢野だ!
 先生はベッドに寝ていて、無理に抱きしめた体勢の僕。保健室に二人きりで、カーテンは閉め切ったまま。状況を一瞬で把握して、背中に変な汗が滲んだ。誤解を生むには十分すぎた。
 慌てて先生をベッドに下ろしたけど、しっかりブレザーを掴まれていて、身動きが取れない。焦る気持ちと裏腹に、保健室のドアに手を掛ける、カタ、という音がした。やばすぎる!
 起こしたくない。寂しい思いもさせたくない。ブレザーから腕を引き抜いて、先生の手はそのままに。名残惜しくて髪を撫でたら、ん、と息をついて、先生が僕の上着を抱きしめる。見ているだけで、こっちがどうにかなりそうだった。
 なんでこのタイミングで、そんな可愛いことするんですか!

 失礼、と矢野が入ってくるのと、僕がベッドスペースから出て、カーテンを後ろ手に閉めたのが、同時だった。勢いよく引かれたカーテンレールが、ジャッと耳障りな音を立てた。
「……取り込み中なら、出直すけど」
 矢野は驚きもせず、珍しそうに僕を見ている。そのメガネに映る僕の姿は、耳まで真っ赤だった。しかし、取り込み中って、何。
「いえッ、ちょっと心配で見に来ただけですから! 失礼します!」
 慌てて保健室を出たとき、さすがにシャツ一枚だったから、寒くて震えた。教室に戻っても、まだ顔から熱が引かなかった。人もまばらな教室で、コートを羽織って、ずるずると壁際に座り込む。
「うわ、唯ちゃん、どうしたの!? 大丈夫?」
 寄ってきた仲良しの女子に、手だけで、心配ないよ、と合図した。今は顔が上げられない。片手で顔を押さえて、膝に埋めた。
 さっきの先生を思い出すだけで、まずい。なんか、やらしい顔になってる気がする。
 めちゃくちゃ可愛かった。今まで綺麗だって思ったことは何度もあったけど、あんな可愛らしい一面も持ってたなんて。
 クラスメイトの誘いを断って、コートを羽織って一人で校門を出た。
 歩きながら気持ちを落ち着かせるつもりが、学校からいくらも離れないうちに、鞄の中で携帯が震えて、表示されたのは『佐々木千代』の文字。


 ―――で、今こうしてケーキの箱を片手に、呼び出しに応じているわけだ。
 階段を降りる足が、ふわふわと浮いてる気がする。
 二ヶ月前とは正反対の気分で、僕は夕暮れの薄闇の中、自転車のペダルをぐんと漕いだ。



 インターフォンを押したとき、ものすごく緊張していた。
 反対に、迎えてくれた先生はすごく穏やかな微笑みを浮かべていて、余計にドキドキしたのだけれど、それを純粋に喜んだ僕は……やっぱりまだまだ甘かった。

 おみやげのケーキを渡して、部屋に入ってと促されて、キッチンの奥の部屋に通される。ここに入るのは初めてだった。片隅に仕事用だと思われるパソコン。床に積まれて、低い塔を形作っている本がいくつか。ソファに腰を下ろして、ゆったりと足を組んだ先生 ――― その正面で正座させられる僕。
 いきなり正座とは、予想外の展開なんですが。上から見下ろしてくる先生の目が、獲物をいたぶる豹みたいに嬉々としていた。増してくる不安を押さえ込むように、僕は口を開いた。
「え、と。大丈夫だったんですか? どこも怪我とか」
「大丈夫じゃないよ。肩も背中も打ったし。まぁ、左肩は、誰かさんに進路指導室で引っ張られたときにも、痛めたしねぇ」
「……う、あの時は本当に……すいませんでした」
「別に、怒ってない。その後の態度の方が、よっぽど腹が立った」
 先生の顔から浅い笑いが消えていた。切れ長の目は鋭さを増して、僕の心に切り込んでくる。
「ずいぶん他人行儀だったよね。校内でも会わないようにしてたでしょう。店に行っても知らん顔で、他のウェイターに担当させた。そんなにアタシに会いたくなかった?」
 逆だった。会いたくて死にそうだった。
「アタシがバツイチだったから、手のひら返したみたいにキライになったの?」
「違います。昔のことじゃなくて……今もまだ、里中さんを忘れられないんだと、思ったんです」
 先生の中にあったのが、愛情なのか憎しみなのか知らない。でも、確かに先生は、里中さんに執着していた。側にいると、里中さんの動きしか感知しないみたいに。そう感じたのは、間違ってないと思う。
「僕、見てたんです。このマンションの下で、先生と里中さんがキスしてるところ」
「 ――― ここに、来てたの?」
 こくりと頷いた。わずかに動揺している先生から視線を外さずに、話を続ける。
「美術室で、先生と里中さんの画集を見つけて……何か、急に不安になって。勢いだけで、会いに来たんです」
 あの人が先生をどこかに連れて行くような気がした。
「アタシと聖が、よりを戻したんだと思ったんだ」
「はい」
 先生はひとつため息をついて、しばらく考え込んでいた。僕は何も言わずに、その場に座り込んで先生の反応を待った。もう確信していることを、先生の口から直接聞きたい。
 素直な人じゃないって、知ってる。でも、寝ぼけてたときの先生の態度が、僕に本音を教えてくれた。それをちゃんと聞きたい。

「あんなの、ただの接触よ。何も感じなかった」
 言いながら、先生は僕の目の前にしゃがみこんだ。目線が同じになって、いきなり声が近くなる。
「同じキスなら ―――」
 赤く塗られた爪が、僕の唇に触れた。そのまま指の腹で、ゆっくりと唇をなぞられて、背中がゾクリとした。膝の上で、ぎゅっと拳を握る。指の動きを追うように、先生の視線も僕の口元にあった。伏せた眼差しが急に艶っぽく見えて、目が離せない。
「ヘタクソだったけど、唯人のキスの方が、よっぽどドキドキした」


05.06.23

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