少年ロマンス 第22話 ☆ Selfish(2) ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
第一教棟三階の端にある進路指導室は、普通の教室より広い。円形の机にパソコンが三台。壁際の棚は、各大学のパンフレットや就職関連の書籍でびっしり埋まっている。 進路指導室のドアを開けると誰もいなくて、拍子抜けした。 「ちゃんと来たね」 背中から声をかけられて、飛び上がるくらい驚いた。け、気配消して近づかれると怖いので、止めて欲しい。 先生はドアに『面談中』のプレートをつけて、僕を促して指導室に入った。一ヶ月ぶりに間近で見た先生の横顔は険しくて、でも僕は、通り過ぎざまにかすかに香ったタバコの匂いに、胸が苦しくなった。少し離れていただけで、過敏なくらい五感が反応する。 ああ、本気でツライな。僕以外の人とつきあってる先生と向き合うのは。 「座って」 机を挟んで腰をおろした。改めて視線を合わせると、先生は苛立った口調で問い掛けてきた。 「東郷、この一ヶ月、強制補習以外受けてないんだって?」 この一ヶ月? ……10月後半は里中さんの集中講座で、11月に入ってからは家の手伝いがあったから、確かに自由参加の補習には出てないけれど。 「今日、担任の馬場先生に言われたよ。『東郷は絵を習ってるらしいんですが、そういう美大受験専門の家庭教師なんて、あるんですか?』って。こっちが聞きたいわよ」 話の筋がおかしいな、と思いつつ、僕はいつもより険しい先生の顔ばかり、見ていた。怒ってると余計に目が鋭くなる。綺麗だなぁ、と心底思った。 「ちゃんと聞いてんの!?」 集中してない僕の態度に、先生が苛立ってるのがわかった。わかっているのに、どうにかしようとは思わなかった。嫌われても怒られても、たぶん、もう平気だった。 卒業したら、なんて ――― あの約束の意味は、もう無い。こんなに近くにいるのに、僕と先生の間には深い溝がある。ここにいないのに、里中さんの存在を強く意識する。 「アタシと聖のことで、東郷の気持ちが変わったって言うなら、別にそれでいい。でも、公私混同するようなマネはやめなさい。アタシに会いたくないなら、村上先生に訊けばいい。美術室にくれば、ちゃんと教えてもらえるんだから」 まるで、自分に責任はないような言い方だった。先に離れたのは先生じゃないか。里中さんに習っていたのだって、先生の指示だと言うから ――― ならば、どうして、先生の口からこんな言葉が出てくるんだろう? その疑問も、『アタシと聖』という単語の前に霧のように消えていった。あんなキスを見てしまったら、気持ちも変わるよ。変わらない人がいるなら、それこそ聖人君子だ。 「あのね東郷、待ってるだけじゃ、欲しいものは手に入らないんだよ。訊きたいことがあるなら訊きなさいよ、答えてあげるから」 ため息をついて前髪をかきあげる先生の、唇にばかり目が行く。 訊きたいことなら、ある。 「 ――― 里中さんとのキスは、どうでした?」 先生の顔から笑みが消えて、その目が軽く見開かれるのを、至近距離で見ていた。頭が上手く働かない。衝動が抑えられない。あの夜見た二人のキスシーンがフラッシュバックする。 腕を伸ばすと、簡単に捕まえられた。反射的に身を引いた先生の手首を強く握った。逃げられないように先生の手を机に押さえつけて、僕は勢いだけでその唇を塞いだ。頭の片隅で、冷静な自分が呆然と眺めているような気がした。二人分の体重に挟まれて、机がガタンと揺れる。 座ったままの先生に、覆い被さるように体重をかけた。先生の白い首筋が、逃げようと仰け反った。苦しそうな呼吸を無視して、追いかけて更に深いキスをする。 ああ、なんかもう、無茶苦茶だ。 この人の全部が、僕のものならいいのに。この人の全部が、僕の方を向いてくれたらいいのに。 先生が首を振ってキスから逃れたとき、目の前で左耳のピアスが揺れた。シルバーの、繊細な小さな王冠が、きらり。その輝きに一瞬気を抜いたら、しなった先生の手が飛んできた。高い音が響いて、頬に痺れるような痛みが残る。 「 ――― 離せ!」 細められた目はかつて見たことがないほど冷たくて、凍てついた怒りを湛えて僕を睨みつけた。数秒遅れて、ジンジン頬が痛くなる。熱い。 「痛い、離せ」 ぼんやりと瞬きする間に、先生はうつむいて、低い声でつぶやく。まだ掴んだままだった、その左手を、慌てて離した。手首にうっすらと指の跡がついていた。痛そうに顔をしかめる先生を見て、やっと自分が何をしたか自覚した。 「……すいません」 こんなマネをしておいて、何が言える。 里中さんよりも僕を選んで欲しいなら、もっと落ち着いて話す余裕が必要だった。一人でカッとして、先生に強引な、乱暴なことをして ――― 今更、どうやって。 先生が自分の手首から視線を戻して、僕を見た。その唇が開いて、すぐに閉じた。キツイ眼差しから怒りが消えていく。 「……唯人?」 そうやって呼ばれたのも、久しぶりだった。 ふたりのときは、いつもそんな風に名前で呼んでくれたのに、学校で会うと僕はただの「元部長の東郷」でしかない。距離を縮めたくて、側にいたくて、僕はいつも一人で悩んで空回りするばっかりだ。 奥歯をかみ締めたけど、我慢できなかった。たぶん顔は真っ赤になってる。我慢しろ、こんな情けないカオ見せてどうするんだ……そう言い聞かせても、勝手に涙が湧いてきて、視界が滲んだ。 「すいません……でしたっ」 先生にその場で頭を下げて、僕はそのままダッシュで進路指導室から逃げ出した。 実際の僕は、想像より全然情けなくて弱虫だ。 振り返らずに、階段を駆け下りた。先生が失望した顔で僕を見ている気がして、涙が乾くくらい、全力で走る。頭が真っ白になって、さっきの最初で最後のキスのことなんて、何も覚えていなかった。あんなに触れたかったのに、いざ抱きしめて口付けた感想は後悔だらけで。 誰よりも、里中さんよりも、僕が幸せにするから ――― なんて、言えるわけない。 「やっぱ、無理だ……」 姿を見れば恋しくて、声を聞けば近くにいたくて、触れればなおさらに忘れられない。 一年の頃は、ただ先生に会えるだけで嬉しかった。いつの間にかどんどん欲張りになっている。あの人が僕のモノならいいのに。ごまかせない自分の気持ちに、現実はついてこない。 外に出た途端に吹き付けてきた秋風に、このまま全部持っていって欲しかった。苦しい気持ちも、先生を傷つけた僕自身も。 Side:C 感情をありったけぶつけて、逃げられても、困る。こっちはどうしたらいいんだか。 唯人に逃げられて、進路指導室にぽつんと一人。正直、参った。 今の唯人の精神状態が簡単に目に浮かぶ。なんで僕はあんなことしたんだ、って自己嫌悪まっしぐらだね、きっと。 キスなら、聖と呆れるほどした。それ以上のことだっていろいろ。今となっては、さよならの代わりにできるくらいの、ドライな接触でしかない。だからと言って、今日唯人がしてきたキスは、それとは全く別だった。なんて予想外の行動をしてくれるんだろう。 「しっかし、下手だったなぁ……」 優しさも何もない、衝動だけの唯人のキスは、笑えるくらい最低だった。 それよりも、アタシを離した後の、あの表情。後悔だらけの泣きそうな顔が、頭から離れない。 「アタシに、何しろっていうのよ」 急に唯人が距離をとったのは、聖のことを知ったからだと思っていた。聖を初めて見たとき、ものすごく動揺していたし、アタシが以前結婚していたことも同時に知ってしまったから、もしかして、もう嫌になったのかもしれない。そう予想していた。 どうして唯人が、聖とのキスを知っているんだろう。聖が話した? でも、それは事実だ。言い訳なんか何もない ――― そこに冷めた気持ちしかなくても。 子供相手の真剣勝負は、これだからイヤだ。ごまかしも駆け引きもない。ストレートな感情だけ。今更そんなフィールドに立てない。だってまだ生傷が疼くのだ。正面から当たれば、それだけ負う傷だって深い。 ここで呆然としていても仕方ない。部活に行こう。 立ち上がると、左肩がツキンと痛んだ。あー、勢いよく引っ張ってくれたものだ。基本的に筋力が違うんだから、手加減しろと言いたい。でも、お互い様かな、アタシも唯人を叩いちゃったし。 「腫れてなきゃいいけど」 キスされて、身動きできないぐらい押さえつけられて、嫌になるほど思い知らされた。雄の荒々しさ。可愛い外見でも、男なんだと ――― 知っていても、理解していなかった。触れた部分全てが、生々しかった。 その動揺を隠したくて咄嗟に手が出たことなんて、どうせ気づきもしないんだろう。お子様め。 05.05.28 |