少年ロマンス
第22話 ☆ Selfish(2)

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 どうしてこう、物事はタイミングがいいというか、悪いというか、予想もつかない方向に転がるんだろう。

『三年七組、東郷唯人。至急、進路指導室まで来るように!』
 スピーカーから凛とした佐々木先生の声が聞こえたのは、放課後が始まったばかりの夕方四時前。補習授業は希望者のみで、僕は一応、出るつもりだったのだけれど。
 なんか、声が怒ってるように聞こえた。ええと、何もしてないと思う。そもそも、なんで美術室じゃなく進路指導室? イヤな予感に、このまま帰ってしまおうかと、チラリと思ったとき、
『十分以内に来ないと、明日の部活でデッサンモデルさせるよ』
 ブツッと放送が終わった。あの、声が完全に怒ってるのは、なぜですか!? しかも、追加された内容は半分脅しみたいだ。いつも静かな先生に似合わない、感情的な声。
 考えても理由はわからなくて、結局おとなしく、進路指導室へ向かった。



 第一教棟三階の端にある進路指導室は、普通の教室より広い。円形の机にパソコンが三台。壁際の棚は、各大学のパンフレットや就職関連の書籍でびっしり埋まっている。
 進路指導室のドアを開けると誰もいなくて、拍子抜けした。
「ちゃんと来たね」
 背中から声をかけられて、飛び上がるくらい驚いた。け、気配消して近づかれると怖いので、止めて欲しい。
 先生はドアに『面談中』のプレートをつけて、僕を促して指導室に入った。一ヶ月ぶりに間近で見た先生の横顔は険しくて、でも僕は、通り過ぎざまにかすかに香ったタバコの匂いに、胸が苦しくなった。少し離れていただけで、過敏なくらい五感が反応する。
 ああ、本気でツライな。僕以外の人とつきあってる先生と向き合うのは。

「座って」
 机を挟んで腰をおろした。改めて視線を合わせると、先生は苛立った口調で問い掛けてきた。
「東郷、この一ヶ月、強制補習以外受けてないんだって?」
 この一ヶ月? ……10月後半は里中さんの集中講座で、11月に入ってからは家の手伝いがあったから、確かに自由参加の補習には出てないけれど。
「今日、担任の馬場先生に言われたよ。『東郷は絵を習ってるらしいんですが、そういう美大受験専門の家庭教師なんて、あるんですか?』って。こっちが聞きたいわよ」
 話の筋がおかしいな、と思いつつ、僕はいつもより険しい先生の顔ばかり、見ていた。怒ってると余計に目が鋭くなる。綺麗だなぁ、と心底思った。
「ちゃんと聞いてんの!?」
 集中してない僕の態度に、先生が苛立ってるのがわかった。わかっているのに、どうにかしようとは思わなかった。嫌われても怒られても、たぶん、もう平気だった。
 卒業したら、なんて ――― あの約束の意味は、もう無い。こんなに近くにいるのに、僕と先生の間には深い溝がある。ここにいないのに、里中さんの存在を強く意識する。
「アタシと聖のことで、東郷の気持ちが変わったって言うなら、別にそれでいい。でも、公私混同するようなマネはやめなさい。アタシに会いたくないなら、村上先生に訊けばいい。美術室にくれば、ちゃんと教えてもらえるんだから」
 まるで、自分に責任はないような言い方だった。先に離れたのは先生じゃないか。里中さんに習っていたのだって、先生の指示だと言うから ――― ならば、どうして、先生の口からこんな言葉が出てくるんだろう?
 その疑問も、『アタシと聖』という単語の前に霧のように消えていった。あんなキスを見てしまったら、気持ちも変わるよ。変わらない人がいるなら、それこそ聖人君子だ。
「あのね東郷、待ってるだけじゃ、欲しいものは手に入らないんだよ。訊きたいことがあるなら訊きなさいよ、答えてあげるから」
 ため息をついて前髪をかきあげる先生の、唇にばかり目が行く。
 訊きたいことなら、ある。

「 ――― 里中さんとのキスは、どうでした?」

 先生の顔から笑みが消えて、その目が軽く見開かれるのを、至近距離で見ていた。頭が上手く働かない。衝動が抑えられない。あの夜見た二人のキスシーンがフラッシュバックする。
 腕を伸ばすと、簡単に捕まえられた。反射的に身を引いた先生の手首を強く握った。逃げられないように先生の手を机に押さえつけて、僕は勢いだけでその唇を塞いだ。頭の片隅で、冷静な自分が呆然と眺めているような気がした。二人分の体重に挟まれて、机がガタンと揺れる。
 座ったままの先生に、覆い被さるように体重をかけた。先生の白い首筋が、逃げようと仰け反った。苦しそうな呼吸を無視して、追いかけて更に深いキスをする。
 ああ、なんかもう、無茶苦茶だ。
 この人の全部が、僕のものならいいのに。この人の全部が、僕の方を向いてくれたらいいのに。

 先生が首を振ってキスから逃れたとき、目の前で左耳のピアスが揺れた。シルバーの、繊細な小さな王冠が、きらり。その輝きに一瞬気を抜いたら、しなった先生の手が飛んできた。高い音が響いて、頬に痺れるような痛みが残る。
「 ――― 離せ!」
 細められた目はかつて見たことがないほど冷たくて、凍てついた怒りを湛えて僕を睨みつけた。数秒遅れて、ジンジン頬が痛くなる。熱い。
「痛い、離せ」
 ぼんやりと瞬きする間に、先生はうつむいて、低い声でつぶやく。まだ掴んだままだった、その左手を、慌てて離した。手首にうっすらと指の跡がついていた。痛そうに顔をしかめる先生を見て、やっと自分が何をしたか自覚した。
「……すいません」
 こんなマネをしておいて、何が言える。
 里中さんよりも僕を選んで欲しいなら、もっと落ち着いて話す余裕が必要だった。一人でカッとして、先生に強引な、乱暴なことをして ――― 今更、どうやって。
 先生が自分の手首から視線を戻して、僕を見た。その唇が開いて、すぐに閉じた。キツイ眼差しから怒りが消えていく。
「……唯人?」

 そうやって呼ばれたのも、久しぶりだった。
 ふたりのときは、いつもそんな風に名前で呼んでくれたのに、学校で会うと僕はただの「元部長の東郷」でしかない。距離を縮めたくて、側にいたくて、僕はいつも一人で悩んで空回りするばっかりだ。
 奥歯をかみ締めたけど、我慢できなかった。たぶん顔は真っ赤になってる。我慢しろ、こんな情けないカオ見せてどうするんだ……そう言い聞かせても、勝手に涙が湧いてきて、視界が滲んだ。
「すいません……でしたっ」
 先生にその場で頭を下げて、僕はそのままダッシュで進路指導室から逃げ出した。

 実際の僕は、想像より全然情けなくて弱虫だ。
 振り返らずに、階段を駆け下りた。先生が失望した顔で僕を見ている気がして、涙が乾くくらい、全力で走る。頭が真っ白になって、さっきの最初で最後のキスのことなんて、何も覚えていなかった。あんなに触れたかったのに、いざ抱きしめて口付けた感想は後悔だらけで。
 誰よりも、里中さんよりも、僕が幸せにするから ――― なんて、言えるわけない。
「やっぱ、無理だ……」
 姿を見れば恋しくて、声を聞けば近くにいたくて、触れればなおさらに忘れられない。
 一年の頃は、ただ先生に会えるだけで嬉しかった。いつの間にかどんどん欲張りになっている。あの人が僕のモノならいいのに。ごまかせない自分の気持ちに、現実はついてこない。
 外に出た途端に吹き付けてきた秋風に、このまま全部持っていって欲しかった。苦しい気持ちも、先生を傷つけた僕自身も。



Side:C

 感情をありったけぶつけて、逃げられても、困る。こっちはどうしたらいいんだか。

 唯人に逃げられて、進路指導室にぽつんと一人。正直、参った。
 今の唯人の精神状態が簡単に目に浮かぶ。なんで僕はあんなことしたんだ、って自己嫌悪まっしぐらだね、きっと。
 キスなら、聖と呆れるほどした。それ以上のことだっていろいろ。今となっては、さよならの代わりにできるくらいの、ドライな接触でしかない。だからと言って、今日唯人がしてきたキスは、それとは全く別だった。なんて予想外の行動をしてくれるんだろう。
「しっかし、下手だったなぁ……」
 優しさも何もない、衝動だけの唯人のキスは、笑えるくらい最低だった。
 それよりも、アタシを離した後の、あの表情。後悔だらけの泣きそうな顔が、頭から離れない。
「アタシに、何しろっていうのよ」

 急に唯人が距離をとったのは、聖のことを知ったからだと思っていた。聖を初めて見たとき、ものすごく動揺していたし、アタシが以前結婚していたことも同時に知ってしまったから、もしかして、もう嫌になったのかもしれない。そう予想していた。
 どうして唯人が、聖とのキスを知っているんだろう。聖が話した? でも、それは事実だ。言い訳なんか何もない ――― そこに冷めた気持ちしかなくても。
 子供相手の真剣勝負は、これだからイヤだ。ごまかしも駆け引きもない。ストレートな感情だけ。今更そんなフィールドに立てない。だってまだ生傷が疼くのだ。正面から当たれば、それだけ負う傷だって深い。
 ここで呆然としていても仕方ない。部活に行こう。
 立ち上がると、左肩がツキンと痛んだ。あー、勢いよく引っ張ってくれたものだ。基本的に筋力が違うんだから、手加減しろと言いたい。でも、お互い様かな、アタシも唯人を叩いちゃったし。
「腫れてなきゃいいけど」
 キスされて、身動きできないぐらい押さえつけられて、嫌になるほど思い知らされた。雄の荒々しさ。可愛い外見でも、男なんだと ――― 知っていても、理解していなかった。触れた部分全てが、生々しかった。
 その動揺を隠したくて咄嗟に手が出たことなんて、どうせ気づきもしないんだろう。お子様め。


05.05.28

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