ゆるやかな別離
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


地味な色のスーツでも
彼の姿はすぐわかります
……いまだに



 月が出る頃に時計を気にするのは、無意識のクセでした。
「ゆうちゃんは、彼が来る頃になるとそわそわするね」
 同じバイトのリサさんが、タバコの補充をしながら言いました。そんなにわかりやすいのかな。ちょっと苦笑して、曖昧に頷いておきました。以前話しているのを見られた時、知り合いだと言いました。元カレなんて言ったら、暇な時にいろいろ聞かれるに決まっています。
 コンビニのバイトも、三年目になりました。多少慣れましたが、新しいシステムや商品がどんどん増えて入れ替わるので、いつまでたっても不安がなくなりません。だいたい、午後から夜にかけてのシフトに入ることが多いです。賞味期限の迫ったデザートを店長がくれるので、ちょっと太った気がします。同僚の入れ替わりは激しいです。マネージャーの安藤さんは、優しい印象のおじさんで、なのに異様に仕事が早くて驚きます。この人がずっとこの店の担当でいてくれることを、私は会うたびに願っています。

 七時過ぎに、彼がやってきました。この前まで半袖のシャツにノーネクタイだったのに、今日は上着を着ています。外は少し肌寒くなってきたのかもしれません。そういえば、今日は中華まんとおでんがよく出ています。
「おにぎり温めますか?」
「いや、いいです」
 彼がこう答えるのはわかっています。割り箸とお手拭きは要る、レジ袋はマイバックがあるから要らない。覚えているのに、マニュアル通りに聞いてしまいます。他のお客さんと違う対応をとると、なんだか変に浮くからです。自分が機械になった気がします。
 マイバッグは以前ウチの店がサービスで配ったものです。可愛いキャラクターが描かれているベージュの小さな手提げは、いかにもサラリーマンな彼の格好とは合いません。でも使ってくれているのは、私があげたからでしょうか。そんなことで少し嬉しくなるのだから、私の気持ちというのはお手軽です。
 別れた頃、とても痩せていた彼ですが、最近は顔色もよく、体格も戻ったようです。半年以上経つのです。お互い、多少は変わります。
 最近になって、彼はたまに猫缶を買うようになりました。飼い猫を亡くした悲しみも、少しは癒えたのでしょうか。私がいくら慰めても沈んだままだった気持ちは、時間の経過とともに浮上したようでした。そういえば、別れてからしばらくは、このコンビニにも来ませんでした。
 あの頃のことを思い出すと、辛くなります。いくら話しかけても私を見ようとしない彼に腹を立てて、我慢の限界で、世界の不幸を一身に背負った気になっている彼がただ嫌になって、辛いのはあなただけじゃないと怒鳴りました。それでも彼はたいした反応をしめさず、頑なに自分の殻に閉じこもったままでした。仕事だけはきちんと続けながら。
 側にいて支えてあげたいという傲慢な気持ちは、風船のようにはじけ飛んで、恋心は一気に冷めました。それでも好きだった気持ちに嘘はなく。
 ――今日も彼がコンビニに来た。それだけで、良い一日だと思えます。



 肉まんとあんまんと、ホットコーヒーのブラック缶、青い猫缶。
 レジに並べられたそれらのバーコードを読み取って、金額を告げました。彼は支払を終え、いつものマイバッグに入れていきます。猫缶では、印刷された茶色のトラ猫が目をくるくるさせて、楽しげです。
「ねこかん……」
 考えていたことが、ふと口をついて出てしまいました。彼は軽く目を見開いて、布製の手提げを右手に持ちました。黒いビジネスバッグは肩から斜めがけしています。
「野良にやるんだ。最近、近くの公園にいるから」
 お客が少ない時間帯だったこともあって、彼はそんなことを言いました。八時には私のバイトが終わります。でも、一緒に行きたいとは言えませんでした。彼はすたすたと店を出ていきます。ドアの開閉のたびに響く電子音の軽やかなメロディが、いっそう馬鹿馬鹿しく私を打ちのめします。

 彼の服装がコートになり、マフラーを巻くようになった頃、私はやっと話しかけることができました。
 その日は、私がバイトに入っているときに彼は来なくて、お疲れ様でした、と店を後にしようとしたときに、入れ違いのように来店したのです。制服を脱いだ私は、一人の客として店にいました。買い忘れた牛乳を買っていた時に、彼が来ました。偶然を装うには不自然すぎたので、彼と目が合ったときに、近づいていきました。
「こんばんは」
「ちわ。バイトあがり?」
「うん、いまから帰るとこ」
 昔と同じような会話ができてほっとしました。緊張にこわばる体を深呼吸でなだめて、店を出ます。少し迷って、レジにいる彼を待ちました。彼が猫缶を買っていたからです。
「公園に寄るけど、いく?」
 久し振りなのに、元気かという一言もなく、彼は手提げの猫缶を指で示しました。私は即座に頷きました。
「猫、見たい」
 見え見えの口実ですが、彼は軽く頷いて歩きだしました。コートの背中を見ながら、後ろを歩きます。
 私は、本当は猫好きというわけではありません。彼が以前飼っていた子猫はすぐに懐いて可愛かったのですが、私の家では昔から動物を飼ったことがなく、猫も犬もさほど身近な生き物ではありませんでした。だから、公園にいるという野良猫にもさほど興味はないのです。ただ、猫といるときの彼が見たかったのです。



 冬の夜の公園なんて、行くものじゃありません。遊具はどれも薄くかかった霜で輝いて、街灯も小さな範囲を照らすだけです。空を見上げれば、白い息の向こうにオリオン座が見えて、孤独感が増すばかりです。
 すべり台のところで彼が舌を鳴らすと、植え込みがかさりと言いました。同じくらいの大きさの猫が二匹、ひっそりと出てきました。しなやかな大きな体の猫たちでした。彼は無造作に肉まんを咥えると、肉まんが入っていたナイロン袋の上に、手慣れた様子で猫缶の中身を出し、おでんのちくわを半分に割って置きました。そのままゆっくりとその場を離れ、冷たいベンチに腰かけます。私にもそこまで下がるように言いました。
 私たちが距離をとると、猫二匹はすばやく駆け寄ってきて、ガツガツとすごい勢いで食べ始めました。

「毎晩、こうやって餌をあげるの?」
「いや、たまに。結構いろんな人に可愛がられてるみたいで、俺以外の人も世話してる」
 彼は肉マンを食べ終え、こじんまりしたペットボトルからコーヒーを飲んでいました。猫を見つめる横顔は、街灯の明かりでもわかるほど柔らかく微笑んでいて。
 こんな表情の彼を見たのは、久しぶりでした。そうです、笑顔なんて別れてからはじめて見ました。苦笑はコンビニで何度か見たけれど、こんな……昔みたいな。心が痛かった。だって、私が話しかけても特に動揺しなかった彼が、猫には笑いかけている。ミルクティーの缶を握り締めても、もう手は温まりません。ぬるい紅茶を一口飲んで、うつむきました。
 ベンチに腰かけている私たちの間には、微妙な間隔があります。冷たい夜の空気が入り込んで、私たちを遠ざけます。昔なら、寒いと一言つぶやけば、彼は私の手を握ってあたためてくれました。肩に頭をもたせかけて、寄り添うことができました。十二月の夜空の下でも、彼の腕がしっかりと抱きしめてくれると、触れた部分から広がるように体温が上がったのをよく覚えています。そんなとき彼は、こうして猫に向けているよりも、ずっと楽しげな笑顔を私に見せてくれました。

 彼と抱きあってはしゃいでいたこの記憶は、私が見た夢なのでしょうか。隣にいる彼は、つきあっていた頃とは別人のようです。前かがみに座って、膝に肘をついて、黒いコートに身を包んでいる彼は、本当にかつて私を愛した人なのでしょうか。私はこの腕の中で何の不安もなく甘えていたことがあったのです。
 さっき公園へと誘われたとき、期待しなかったと言えばウソになります。少しだけ昔に戻れるかもしれない。もしかしたら。だって彼は無視しなかったのです。社交辞令でも何でも、誘ってくれた。
 けれど、彼の背中は、肩は、横顔は、不用意に触れたいと思う私をたしなめました。これ以上近づかないでくれと無言で伝えてきました。それぐらいのことがわかる程度には、私は彼を知っています。
「寒くなったから、先に帰るね」
「うん、気をつけて」
 駅はすぐそこです。送ってくれる気はないようでした。
 
 歩きながら見上げた空は、澄んでいて綺麗でした。
 ツンと鼻の奥が痛んで、こらえていた涙が滲みました。我慢しても我慢しても、生暖かな滴がマフラーに吸い込まれていきます。
 私の気持ちはあの頃と変わっていなくて、こうしてまた話せるようになれば、戻れると思っていました。
 初めてコンビニで会って、子猫のことで会話して、言葉少なな彼のわかりにくい優しさに気付いて、好きになって、つきあって、とても幸せで。膝の上に子猫をのせて、彼の膝に甘えて頬をすりよせて、二人と一匹で穏やかな週末を過ごしていました。子猫が死んで、二人で泣いて、彼はずっと泣いてばかりで。
 私はできることを全部やったのです。彼がどうすれば元気になってくれるか、思いつく限りのことを。それでも沈んだままの彼に、最後には泣きながら怒鳴って、罵って、嫌いだと叫んで、別れました。そのまま彼からの連絡はなくて私からも連絡はしなくて――日々が落ち着いた頃に、彼はコンビニの客として訪れるようになりました。
 時間を巻き戻すようにあの頃に戻れると思っていたのは、私だけでした。過去をなかったことにはできません。時間の経過の中で、彼はもう私無しでも大丈夫な日常を手に入れていました。戻らない覚悟をしていました。恋愛にならない距離を保つと決めているようでした。
 駅のトイレでハンカチを出して涙を拭きました。鼻をかんで、口紅を塗り直します。揺れる電車の中で暗い窓を見つめながら、彼に話しかけるのではなかったと、ほんの少し後悔しました。彼が元気で良かったと思えるようになるまで、どれぐらい泣けばいいのか、今夜の私にはまだわかりません。
 ポケットに手を入れたら、公園で彼からあずかった辛子の小袋が入ったままでした。その感触ひとつで、止まっていた涙がまたほろりとこぼれていきました。



(ゆるやかな別離/END)
09.09.17

 HOME  

Copyright © 2003-2008 Akemi Hoshina. All rights reserved.
inserted by FC2 system