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最近、暑くなったのでシャワーだけで済ませることが多くなった。
浴室では、出番の減った防滴のスピーカーが壁にかかったまま。冬、ゆっくりお湯に浸かって過ごすときの必需品は、このスピーカーから流れてくるフジコ・ヘミングのピアノと、薔薇の香りの入浴剤。乳白色の濁ったお湯は、滑らかに肌を隠した。
この時期は、クーラーが苦手なので、部屋の中はいつも蒸し暑い。寝起きのベタつきは最悪で、私は夏を何より嫌っている。体力もない。それでも、習慣というのはおかしなもので、汗をダラダラ流しながらも、土曜の午後はバスとトイレの掃除をする。
ピカピカになった浴室の壁は、水滴を拭われて、気持ちよさそうに見えた。もちろん錯覚だと知っている。
クリーム色の浴槽に腰掛けて、汗が頬を伝うのを感じながら、ぼんやりと浴室の中を見ていた。
壁に掛かったスピーカー。ボディソープ、シャンプーとコンディショナー。これって、いつからリンスって言わなくなったんだろう。入浴剤が数種類。歯ブラシがふたつ。メントール入りのシャワージェル。ああ、こんなところにも名残が。
彼がここに来なくなってから、一ヶ月も経つのに。
私たちは理想的な恋人だった。お互いにとって。
二人でいれば、いつだって気持ちは穏やかになり、空気は柔らかで、くさくさと心がささくれだったときだって、黙って抱きしめあうと何もかも忘れられた。何でも許せた。
別れて、辛かった。恋人と別れることは、体の一部を失うようなものだと、小説か何かで読んだけど、その通りだと思った。なのに、思い出すことを止められない。あの幸福な時間たちを。
いつも、お風呂は一緒だった。女友達に話すと、いやらしいなあ、と笑われた。でも、明るい光の下で見る裸は、ベッドで見るのとは全然違う。健康的で、子供がふざけあう感覚に似ていた。それがキャンドルの灯りになると、突然セクシャルな雰囲気になってしまうから不思議だった。
彼はお風呂好きだった。私とよく似ていた。
一時間くらい、ゆっくりと入る。エビアンを側に、ただ心も体もからっぽの状態にしていた、そういう無防備な彼を視界の隅に意識しながら、私は古本屋で買ってきた50円くらいの文庫本を、同じように湯船に浸かって読んでいた。
浴槽の縁に、お風呂用の枕が吸盤でくっついている。これも、彼が買ってきた。愛用していたのに、置いて行った。シャワージェルだって、メントール入りはスースーして苦手なのに、彼が買ってきた。そのうち私も気に入って使うようになった。
馬鹿みたいに、この場所は思い出が染み付いていて、別れてからはシャワーしか使っていない。お湯に浸かっても、疲れは癒されない。視界の隅に、彼はもう映らない。
友達は、彼の私物は捨てなさいという。この部屋からも引っ越すべきだと。
でも、そんなことはしない。
彼のパジャマも、髭剃りもそのまんま。よく飲んでいたウィスキーも、一人では飲めなくて、棚にある。記憶の残骸というにはあまりにもリアルな、日常にしみこんだ物ばかりだ。
ここにあなたが居ないのが、不思議なくらいに。
彼が側に居なくても、恋はまだ続いている。メントールの香り、好きだったスヌーピーのタオル。子供みたいって言っても、笑ってただけだった。
気持ちが事実を受け入れるまでには、少し時間がかかるものだ。
浴槽に腰掛けたまま、私はクリーム色の壁を眺めている。たくさんのことを思い出している。恋人を失って、辛くて仕方なくて、でも、こうやって過去を思い出してる自分を、どこかで可愛いと思っている。恋を失うという経験を、じっくり噛み締めている。
すぐには忘れられない人だった。一生、好きなままかもしれない。それでもいい。
今日も夜になればシャワーを浴びる。
そこには、ピアノの音はなく、薔薇の香りもなく、爽やかなメントールが、私の肌を彼の匂いに近づける。
(END)
04.06.12