AM5:00
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別れて一年になる恋人の服を着て寝ている。 そう話すと、友人のヨウコはものすごく苦い顔をした。痛々しいんだけど、とぽつりとつぶやく。 「忘れられないわけではないのよ」 微笑みながら、自分でも白々しい嘘だと寒くなった。 七年もつきあって、ぱちんと紐を切るようにあっけなく別れた。『距離が離れたら心も離れるから』。彼の別れの言葉に、納得できないまま頷いた自分は、主体性がなかったと思う。 別れた直後、私に「彼の私物は捨てろ」とか、「引っ越せ」とか事細かに電話をしてきたヨウコは、いまだに私が精神的に不安定なのだと心配して、こうして休日に遊びにくる。そんなことはないのだ。お風呂も一人で浸かれるようになったし、彼と二人で飲んでいたウィスキーもとっくに空になって、今キッチンにあるボトルは一輪挿しになっている。 一年も経つと、私の部屋に染み付いていた彼の痕跡は消えていた。記憶は鮮やかなまま。 なんて寂しいことだろう。 出会ったときに、わかっていた。 もう一生、これほど愛しい人にはめぐり合えないだろう。 添い遂げるとしても、別々の道を歩むことになっても、彼と過ごした時間は宝石のように特別なものになるに違いない。その確信。 運命論? と笑われて、また次の恋人を見つければ、そんな思い込みは解けると慰められて、もう一年。何も変わっていやしない。すれ違う男も近しいものを感じた男も、彼ほどの衝撃は与えてくれない。ヨウコの言うとおり、忘れていないだけなのか。未練たらしいと叱られるのも慣れきってしまった。 だって、私にはわからないのだ。 どうしてあの人を忘れなければいけないの? 私の穏やかな日常を、寂しいと言う友人の言葉。さらりと聞き流している。 ヨウコは私ではないから、きっとわからない。彼と出会った衝撃も、二人で過ごした幸福な日々も、知らないから。私以外の人も、こんな恋に落ちているのだろうか。だとしたら、どうして「次の恋がある」なんて言えるんだろう。こんな出会いを繰り返していたら、私の心はもたない。早死の原因が、情熱的な恋。それもいいかもしれない。ロマンチックで。 少女じみた思い込みね、と言う友人。幸せになりたくないの、という知人。 私が不幸に見える根拠は何だろう。恋人がいないというだけ。それを世間一般では、寂しい人生と呼ぶらしい。私は、毎日想う人がいない方が、よっぽど寂しいと思う。それも、負け犬の遠吠えだと片付けられるのなら、この国から情緒という言葉は消えてしまったに違いない。 恋人は一年前にこの部屋から出て行った。 私はまだ彼と過ごした日々が愛しく、大事だと思う。 あんなに愛した人はいない。こんなに愛しい人はいない。想うだけで憎らしくて会いたくて心が乱されるのに、思い出さずにはいられない。私の肌に触れる指も舌も、どんな極上の絹より心地よかった。あの腕で眠る幸福を当然だと勘違いしたから、私は彼を失ったのだろうか。 どれだけ深刻に考えても、別れは成り行きだった。 あっけなかった。よくある話だと笑えるような。遠距離恋愛って難しいものね、と語る親友に、私も素直に相槌を打った。よくある話だ。私は一緒に行けなかったし、彼も、ついて来いとは言わなかった。そんな無責任なことを言う人ではなかった。 そして長い蜜月は終わって、私は一人になったのだ。 休日の前の晩は、思い切り夜更かしをする。朝まで本を読むか映画を見る。人が動いている時間に眠るのが好きだ。その夜も、推理小説を読んでいた。 ミステリアスな美女が探偵役だった。犯人と二人で、挑発的な会話を交わしていた。いつも思うのだけれど、どうしてこういうとき、もっと人が多い場所で謎解きをしないのだろう。犯人と二人きりで会って犯行を突き詰めれば、身に危険が迫ることなんてわかりきっているのに。定番は犯行現場だ。案の定、主人公は危機に陥った。暗闇の中を逃げる。携帯電話が鳴る。 そこまで文字を追ったとき、違和感を感じて顔を上げた。考える間もなかった。突然大きな横揺れが襲ってきて、本棚に並べていた猫の置物が次々と床に落ちた。声も出せずにベッドにうずくまって、頭から布団をかぶった。足に何かがぶつかった。布団越しに柔らかな衝撃。揺れていた時間はほんの二分足らずだったのに、ものすごく長く感じた。カタカタと揺れが収まっていく。 怯えながら布団から出ると、本棚の上段に積んでいたハードカバーの本が数冊、足元に散乱していた。物の少ない部屋でよかった。すぐにテレビをつける。地震速報で流れた震源地は、隣の県だった。私の住む町の震度は4。キッチンを調べた。個人的な被害は、ノリタケのカップがふたつと、コーヒー用のサーバー。床に散った破片を踏まないように、掃除した。ため息をつく。窓の外はまだ暗い。 もらい物の紅茶ポットを箱から出して、ハーブティーを淹れた。犯人を追い詰めた主人公の行末を確かめなければ眠れない。今回助けに来るのは誰だろう。彼女の昔の恋人か、助手をしている青年か。 ベッドに戻って、散らかっていた本と置物を片付けた。熱い紅茶からはカモミールの香り。砂糖を入れていないのに、ほのかに甘い。 クッションに背中を預けて、ページをめくる。読み終わったときには、夜が明けていた。初秋の太陽はまだ元気で、日中は暑そうだった。カーテンを閉めてゆっくり眠れる幸福をかみ締める。面白い小説とおいしい紅茶と、無制限の睡眠時間があれば、私は十分幸せだ。 眠りかけた私の耳に、電話の音が響いた。時計を見る。朝の5時。非常識な時間の電話は、いたずらか訃報。そして、わずかな可能性が頭を掠めた。 受話器をもちあげた。もしもし、と声を出す。 『ミユキ?』 うん、と答える。わずかな可能性、の相手。一年経っても、私の名前を呼ぶ声は変わらない。 『地震があっただろ。大丈夫だったか』 うん、とまた答える。 『怪我はない?』 うん、と頷く声が、我慢できずに震えた。泣いてるわけじゃない、笑ってしまったから。 「あなたにもらったノリタケのカップが割れた。あと、コーヒーサーバーも。気に入ってたのに」 『そっか。でも、それだけで済んでよかったな』 そうね、とつぶやいたら、会話が途切れた。彼の呼吸までわかる。耳に全神経を集中する。つながった糸を指に絡めるように、沈黙を手なづける。 『そっちはまだ暗い?』 「今、夜が明けてるところ。太陽はまだ出てないけど、空は明るい」 『こっちは昼だ。お前、また朝まで起きてたんだろう。声が寝起きじゃない』 かすかに笑い声。さぐりあいを続けるには、相手のことを知りすぎている。手の内がわかっているなら、対応は簡単だ。素直になった方が勝ちだと、本能的に知っている。 「声が」 え、と聞き返される。 一年以上、顔も見てない。声も聞いてない。 離れたまま。遠い国で過ごすあなたを思うだけで、私の心は満たされていたのに、この声に乱される。穏やかで幸福な日々よ、さようなら。私はまた恋に溺れる。 「 ――― 距離は変わらないのに、声は近いね。今すぐに抱きしめられそうな気がする」 沈黙は甘い。もう彼にも伝わっている。 『まだしばらく、こっちで働く予定なんだ』 黙って声を聞いていた。耳に心地いい声。懐かしくて愛しい。 『状況は何も変わってない。ただ、来週仕事で一週間帰国する』 会いたい、と静かに言われて、私も、と答えた。あんまりあっさり答えたので、呆れたようだった。 『 ――― 相変わらず、マイペースだな』 「そうだね」 彼の言葉に従って別れた。今度は私の言霊を送る。 「まだ好きよ ――― 三年くらい、待っててあげるわ」 この馬鹿、とまた呆れた声。俺のセリフを横取りするな、と優しい言葉。キスがしたい、抱きしめたい、来週会ったら、たぶん会話は意味を成さない。懐かしい体温を求めてしまう。 ヨウコに話したら、また怒られるに違いない。先のことなんてわからないのに、って。わからないから、約束するんじゃない。 電話を切ったら、完全に目が冴えていた。二杯目の紅茶を作る。本棚から薄い本を手に取った。 長い一週間のはじまりは、よく晴れた日曜日だった。 (END) 05.12.26 |