LAST CALL
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 曇った窓を手の平で拭いた。皮膚が萎縮する冷たさの代償に、暗闇に舞う細雪がかすかに見えた。
 雪は音もない。深夜のホームはシンとしている。停まってから何時間も経つ電車の中、人々の寝息しか聞こえない。携帯電話で話すにははばかられる空気に、覚悟を決めて手動で扉を開けた。駅員に会釈して、ホームの隅に立つ。

 十二月末の凍てついた空気は、どう考えても氷点下だ。ダウンジャケットを首の上まできっちり締めて、駅の明かりに浮かぶ雪を、ただ見上げた。何も降っていないのかと思うほど細い、細い、雪。
 白い息が、早いテンポで自分の口から漏れていく。緊張なんてしているから、変に迷う。携帯は外気に順応してひどく冷たい。ボタンに触れる俺の指を拒否する。
 もう少しで、日付が変わる。
 コールは長かった。ひたすら待った。留守電になって切った。もう一度、リダイヤル。

 −−何?

 やっと応えた声は、そんな一語だけのくせに、涙まじりだった。
 ひどい鼻声だ。低く笑ったら、鼻の奥がツンとした。
「……雪で、電車停まった。朝まで動けないんだってさ」
 どこにも行けない。
 左手に握りしめたカイロは、ポケットの中でひかえめに熱を伝えた。
「そっちも、降ってる?」
 降ってる、と囁く声の後は、ただ沈黙が。
 電話の向こうの気配を、勝手に耳が探る。泣きわめく手前の、しゃくりあげる呼吸を、必死にこらえている彼女の、痛いほどの努力が、知りたくもないのにわかる。
「−−寒いな」
 うん、と頷くか細い声。
 もう隠せないと開き直った彼女は、「寒いよ。今カーテンあけたら、雪で真っ白。いつの間にこんなに降ったのかな」と、泣きながら言った。
 俺が部屋出た後からずっと外も見てなかったのか。メシ食ったのかよ。
 今更言えない言葉が、喉の奥でつまった。

「……知らない人ばっかの中で、電車の周りも駅の周りも、すげぇ静かなんだ。何も見えない。ちょっと、この世の終わりみたいな感じがした」
 ネガティブだねぇ。泣き笑いの声。ため息。
 なんで俺は、こうやって危機的状況になったときに、一番に声が聴きたい相手を、この女を、泣かせることしかできないんだろうな−−離れてさえ。
 互いに黙っていたら、体が寒さに震えだした。鼻水をすすって、平静な声を作る。
「もう車内に戻るわ。凍える」
 
 −−大雪で、全然動かないんだね。ニュースになってるよ。

 電話の向こうでテレビの音。噛み合わない会話に大きく息を吐いた。
「そうだよ」

 −−電車、戻ってくるのも、できないんだね。

 細くて栗色の、髪の手触りを思い出す。きっと携帯握りしめて、ベッドにうずくまって、ぼろぼろ涙流してるんだよな。戻って抱きしめてやりたかったけど、何回も同じ事して、もうダメだって身にしみたんだ。
 戻りたかったよ。
 つきあい始めの、何しても楽しかった時期に。約束守れなくて最初に怒らせたときに。話すのが面倒だったときに朝までかかってもいいから無理矢理捕まえて抱きしめて話せば良かった。

「朝になったら、動くよ」

 うん。
 風邪ひかないようにね。私があげたマフラー捨てたら、怒るよ。

「捨てるかよ。
 ……それじゃあ、な」
 携帯を閉じて、ポケットに入れた。次々あふれる涙を両手で押さえた。クソ寒い中、しっかり首に巻いたグレーのマフラーは、きっと捨てたくても捨てられない。やっと決心して、めちゃくちゃに傷つけて傷ついて、まだかさぶたにもなってないんだ。彼女から離れた途端に心折るようなことするなよ、天気の神様。
 きっと二度と掛けない番号を、消すこともできず、しばらくそこに立ち尽くしていた。細かった雪がふわりとした大きな固まりに姿を変えて、髪に、背中に積もる。
 朝になったら、また世界は変わる。そう信じるしかない夜もある。車内に足を踏み入れて目を閉じたら、マフラーに残っていた彼女の香りが涙腺を刺した。


(END)
2011.1.11

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